森の声が聞こえる / 横濱金平さん(山の加工場ネットワーク代表・デザイナー)


山の加工場ネットワーク代表・デザイナー

横濱金平さん

 松阪市殿町の御城番屋敷。城址の石垣からつづく緩やかな坂道に沿って、大きな武家長屋が二つ並ぶ。石畳と緑の生垣、長く連なる瓦屋根が美しい。生垣越しに「金平さ~ん」と呼ぶと、「は~い」と軽やかな返事が聞こえた。のぞき込むと、庭に面した縁側に、愛猫の茶々姫を抱いた横濱金平さんが座っていた。

不思議な木のスピーカー

いかにも武士の家らしい表玄関の式台に、薄板を丸めた小さなオブジェが飾られている。「僕のつくったスピーカーで、これは水芭蕉のイメージ。ここから音が出るの」と板の部分を指す。「ほ~」と驚きつつ、内玄関から中へ入ると、室内にも、百合や鳥の羽のような形の木の板が細い棒の先で揺れている。奥の間に置かれた大きな座卓は厚い一枚板で、素木の表面がさらさらと掌に心地よい。卓の前に座っていると、軽やかなマリンバの音が聞こえる。音に全身が包まれるようで、わずかに振動も感じる。

「このテーブルの面全体から音が出てるの」

と金平さん。

「このテーブルの上に横になって音楽を聴いているうちに眠っちゃう人、多いんだよね~」

と言いながら、背の高い、羽ばたく鳥のようなスピーカーを持って来た。その羽の部分を外して棒の先を天井板に当てると、天井からバッハが流れ出た。音が降るように体に伝わって、心地よい。

金平さんは、こんな不思議な木の音響装置をいろいろ作っている。

進取の気性を受け継ぐ

横濱金平さんが生まれたのは、昭和26年(1951)、岩手県盛岡市。実家は南部藩(盛岡藩)藩士のお家柄。それもあって、新渡戸稲造を尊敬している。

「『武士道』を読んでもすごいと思うし、〝我、太平洋の橋とならん〟なんていいじゃない。南部藩というのは、元来そういったフロンティア精神のあるところだったんだね」

進取の気性とともに、執着心がなくて面白いことが好きなのも、ご先祖譲り。

「曽祖父は地元の議会で議長を務め、祖父はイギリス留学もした鉄道の技師。昔は裕福だったけど、苦学する若い人たちのためにお金を使ったりして、家運はジェットコースターみたいに上下した。僕が小さい頃は貧しかったね」

姉妹に心配される〝極楽とんぼ〟

多様多彩な情報に精通し話の尽きることがない金平さん。手先も器用で、料理も得意、さまざまな物作りを楽しむ。

「子供のころから、直感的にやりたいと思ったことだけをしてきた。気の向かないことは一切しないから、試験勉強なんてしたことなかったね。姉と妹がいるんだけど、ずっと二人から心配されていた。〝極楽とんぼ〟なんて言われてね。きっと今でも心配してるんだろうね」

自由奔放に育った金平さん。18歳になるとすぐに運転免許を取得。ピンク色のヒルマン・ミンクスという1956年式の車を6千円で購入し、これで登校して周囲を驚かせた。

「先生には叱られた。でも、生徒手帳を隅々まで読んでも、自家用車で通ったらダメなんて書いてなかったんだよ」

と笑う。若い頃は車が大好きでロードレース等にも出たという。

大阪でライダーデスクをーー

高校の先生の勧めで仙台の大学へ進学し、建築史や工業デザインを学んだ。そして大学の恩師の勧めで、大阪のジャパンインテリアデザインという会社に就職した。

1970年の万博後の大阪。万博景気は過ぎてはいたが、日本全体が〝イケイケ〟だった時代だ。

「〝高島屋(当時のインテリア部門)に負けるな〟とか言って、みんなが張り切っていたんだよね」

そこで金平さんが先輩と共同で担当し爆発的に売り上げた商品は、「ライダーデスク」。小学生向けの学習机だ。

「激しい社会批判に晒されたんだけど、子供達にはすごくうけて、よく売れた。新建材と塩ビの塊みたいなデスクで、塩ビに印刷する木目までデザインしてしまうような人工的なものだった。今振り返ると、そういう、いわば環境に良くない仕事も沢山してきたし、僕自身が生意気でもあったね」

三重にいざなわれて

「大阪では、安藤忠雄さんが『住吉の長屋』を発表して活躍し始めていた。ユニークさや正直さに惹かれ、全身全霊で精神性の高いものを作ろうとしている姿を見て、共感を感じ憧れも持った」

