
ほ:1月「第10回 古田家の闇と光(前編)は、思いのほかの反響がありました。
悦:いろいろな意味でね。古田家大好き!とおっしゃる方には、ちょっとショックだったかもしれませんが、私のところには、松岡正剛さんの登場に驚かれた人から連絡が入りました。あと、写真ですね。ああ、20年たったのだと、転た今昔の感に堪えないですね。
ほ:はい。「写真を見て誰かと思った」などのご連絡をいただき、自分の上に流れた歳月の重さをかみしめました。初めて松岡さんとご縁をいただいたのが30年ほど前、岡野先生とは20数年…長い時間がたったなぁ…と。
悦:松岡さんは、「継続するということが、一番人を変えます。やめないということが大事なのですね」と言われました。この連載も頑張って続けましょう。
ほ:はぁ…。では、挟み込みの続きを読みましょう。今度は茶人としても有名な古田織部(1544‐1615)が出てきます。漫画の「へうげもの」などでも、個性的な武将として知られています。松岡さんは「織部は日本のバロックを体現している」なんて評されてましたね。
ほ:最初から問題ありですね。
悦:織部の祖父が古田信勝、つまり重勝、重治兄弟のお父さんの弟となっています。
ほ:一代まちがってるというか、変ですね。
悦:『松阪市史』解題の系図では、信勝、重定の祖父は、「五郎左衛門」とあります。こちらの方が理解しやすいので、これを採用します。
ほ:つまり信勝の弟・民部少輔重定の子が織部正重然(重能)ということは、重勝、重治と織部正重然は“いとこ”なんですね。では信勝、重定の父はどなたですか。
悦: 『松阪市史』の系図では「五郎左衛門」とあります。挟み込みでは「民部少輔」ですね。このあたりは、またわかったら、ということで保留としましょう。
ほ:はい。重然、つまり織部は、豊臣秀頼に仕えて1万石をもらっていたのですね。
悦:少し待ってください。その前から話しますね。まず、重然、「重」だらけで紛れるといけないので、織部と呼ばせてもらいます。織部は、織田信長の美濃侵攻時に父と参戦します。
ほ:ずいぶん遡りますね。
悦:そして、山城、摂津の代官をしていました。やがて秀吉に仕え、天正13年従五位下織部正に叙任。山城国西岡3万5千石を領有します。今の京都市西京区から向日市、あのあたり一帯ですね。
ほ:従五位下はわかるけれど、織部正というような(あざな)というか官職名も頂くものなのですね。
悦:勝手に名乗るものではなかったのでしょう。言われてみたら、なるほどと思いますね。天正15(1587)年の九州征伐。
ほ:「征伐」って、嫌な表現ですね。桃太郎の鬼征伐じゃないのだから…。
悦:大きな平和のためには小さな犠牲、国家統一の為にという大義名分があるのでしょうね。以前、教科書検定でもありましたね、侵略はだめで進出にとか。呼び方を変えたからどうなるものでもないですが、取り敢えず、九州遠征にも参加して、同18年の小田原攻めにも参加しました。
ところで、何か引かりませんか。
ほ:?
