COLUMN

第13回 武士が激減! 町人のまちが開花する

「紀府御領城と成る事」

ほ:桜も咲いて、春が来ましたね。

悦:世界情勢もガソリンの値段も、先行き不明な昨今ですから、短い春を大事に楽しみたいですね。

ほ:そうですね。世界を見るとなんだか怖いようですが、このまちは、今まで読んできた松坂に比べたら、まだ平和です。

殿町のしだれ桜 (令和8年3月23日)

悦:ええ、戦国の乱世に比べれば、今の日本は安全です。今回は、古田家から紀州徳川家への受け渡しになりますね。では読んでいきましょう。

一、元和五己未(1619)年、紀府御領城となる。御家・大薮新右衛門某、井村善九郎某、笠原助左衛門某、古田家臣・古田助左衛門と松坂にて、御城請け渡し、右大藪氏、暫く逗留し諸事作略す。同年、長野九左衛門清貞、仕置きお代官として松坂に到着す。寛永十四丑年(1637)迄、在役にて之を主(つかさど)る。夫れより両役中之に代り、元禄十五午年(1702)、旧例を改め御城代衆之を主る。

ほ:1619年に松坂は紀州徳川家・和歌山藩の管轄となります。大藪新右衛門、井村善九郎、笠原助左衛門が来て、古田家家臣の古田助左衛門と城の受け渡しをしたのです。しばらくは大藪が逗留して、諸々の準備を整えたとあります。徳川幕府が開かれたのが1603年ですから、それから16年後。ちょっと落ち着いてきたな…って感じのころですか。「御家」というのは紀州徳川家のことですね。筆者の久世兼由はこの藩の役人ですから、「御料城」とか「御家」とか自分の属する藩に敬意を表してるのでしょうか。自分のところに「御」を付けて、古田家には付けないのは、今の感覚とはちょっと違いますね。「御社が」「弊社は」とかいうでしょう。

悦:そうですね。当時の武士の感覚では、自分の仕える藩をへりくだる感覚はなかったでしょう。忠義を尽くしているのですから“お家大切”ですね。対外的な場合は別でしょうが、この場合はこれが妥当なのでしょう。このとき、紀州藩から派遣されてきた大薮新右衛門という人は、元和5年の「紀伊徳川家分限帳」に出ていましたよ。御鉄炮衆与力附という役職で、千石の知行です。

ほ:ネットで見ますね…出てきました。知行高で言うと、20数番目かな… 。まぁまぁえらいさんですね。ぱらっと見たところ、この表には多分千人以上の名前がありますが、井村善九郎某、笠原助左衛門某という名前は出てきませんね。鉄砲衆与力大藪新右衛門組 というところに5人の名前がありますが、ここにもありません。この人達はこの時点で大藪の部下だった人たちですよね。

悦:この二人は、大薮新右衛門の家来なのかもしれません。紀州徳川家は御三家だけあって大所帯ですね。ここで、松坂は大きな転換を迎えます。城主がいなくなるわけです。

松坂大転換 藩主交代

ほ:氏郷はあちこち転戦していたし、服部一忠は京都にいて、古田重勝も江戸城の普請と、いずれも松坂にいる時間はほとんどなかったかもしれません。でも飛び地となると、ちょっと事情は異なりますね。

悦:町の中の武士の数が激減したはずです。

ほ:元和元(1615)年に大坂夏の陣が終わり、古田の治世も重勝、重治と2代、ようやく松坂の城下も落ち着きだして…というときに突然の転封。またまた大混乱ですね。家臣だけでなく、職人や商人たちでも浜田に付いていった人はいたでしょうね。

悦:のちの話ですが、古田家がお家騒動で断絶したときに、松坂に逃げ帰ったという、いわゆる「古田崩れ」があったそうです。家臣は、致仕しない限りは移動しますね。出入りの人や職人なども向こうに行った人もいるはずです。氏郷の時でも近江国日野から松坂に移り、また会津に移っていった木地師集団もいたそうです。