そして、30代で独立。大阪に事務所を開いた。

「営業に行かないから仕事もないし電話もかかってこなくてね、ずっと話さないから声が出にくくなったの。これはまずいなと思ってーー」

営業活動をしたのかと思いきや、金平さんは

「近所にあった朝日カルチャーセンターで、ピアニストと声楽家のご夫婦がカンツォーネ教室を開いてたから、習いに行った。楽しかったよ」

という。煎茶道に惹きこまれたのも大阪にいた頃だ。

そうこうしているうちに仕事も徐々に増え、クライアントの一つに三重県津市にある会社があった。この会社に通ううち、商品開発の担当役員として勤務することになり、単身赴任で三重に移り住んだ。ここで金平さんが手がけた商品は内装材。余技で一枚板のオーダーテーブルも扱った。高価だがよく売れたという。

森が国を救う

この頃、木材のことを知るために山に通った。

「いろんな山を見て歩き、いろんな人に話を聞いて、自分で勉強もした。そのうち、木の声が聞こえてくるように思えたんだよね。この山の木は健康に育ってるなとか、この森は木がつらくて不満が一杯だとか、分かるようになった。そして、更に勉強を続けていくと、森をちゃんとしていくことが日本のさまざまな問題の解決につながることや、木が日本人のおかしくなってしまっている暮らしと心を直してくれるということが分かった。そして、それが自分のこれからのライフワークというかテーマだと考えた」

再び独立し、鈴鹿と松阪を拠点に、木によるインテリアや間伐材の使用法などに取り組んできた。

〝木〟で〝音〟を伝える

金平さんのテーマは“木”。木によって暮らしの質を変え、森を守り、ひいては環境全体を守りたい。そしてもう一つ、金平さんの中には〝音〟というテーマもある。

「人間には、いい音を聞くことが必要なんだよね。機械的でない音が。その音を追求して、やっと、一点に集めた音を大きな木の面から響かせる音響装置をつくることができた。これは今までの概念になかった発想と技術なんだけど、国際特許も取得できて、音の専門家の人たちに僕の考え方やつくったものをきちんと評価されるようになって、うれしい」

木から流れ出す音は、窮極の癒やしである。

「いつだって、過去の否定ではなく、新たな創造で未来をひらきたいんだよね」

金平さんは、軽やかに、楽しく生きる人だ。

ジャズと文庫本―安居(あんご)の如くに酒を造る―/新良成生さん (新良酒造 蔵元・杜氏 )

大和や熊野から伊勢へと続く旧街道が、山並みを越えて松阪の城下に入ろうとする辺り。軒先に小さな杉玉を吊した新良酒造(株)がある。店から奥へ長く続く、煙突のある醸造場や蔵は、昔ながらの〝酒蔵〟のイメージそのままだ。

清らかにまろやかな〝水〟

「創業は明治元年(1868)頃といわれています。でも、詳しいことは分かりません」

と語るのは、主の新良成生さん。

新良家の井戸には、清らかでまろやかな水が、昔と変わることなく湧きだしている。

「この水は、鈴鹿山脈から続く布引山系の伏流水なんです。この水があったから、先祖はここに酒蔵を建てたのだと思います」

酒造りに良水は不可欠だ。水のうまさは酒のうまさに直結する。新良さんが何気なく淹れてくれたコーヒーさえ、他では味わえない美味だ。

「今汲んでいるのは、おそらく20年か30年前に天から降った水でしょう。それが山々に染みこんで、やがて深い地の中を流れてここに湧きだしている。本当に良い水ですよ。水は命だと、つくづく感じますね」

 インドの風に吹かれて

新良さんは昭和27年(1952)松阪に生まれた。上京して明治大学に入った頃、大学は学生運動の嵐の中だった。

「〝ベ平連〟などの活動が活発な時代で、当然のように参加しました。だけど、学生運動は無力感が残ったし、卒業後も何かしら閉塞感がありました。そんなとき、先輩の一人が台湾に行くことになり、僕も一緒に行った。窓が開いたようでした」

そして、ふと「エベレストでも見よう」と思い立ちネパールに向かう途中、インドで気持ちが一変した。食べ物も、騒々しさも、人の動きも、女性たちがまとうサリーの色鮮やかさまで、何もかもが面白かったという。

「インドにいればいたで、イライラするんですよ。だけどインドから出ると無性にまた行きたくなって、20代半ば頃から30代まで、何度も訪れました」

インドの熱い風に吹かれるうちに、新良さんの中でなにかが壊れ、なにかが生まれた。

「外の宇宙に対して体内にも宇宙があると捉える世界観とか、破壊と創造を同じ神が司る宗教とか、強烈なカーストの中で生きる人生とか…そういうものに触れているうちに、だんだんと、人と競べることにたいした意味はないと、気持ちが変わっていった――ということでしょうか」