悦:では西暦で言いますね。古田織部重然は、1544年生まれ。では、伯父(父の兄)さんの子の重勝は1560年生まれ。さらに弟の重治は1578年生まれです。つまり、いとこと言っても、織部と重治では34歳という年齢差があるのです。
ほ:あぁ、いとことしては年齢差が大きいのね。でも、まあ、ないことではないですよね。
悦:さらに織部の祖父は信勝の弟だと一代入れると、年代的に破綻するのです。
ほ:それは、そうですね。
悦:この年齢差を頭に入れておかないと、混乱をきたすかもしれません。もう少し織部の経歴を続けます。小田原攻めの頃から茶人・千利休との関係が深まります。
ほ:利休から「武蔵鐙の文」を頂いたのもこの時ですね。
悦:おお、お茶の心得があるからよくご存じですね。
「武蔵鐙 さすがに道の 遠ければ とはぬもゆかし とふもうれしゝ」
という歌を最初に書くので「武蔵鐙の文」と呼ばれています。小田原からさらに関東を転戦する織部からの来信に、隅田川、筑波山、掘兼井など歌でいいねと羨む書簡です。私は利休400年忌の特別展で拝見しました。
ほ:「伊勢物語」の本歌取りなんてしゃれていますね。戦地にある弟子に名所の話題とは、余裕ですね。
悦:さすが師弟共に風雅の人です。
ほ:天正19年、堺蟄居を命ぜられた利休を淀で見送ったのは細川三斎と織部でしたね。
悦:利休七哲ですから。でも師の利休が自刃、そして秀吉も亡くなると、織部は西岡も嗣子の古田山城守重広に譲り、自分は亡父の遺領3000石を隠居用として伏見に隠棲して茶事に没頭します。だが、時代はまだ織部を離さなかったのです。慶長5年、関ケ原の合戦での働きで家康に認められ、近江国に7000石もらいました。
ほ:あ、合わせると1万石ですね。
悦:慶長13年には、織田有楽斎と豊臣秀頼に献茶をしたという記事があります。
ほ:“数寄者”には豊臣も徳川もないのかしら。お父さんの重定も数寄者でしたよね。
悦:豊臣秀吉の同朋衆で勘阿弥を名乗ってましたが、後に還俗して古田主膳正重定と称しています。
ほ:観阿弥、世阿弥は能楽ですが、芸事の人たちの名前には「阿弥」が付くことが多いですね。
悦:もとは「阿弥陀仏」の略だそうですよ。浄土宗、特に時宗系の人が多いけれど、将軍や大名の身の回りの世話をしました。特に、能楽や作庭、書院飾りなど、芸術文化系で仕える人が有名ですね。権力者に近侍する人は、中国なら宦官ですが、日本には去勢の風習はありませんから、一応、僧体、出家ということになります。戦国時代になると、同朋衆もやはり阿弥を名乗りますね。
ほ:お伽衆とかもその仲間でしょうか。重定も茶道に詳しい同朋衆だったということですね。
悦:その息子が織部で、千利休の高弟であり、茶の湯の一時代を画する人となるのです。
ほ:「織部焼」と呼ばれる陶器など、今見ても斬新なデザインで新しい美を提案しました。織部燈籠、織部盃、織部棚などその好みを反映したものには名前が冠されていますよね。
悦:天才的な美意識を持っていたけれど、武骨な人からは厭われたか、ねたまれたのでしょう、数寄者の考えてることなど訳が分からぬと。豊臣秀頼に内通した嫌疑で、摂州木幡で切腹したとあります。木幡といえば山城国宇治の近く、藤原家の葬地のある当たりを言いますが、摂津とあるのは、ちょっとわからない。また織部は、伏見の自邸で切腹したと言う説もあります。
ほ:京と大坂を間違っちゃったのかな…。ここでは、息子の古田重弘は伏見の自邸で切腹したと書かれていますが、『駿府記』には「伏見で切腹」と書かれ、『断家譜』には、「江戸の本誓寺で斬首」とあるそうです。切腹の場所もですが、私は、ここに、なぜ直接松坂とかかわりのない織部のことを書いてあるのかをちょっと不思議に思います。古田重治と織部は混同されがちだから、いとこであって別人だということをはっきりさせるためでしょうか。それとも古田一族の中のスターだからでしょうか?