ほ:特産の会津漆器とも関係あるのかもしれませんね

悦:石見国浜田には、石州瓦という有名な瓦がありますが、その職人は、古田氏が浜田に移る道中で召し抱えたそうですよ。

ほ:瓦師や畳師など絶対必要だから、優秀な人を搔き集めたのでしょうね。

悦:他所からやってくる人もいます。これは寛文年間というから40年程後の話ですが、「権輿雑集」巻10「瓦町之事」に、豊嶋屋吉兵衛は尾張からやってきたとありますね。

ほ:今まだ巻1ですから、ずいぶん先です… ありました。町人って、移動は自由だったのかな…。お上から何らかの要請とかあったのかもしれませんね

悦:ええ、藩主が代わると城や町が造成されますが、その大規模なことが武蔵国で起こっていますね。

ほ:江戸のまちづくりですね。これは土地の造成から始めるわけですし、規模も大きくてけた違いですね。

悦:そのとき、石工や大工もですが、特に畳職人が不足ということで搔き集めたそうです。

ほ:なるほど。古田家の家臣がいなくなって、松坂の町の様相も変わったでしょうね。

悦:新座町など武家地だったのが、ごっそりいなくなったので町人地になっています。もう一度「権輿雑集」巻10を見てください。

ほ: ええっと…「新座町、古田家の諸士屋敷跡也」と書いてあります。鉄砲町や小人町も古田の家中の人たちの住居でしたが、どこももぬけの殻となったのですね。

悦:現代の知事や市長の交代だと、組織改革はあっても役人は原則として残りますが、城主は家臣団を引き連れての移動ですから、役人もごっそり変わったはずです。

ほ:アメリカみたいですね。大統領が代わると、ホワイトハウスなどの高官も全員交代するのでしょう。松坂は、しかも飛び地になったのだから、役人の人数も減りましたよね

悦:藩主のお膝元の和歌山、いや日本中あちこちで大混乱ですね。役人は、異動だけでなく、現地採用もあったようです。今度は巻2を見てください。たとえば「御城番同心之事」には、「‥右六人、長野九左衛門某松坂にて抱える」、「両役古組之事」、「町奉行組之事」にも「於松坂被抱(松坂にて抱えらる)」という文言が出てますね。

やっぱお金でしょ!と目覚めちゃった?

ほ:大混乱のなかでも、武士が減ると代わって町人が元気になりますね。松坂の商人たちはぼちぼち力をつけ始めていた、と考えていいのかな?

悦:近郊の相可や丹生、射和など、櫛田川流域に比べるとずいぶん遅れを取っていますが、商人の町としてのスタートですね。

ほ:多気郡に属する相可や丹生は「私たちは松坂じゃないもんね」と端から相手にしませんが、松阪市に入っている射和や中万の旦那衆は今でも、「松坂商人」という言葉に敏感ですね。

悦:私も以前、シンポジウムでたまに言い損ねて、やんわりと「私たちは伊勢商人です」と訂正されました。確かに向こうから見たら松坂など新参者ですね。歴史が違います。松坂の町ができるずっと以前から、櫛田川の水運を活かして豊かな商人たちがいたのです。

ほ:水運もだけど、特に丹生の水銀、丹、それから作る伊勢おしろいが繁栄をもたらしたのですよね。「丹生千軒」という言葉も残るくらいですよ。

悦:その水銀資源も中世には枯渇しますが、各地に商いを広げて、扱う商品もその土地に合わせるのでしょうね、たくましく生き抜いていきます。彼らはいち早く、各地に商いを広げていますね。

ほ:射和の富山家も小田原に店を出していて、徳川家康の江戸入りについていく形で江戸進出したのでしたね。彼らが、松坂の商人が相次いで江戸店を開いたきっかけをつくってくれたのでしょう。