 蔵元と杜氏の二刀流

酒蔵を継いだとき、自分の手で酒造りをはじめた。

「僕で、4代目にあたるのかな。でも、気持ちは初代です。父までは純然たる蔵元で、酒造りはしなかった。だけど、僕は経営だけじゃなくて、自分で造りたかった。この水で〝自分好み〟の酒を造ろうと思ったんです」

蔵元と杜氏を兼務するのは、三重県では新良さんが最初だ。

「最初の2年ほどは、毎年来てもらっていた麹屋さんについて修行しました。その後、自分の造りたい酒を追求した」

日本酒を飲む人が大きく減っていった時代、業界全体が構造不況の中にあった。

「今も日本酒の蔵元は経営が大変なところが多いと思います。うちも状態は悪かった。でも、たくさん造っているところと量を競べたり、売り上げの多い会社と金額を競っても何にもならない。だから業界の慣習を破って、自分のやるべき事をやろうと思ったんです」

 米も自分も変わってゆく

「僕が目指すのは、米を最大限に活かした酒。それが〝自分好みの酒〟です。だから純米酒にこだわりました」

米は富山の契約農家がつくる有機栽培の五百万石。米を研ぎすぎず(精米度合は約65%)その旨味を追求している。

「代々使ってきた『千代の松』から『夢窓』に名前も変えました。南北朝時代の僧・夢窓疎石は伊勢の国の人で、その思想や作庭が好きなので、それに因んだ名にしたんです」

毎年冬になると、米と水に対峙して酒をつくる。

「酒は、毎年同じように醸しても、同じにはならないんです。その年の季候によって米も違うし、気温も違うし、自分だって変わっている。じっくり様子を見ながら、最善を尽くすわけです」

 〝ふなくち〟から〝セメ〟まで

酒のその時々の良さを大事にするのも新良流。

「酒は、醸して、絞りはじめの〝ふなくち〟〝あらばしり〟と呼ばれるものから、〝中ダレ〟を経て、絞りきる時の〝セメ〟の複雑な味わいまで、どんどん変わっていくんですよ。多くの酒蔵では、それを均一化して品質管理をするのですが、僕はできるだけ、その時々の旨さを大事にしたいと思っています」

〝ふなくち〟のガスを含んだようなフルーティーさと〝セメ〟のこくのある味わいは、同じ樽から絞った酒とは思えないほど違う。

「日本酒の専門家の評価基準には合わなくても、それぞれがうまいと感じるものを楽しめばいいと思うんです」

時の流れにゆだねた酒

酒は、時を経て、また多様な変化を見せる。新良酒造にはたくさんの古酒が蔵されている。日本でもめずらしい熟成日本酒は海外での評価も高い。この古酒、思い通りに造ろうとして造れるものではない。

「経年による変化を、僕自身が見たかったんです。歳月を経て、こういう結果が得られるとは思っていませんでした」

小瓶に入れたサンプルは、淡い黄色から濃い褐色までさまざまな色をしている。味も、もちろん違う。

「同じように仕込んでも、年によって、色の濃さも味わいも異なるんです。古くなるほど濃いというものでもなく、貯蔵の仕方でも違ってきます」

たとえば昭和63年(1988)、昭和天皇のご病状悪化と冷夏に日本列島が沈黙したこの年に仕込まれた酒は、30年の眠りから醒め、光のもとに汲み出されると、金色にかがやく酒となっていた。なめらかにひろがる香りと味わいは芳醇そのもの。そして爽やかさも――。

「これは、きれいな色と味になりました。多くの人に好まれるでしょう。しかし、別な年の濃厚なものが旨いという人もあれば、もっと淡いものが好きという人もあり、好みは分かれます。それぞれの良さを楽しんでほしいからブレンドはしていません」

時の流れにゆだねた酒は、奇蹟のように、それぞれが魅力的な個性を持った古酒となった。

安居(あんご)の如く

内外での受賞経験も多い新良さんだが、今はあまり興味を持っていない。

「仏教用語の〝安居〟ってあるでしょう。雨期、静かに修行して過ごすことですが、そんな気持ちです。一人も良いし、たまに仲間が集まるのもいい」

仕込みの時期には学生時代からの友人たちが来て手伝ってくれる。壁や天井に木のスピーカーを仕込み、居室はジャズ、蔵にはクラシックが低く流れる。音楽の中で造った酒は、蔵で長い夢を見る。この蔵で、集まったり孤独になったりを繰り返しつつ、主は文庫本を片手に、安居の如く酒を造り、暮らしている。