悦:有名人は、系図の中に入れておきたいと考えるのは世の常です。
漫画「へうげもの」(2005年 山田芳裕 講談社)
古田織部が主人公となっている
ほ:次に系図が入ります。
ほ:系図については、勢州松坂会の古田ファン・北出さんがいくつか調べてくださいましたね。ここでは、重勝・重治・助左衛門が3人兄弟とされていますが、重勝・重忠・重治、あるいは重勝・重治・重忠の3兄弟など、複数の説があるようです。特に、助左衛門のことはこの後に出てきますが、弟なのでしょうか、家臣なのでしょうか。
悦:『松坂権輿雑集』にこれまで引いてきた資料では、助左衛門は西方の木食と堂々と対峙していますね。もし重治の弟だとすると、1579年より後の生まれだから、1600年の関ヶ原の合戦時には20歳になるかならぬかでしょう。ちょっと難しいでしょうね。
ほ:父の弟という説もあるみたいでしたね。そっちのほうが納得できます。記述は続きます。
松坂城址にある助左衛門御門 跡地横の石柱
ほ:古田家は伊賀上野城主筒井伊賀守宣次(あるいは定次か)の幕下だったとありますね。
悦:伊賀上野城主・筒井伊賀守定次です。幕下は「バッカ」と読み、家来ですね。定次が宣次と名乗ったとか、真偽未詳の情報ですね。定次は、かの有名な筒井順慶の養子です。
ほ:筒井順慶(1549‐1584)は、山崎の合戦の時に、明智光秀と羽柴秀吉の戦況を眺めて、有利な秀吉についたことから日和見主義と揶揄された人ですね。でも、それは俗説で、実際はそうじゃなかったと最近は名誉回復してるらしいです。この人も茶人ですね。順慶が亡くなった後、筒井家は秀吉から伊賀上野に転封され、なんやかんやで関ヶ原には参戦できなかったので、筒井家には戦後の加増はなかったようです。続きを読みます。
ほ:この前半は、重勝が徳川家康の会津上杉攻めに加わったということですね。「石田の乱に付き松坂を攻む」は西軍が重勝不在の松坂城も攻めたと解釈しておきます。そうだ。話が関ヶ原に戻ったところで、前回読まなかった、宣長本にある欄外の書き込みを読ませてください。これは「古田重勝出陣の事」の本文中、上部の欄外に書き込んだものです。重勝が弱気になったのを助左衛門が「切腹する」と言って戦意を取り戻させたところに、松坂城に向かって敵の西軍が押し寄せてきたと城下が騒然となる場面です。
悦:『藩翰譜』(はんかんふ)は、元禄15(1702)年に新井白石が編纂した武家の系譜書です。鍋島重勝は、前々回紹介した富田信高の妻のことを記した武将です。
ほ:ああ、芳年の絵になってる日本戦国版リボンの騎士ですね。で、その人たちが津のお城を落とした後、松坂城を攻めようと一万余騎で押し寄せてきたと。そこへ父の加賀守から、松坂城は究極の要塞だから簡単じゃないからととどめたので、遠くから見ていて日が過ぎるうちに、関ヶ原で西軍が負けてしまったので、帰って行ったと。
悦:松坂城の落城については諸説入り乱れて薮の中でしたが、まぁ、この辺りが無難な着地点でしょう。
ほ:宣長さんも、そう思って書き込まれたのでしょう、ということにして、元の宣長の挟み込みに戻ります。ここでも「弟助左衛門」とありますね。
悦:系図も、弟になっていますね。
ほ:はい。そして、助左衛門が城を見事に守り通したので、その功績で、知行をいただくこととなったということだ。その後、重勝が亡くなり、まだ重恒が幼かったので、重治が陣代をつとめたとあります。
悦:主君が幼い時、家族また老臣などが軍務。政務など全てを見るのが「陣代」ですが、どこまでも正式な藩主ではないわけです。難しいですね、初代重勝、2代重治と普通に言ってますからね。重治は、本当に藩主だったのでしょうか。
ほ:例によって、分からないことだらけですね。
悦:もう一つ疑問は、「筒井につきて少々不首尾の由」です。これで富田は伊予国に、古田は石見国浜田に移封されたという伝承です。慶長13年、筒井家は同家の内紛で改易となります。いわゆる「筒井騒動」ですが、その煽りを食ったというのです。