悦:だから新興都市松坂の商家は、丹生や射和の名門商家と縁戚関係を結び、やがて肩を並べるまでに成長していくのです。

ほ:そう言えば丹生の永井家の娘が松坂の三井に嫁ぐこととなった時に、あんな田舎に行くのは嫌やと泣いたそうですね。

悦:有名な話だなあ。その永井家から松坂の三井家に嫁いだのが殊法、三井高利のお母さんですね。丹生の永井家があったとされる場所には、今、石の表示が建っています。

永井家のあとに立つ石碑 多気町丹生

ほ:鄙には稀なる美味な珈琲店の傍ですね。

悦:以前そこでコーヒーを飲んでいたら、三井さんが「やあ吉田さん」と入ってこられて、慌てました。三井家にとって丹生は、ひょっとしたら松坂以上の聖地かもしれませんよ。鄙じゃない。また先ほど名前が出た射和の富山家は『足利(たしり)帳』というのを作成していますが、これは元和元(1615)年から寛永17(1649)年までの正味身代の増減を記した記録です。

ほ:会計帳簿ですね。

悦:いわゆる複式簿記として我が国では最初期のものですね。商いのシステムや商圏の拡充など果敢に行っていった。それを松坂商人は吸収していくのです。

ほ:そういえば、何年前だったか、伊勢国の家城にルーツがあると伝えられている方が、発祥の地を探しに来られた…という話を聞きました。

悦:あの話も面白いですね。ご先祖の足跡を求めて伊勢に来て、伊勢で家城と言えば、白山町家城ですよね。

ほ:名松線の駅もありますし、傍には下剋上野球というドラマの舞台となった白山高校もありますね。

悦:だからそこを訪ねて行かれたけれど、成果なし。振出しに戻って松阪で声をかけたのが、何と射和の竹川家のご当主、家城さんなら射和ですよとなったのですね。家城家の江戸進出の話は、当時の商人のアイデア、たくましさを知る上で面白いので紹介しておきますね。

「家城は代々太郎次郎を通称とした。彼は長じて旅商人(こんな言葉があるのですね)となり、江戸開府の初期出府して日本橋の元で呉服物を路傍に並べて売っていた。当時江戸は開府日浅く商家軒を並べてと云うほどに整って居らず、多くは露天商いであった。太郎次は工夫して恰も洗濯ものを干すように、左右に竹の三脚を立て、長い竹棹を渡し、それに反物を掛けた処、大いに人目を惹いて評判となり、意外の成功を納めたので、後に本町一丁目に店を構え、富山の江戸店と肩を並べるほどの大商人となった」

『射和文化史』

ほ:確かにたくましい。伊勢商人の基本理念になっている「才覚(アイデア)」と「しまつ(倹約)」を感じます。もう、当面戦いはなさそうだ。これからはやっぱりお金でしょ!儲けないと…って目覚めちゃった?

悦: そういうことかもしれません。

ほ:以前、豪商と言われる家の初代の多くが、戦いに敗れて落ち延びてきた武士やその子どもだったというお話をしていただきましたね。彼らは、読み書きはもちろん、ある程度の教養があり、部下を率いて戦ったり、共同体を切り回した経験があり、修羅場をくぐって挫折を経験し、生き延びてきた存在だったから、商いで秀でるモチベーションもポテンシャルも高がっただろう、と…。確かに、豪商に育つ条件を備えていたのだな、と思いました。平和な時代になって、刀をソロバンに持ち替えて、銭の合戦でリベンジを図ったのですね。

最初のお代官は九左衛門(くざえもん)

悦:そう考えると劇的で面白いですね。富山は畠山家、三井家は六角氏、竹川家は浅井氏など、負け組出身ですが、新たな戦いで勝っていくわけです。…そして、長野九左衛門ですよ。九左衛門が仕置きし、お代官として松坂に来ます。

ほ:仕置きってなんでしょう?

悦:戦後処置のことを「仕置き」と呼びますが、まぁ、変化の後、いろいろ取り締まったりして秩序を保つ役目、というような意味でしょうか。大藪某がしばらくとどまってお膳立てをして、その後を九左衛門が仕置きとお代官として赴任し、18年にわたって松坂をつかさどったのですね。その後、紀州藩では、松坂を治める役職として、「代官」をやめて「両役」と二人態勢にし、また「ご城代」と変えたとあります。
そして、さっきの元和5年の「紀伊徳川家分限帳」に、九左衛門の名前もあります。お代官として500石もらってますね。

ほ:本当だ。ついでに検索してみましたら、松坂に来る前、九左衛門は沼津にいたみたいです。

悦:静岡県の沼津ですか?