ほ:二人は筒井家の幕下だから、ということですよね…でも、古田が石見国浜田に移ったのを「元和元年(1615)と云ひ伝ふるは相違なり」とありますが、それは元和5年のことですから、いずれにしても、この異説はまず無視してよろしいかと――。
悦:仰せの通りです。だんだん、歴史のわからなさに慣れてきましたね。
ほ:う~ん、どうかな。慣れてよいものか、分かりませんが…。さてつづき、
一、 日根野権之助は、台徳院様御小姓にて召し使えられ、今も子孫お旗本なり。
ほ:先の系図では、日根野権之助は古田助左衛門の孫でしたね。
悦:きっとそうでしょう。父も同じ助左衛門を名乗りますが、重勝を補佐したのは、権之助からは御祖父さんの助左衛門ですね。お家断絶後、台徳院様、つまり徳川2代将軍秀忠の御小姓となって、その子孫は今も旗本として続いているらしい。
ほ:仕官の口があって良かったです。そういえば、助左衛門の息子は関ケ原以前から江戸で家康に預けられていましたね。ま、分かりませんね。
右は、石見濱田家中 石川金之丞の父、白翁という人の説也。
ほ:これは、石川金之丞の父・白翁の話だ、とあります。石川父子とはどこの誰なのかは置いておきまして、この「右」というのは、どこまでの記事を指すのでしょうか。
悦:系図も含め、「古田氏之事」全部かな。今回の記事は、何度も言うようにかなり通説と違いますから、「以上、石川白翁さんの説を紹介しました」と解釈しておきます。
ほ:だから宣長は、変だなと思いながらも、全部引いたのですね。白翁さん、ところどころあやしいな…とか、思っていたでしょう。
悦:と思います。そしてこの情報をもたらしてくれた人が、やがて登場します。では続けて最後の段を読んでください。
悦:古田家の菩提寺恵賢寺は、恵堅寺とも書きますが、この時は浜田にあり、もとは松坂中町慶聚院小路にありました。
ほ:中華そばの不二屋さんの横の通りですね。濱田家中小篠道冲の書付をもらったのですね。
悦:小篠は宣長の高弟です。その報告は、おそらく宣長の目からも『松坂権輿雑集』本文とは食い違いが多くいかがかとは思ったでしょう。『権輿』が正しいとは言えませんが、それにしても?だらけですよね。でも、これが宣長時代、浜田で伝承されていたのなら。書き残す意味があると考えたのでしょうね。
ほ:でも、重勝が浜田城に所替、その次が重恒で、重治が出てきませんね。浜田開府に力を発揮したであろう重治が出てこないなんて、考えられないですが…。
悦:仰せの通りです。
悦:『松阪市史』に載っている「寅年勢州松坂町迦無役所検地帳」、この「寅年」は寛永15(1638)年です。「迦」は、お釈迦の「迦」ですが、「市史」では、はずれと訓んでいます。そこには、
悦:とあります。「同ひかへ」は、隣の慶聚院の「控え」、つまり管理地ということですね。
ほ:お、長野九左衛門が出てきましたね。
悦:何か嬉しそうですね。
ほ:『権輿雑集』にはしばしばこの名前が登場しますので、親近感を覚えています。かなり活躍していて、優れた人だったようですね。
悦:松坂が紀州家の支配地となった時に、この町で陣頭指揮を執った人ですね。古田は、その長野氏に恵賢寺にある墓の管理をゆだね、隣の慶聚院が管理することとなり、土地もそこに寄進されたということでしょうね。
ほ:恵賢寺は浜田へ移転したのですね。ここの記述は現実味があります。「お墓の掃除も…」とかリアルでしょう。
悦:お墓と弟子僧一人を残していったのです。
ほ:だけど、浜田のお寺も、おそらく古田家が滅びた時に廃寺となったのでしょう。世の常とは申せ寂しいものです。その跡地に次の藩主となる松平家の菩提寺・長安院が建ったのですね。さて、次の章。古田家の“光”の部分に入りましょうか。
悦:先だっての勢州会で、浜田時代の古田家についての研究をされている方があるとの話もありましたので、謎だらけだった古田時代も、解明が進むかもしれませんね。
ほ:ええ、たいへん期待しています。古田については浜田と、氏郷については日野と会津と、情報共有が必要だと思いますね。
「本居大平の古田調べ」

「松坂の古田史跡」
「古田重治の位牌」(大平写)