ほ:はい、そうです。「元和2年(1616)4月に沼津代官の長野九左衛門清貞が、御厨地方の有力者であった芹澤将監(しょうげん)に御殿新町御屋敷の造営を継続するよう命じた書状の写しが残されています」と、御殿場市のサイトにありました。ちゃんと働いてますね。徳川頼宣公は水戸の藩主から、駿河の駿府藩主になり、紀州藩主となったのでした。それに従って、九左衛門は沼津の代官から松坂の代官になったのですね。転勤で大変ですね、武士も。

悦:なるほど、御城番のご先祖も遠州の武士団で、紀州田辺から幕末に松坂ですから、駿河や遠州とは関わりがあるのですね。さて、続いて、長野家の子息たちのことが書かれています。その後も同じ名前を引き継いだ子孫が松坂にやってきます。長野九左衛門家は、紀州藩の中でそんなにも目立つ存在ではなさそうですが、松坂にとっては重要人物ですね。この後に長野家についてのトピックスが語られています。

右・長野九左衛門清貞、寛永十六卯(1639)年六月三日、紀府にて病卒す。法名光月。但し、紀尾両御家に長野氏仕官の所以は、清貞一男勝兵衛祐勝病卒。二男権右衛門知貞紀府にて別に召し出さる。三男八助政成、尾府の御家へ進めらる。彼地にて長野数馬と改め、是れより尾府に長野氏在り。四男伊右衛門定堅、是又、紀府於にて別に召し出され、五男七郎兵衛祐憲、父清貞の家督相続後に九左衛門と改む。その子祐興、その子祐孝、相続して九左衛門といふ。

悦:長野家が何代続いているのか不明ですが、便宜上、最初に松坂に来た九左衛門を初代とすると、初代の九左衛門・清貞は、松阪での役目を終えて紀州に帰り、2年後には亡くなっています。長野家の息子たちは、紀州徳川家と尾張徳川家の両方につかえているのですね。長男は亡くなり、次男と四男は紀州藩に父とは別に仕官し、三男は尾張藩に仕え、五男が父の家督を継いで、次の九左衛門になっているとあります。その後、五男の子どもが代々九左衛門を継いでいますね。

ほ:紀州藩と尾張藩は、この当時の殿様同士は兄弟ですね。1639年で見ると、将軍は家康の孫・家光ですが、尾張藩の殿さまは徳川義直で、家康の九男、紀州藩の藩主・徳川頼宣は家康の十男。ついでに言うと、御三家のもう一つ、水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房は家康の11番目の男の子で、皆兄弟です。頼宣と頼房は母も同じお万の方ですね。寛永8(1631)年、将軍職を家光に譲って大御所だった秀忠(家康の三男)が病気になったとき、徳川御三家の藩主がそろって江戸城に行ってお見舞いをしたという記録があるみたいですから、仲がよかったのかな。良い若者がいたら推薦したりして、仕官させていたのでしょうか。武家の二男以降の処遇って、なかなか大変だったのでしょう。

悦:一緒に見舞ったからと言って仲がいいとは限りませんが、近しい間柄ですから、家臣の融通は当然あったでしょうね。軌道に乗ってきたといっても、まだ体制を整えていく途中だったのですからね。

ほ:まぁまぁ珍しいことではあったからわざわざ書き記したのでしょう。次男・四男も別に取り上げられていて、長野家はなかなか優れた家系だったということですね。このあとも、九左衛門の名は時折出てきます。

悦:さて、今回はこの辺りでおわり、せっかくの季節ですから花でも見に出ましょうか。

ほ:わ~~い。花見だ花見だ。お城で田楽食べましょう!

松坂城址にて(令和8年3月23日)

『松坂権輿雑集』を読んでみた2026.04.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集