本居宣長の養子・大平は、古田重治の5代ほど後の子孫と伝えられる。だから、大平は「自分のルーツ」と、石見国浜田の小篠敏らの協力で、一生懸命に古田家のことを調べた。
悦:異本では、古田大膳大夫重治は、古田大膳亮重勝とありますが、これは無視します。また、「幼稚」とある脇に「父卒去のとき三歳」とあります。重勝が没した1606(慶長11)年にわずか3歳、これは蓋然性があります。つまり、古田重治は重勝の弟で、重勝の息子希代丸がまだ幼いので、重治が後見として相続したとあります。前の挟み込みには重恒は重勝の養子で甥とありましたが、ここではそれには触れていません。
ほ:甥であり、重治の子ではないのだから、他の系図にある3兄弟のうちの重忠または助左衛門の息子かということになりますね。でも、助左衛門には、関ヶ原の合戦の前から江戸に行って家康に仕えている大きな息子がいますから、ちょっと違う感じかな…。
悦:それですがね、先の所で古田助左衛門は降参しようかと迷う主君重勝に「私世倅小熊江戸に被召置」とあるのを ほ さんは「仕えている大きな息子」と解釈されますが、子どもで人質だったかもしれませんよ。助左衛門が重勝の弟だったらなおさらです。さて、重勝が亡くなったのは、第7回に読んだ章には慶長11(1606)年とありましたね。そのあと、重治は大坂冬の陣、夏の陣にも出て、三年間を松坂で過ごしたようです。そして、理由は諸説あるようですが、伏見城にいるときに元和5(1619)年の5月に浜田へ所替えを命じられ、7月には松坂に戻らぬまま石見の浜田城に移ります。家康は元和2(1616)年に亡くなっていて、もう徳川幕府は安泰となっていますね。
松坂城の「きたい丸」
名前は重恒の幼名による。
ほ:あわただしく移っていったのですね。重治も松坂にいたのは実質的には3年だけでしたね。続けましょう。
ほ:「太閤記」からの引用が続きます。播州三木之城を囲むとあるのは、天正6年の三木合戦のことですね。「三木の干殺し」と呼ばれた怖ろしい兵糧攻めだったらしいです。そこに、古田兵部少輔(重勝)、大膳大夫(重治)兄弟も参戦していて、その後で松坂城を与えられたと。
悦:重勝が亡くなった時、ここでは子供がまだ三歳なので、重治が兄の相続をして兵部少輔と名乗るよう、家康から言われていると書かれています。しかし、重治は、忝いお言葉だけれど、この子どもに相続をさせて兵部少輔と名乗らせることを希望します。家康は、今どき珍しい律義者だと感心したのですね。
ほ:で、元和6(1620)年ごろ、その子が成長したので、重勝が残した茶道具を相続させ、6万石もそのまま渡したと――。当時の財産って、茶道具が大事だったんですね。
悦:そうですね…。ただ元和6年というのは、ちょっと留保したほうが良い。元和5年に浜田に入って、まだ城も町も無いところですから、一通りの整備をしてから重恒に譲ったと考えたほうがいいでしょうね。それは違うという史料が出てきたら、この説は撤回しますが。いずれにしても、やがて重恒に藩主の座を渡した後は、物寂しいような質素な様子で江戸に住んでいたとあります。
ほ:重恒が大人になってから、重治は浜田を出て江戸にいたのですね。江戸城に務めたのかしら。浪人かな…。潔白なことこの上ないと誉めてありますね。でも、重恒は、本当は見張ってなくてはいけない危険な若殿でした。重勝が亡くなった1606年に3歳だった重恒は1620年ごろ、17歳ぐらいで家督を継いだのですね。重治がもう少しの間そばにいてやれば、あんな騒動を起こしてお家断絶とはならなかったかも…と思ってしまいますが、それは言えど詮なきことですね。
悦:清廉潔白でストイックな叔父と、自分を見失った狂気の若殿とが裏表になっているのですね。
ほ:ようやく次回は紀州徳川家の領地になってからのお話に入ります。
悦:九左衛門が頑張りますよ。
ほ:楽しみです!
『松坂権輿雑集』を読んでみた|2026.02.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集