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第14回 南龍公は、危険なオトコだった!

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

ほ:いよいよ紀州徳川家の時代に入ります。徳川幕府も落ち着きを見せ始めたころですね。

悦:ええ、このころ、将軍は第2代の徳川秀忠。関ヶ原の乱から19年経ち、大坂の陣は4年前に終わっています。この章では、紀州藩主の初代頼宣から6代目の宗直まで書かれていますが、今日は初代についてだけお話します。何といってもこの人が重要で、かつ、面白い殿様ですからね。

國君御代々之御事

一、紀伊大納言頼宣卿 東照宮の御十郎君。元和五己未(1619)年紀伊国に御入府。寛文七丁未(1667)年五月十九日、光貞卿へ御家譲りなさらる。同十一辛亥(1671)年正月十日御逝去。南龍院殿二品前亜相顗永天晃と御法号を奉る。

ほ:初代徳川頼宣。よりのぶと読みます。南龍公とも呼ばれ、その功績をたたえる南龍神社が何カ所もあったようです。松阪の御城番屋敷の一角にも、小さな社殿が今も祀られていますね。

悦:御城番で祀られているお社は、もとは松坂城跡にあったものをお遷ししたのですね。その時の門は、今、愛宕町の菅相寺の境内に移築して、おもしろい神龍、いや麒麟だな、好もしい一対の守り神が置かれたお堂として使われています。よく探してみると、三つ葉葵の瓦も見えるはずですよ。

南龍神社 御城番屋敷の敷地内にある

菅相寺に残る南竜神社門菅相寺に残る南竜神社門
三つ葉葵三つ葉葵

ほ:各所の南龍神社については、勢州松坂会の伊藤伸一さんや藤田美代子さんが調べておられますね。

悦:未だ未完成ですが、『各地にあった南龍神社(大黒田・松坂城・和歌浦・矢櫃・龍神・野村)』です。

ほ:松阪では大黒田にもあったのですか?

悦:今は合祀されてありませんが、「大黒田全図」(明治20年)に「字新田町前」という小字の横に鳥居の印がありますね。もともと黒田村だったのが南龍公の新田開発で45町8反の田地と宅地が出来たので大黒田と小黒田の二村に分かれました。

ほ:今もバス停に新田という地名がありますね。新しい村が出来たのはいつ頃ですか?

悦:完成したのは慶安3(1650)年。社が祀られたのは延宝3(1675)年です。氏郷の開城、古田2代の整備、そして南龍公、松坂の町は着実に発展していきます。

頼宣さまのおかげです…?

ほ:新田開発がなされたのは、紀州藩の領地になってからですね。そして、松坂の繁栄の基盤を築いたのが徳川頼宣侯ということです。だから、村人にとっては、「田が増えたのは頼宣さまのお蔭です。お社でお祀りしますよ」ということでしょうね。

悦:戦乱の世も終わり平和な時代となり、商業も活発化し、各地で新田開発も行われました。そのような時代の中で頼宣公は強いリーダーシップを発揮しました。

ほ:「南の龍」とは、名前も勇ましいですね。

悦:将軍の居る江戸から見れば、旧豊臣方のいる西国はまだまだ油断のならぬ地域です。紀州からその地域ににらみをきかせるというので、「南海の鎮」とも呼ばれます。これは紀州徳川家十代藩主治宝侯がよく使った表現ですが、頼宣が紀州に配されたのも、意識としては同じでしょうね。

ほ:大坂城の冬の陣、夏の陣が終わって4年。落ち着いてきたとはいっても、西国にはまだ火種が燻っていたのですね。では、本文に沿って頼宣さんのプロフィールをごく簡単に紹介します。徳川頼宣は、慶長7年(1602年)に、「東照宮の御十郎君」つまり徳川家康の十男として伏見城で生まれました。父家康61歳の時の子です。母は蔭山長門守氏広の女、養珠院です。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の大坂夏の陣でも天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍したそうです。元和2年(1616年)4月、15歳のとき、父・家康が死去して、元和5年(1619年)7月19日、18歳のとき、紀伊国・伊勢国のうちで計55万5千石への転封となります。ちなみに、紀伊国は、高野山寺領を除く37万4千石余り。伊勢国は、松坂・田丸・白子領の18万石弱。その他に大和国にも1000石余りあったそうです。

悦:紀州藩の飛び地も各所にあります。例えば江戸との連絡網の確保や、生産力がある場所を抑えるなど色々思惑もあったようです。この前も、明治の初めの三重県地図を見ていたら、三重県の県境近くの奈良県内に和歌山県の飛び地があって、えっ、こんなところにと驚いたことがあります。

ほ:日頃からいろんな時代の地図を見て暮らしてるんですねぇ…。そういえば、熊野川流域にも、今でも飛び地がありますね。

悦:地図は予想外のことをたくさん伝えてくれますからね。飛び地があるのも、そういった事情が分からないと、不思議な感じがしますね。

ほ:元和5年8月18日、頼宣は紀州に入国しますが、その前に戸田隆重を派遣して、和歌山の以前の領主・浅野氏の代官を務めていた人たちから浅野氏の支配の方法について聞き取りを行わせていたそうです。

悦:浅野家からの城引継ぎでは、嫌がらせがあったのか無かったのとか、浅野家が持てるだけ持って広島に移ったので、城も武家屋敷も荒れ果て、入国した頼宣は豪商雑賀屋長兵衛宅に滞在し、家臣も野宿同然だったとかいう話も伝わっているそうです。(『城下町和歌山百話』和歌山市)

ほ:将軍家の一統に対してそんなことをするのかと驚きますが、浅野家も必死だったでしょうね。頼宣は、入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、和歌山藩の繁栄の基礎を築いたとされます。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施し、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出しました。

悦:地士(じし)として、この辺りでは特に北畠国司家の旧臣を召し抱えるというか、任命していますね。この浪人対策が問題だ。戦国時代の余燼冷めやらぬ中で、多くの大名が改易になります。

ほ:紀州和歌山に徳川が入ったのも、もとはと言えば戦国武将として名を馳せた広島の福島正則が勝手に城を改築したということで改易となったのですものね。その後に、和歌山の浅野長晟を入れる。すると和歌山が空くから徳川を入れるということですね。

悦:当然、改易された大名に仕える武士は失職します。再就職先がない。元和偃武(げんなえんぶ・元和元年の大阪夏の陣以降、太平の世になった)ですから、僅かな動乱はあっても、ほぼ平和な時代になろうかという中で、戦に明け暮れた人たちの処遇が問題となるわけです。

ほ:もう一度合戦でもあれば手柄を立てて、などという物騒な人が出てくるわけですね。なかなか頭を切り替えられない人がいるんですね、いつの時代も。

由比正雪とか放火とか…アブナイ殿さまだ

悦:徳川頼宣はその対策にも熱心だったので、そんな中で由比正雪の事件が起こったのです。

ほ:山田風太郎『魔界転生』だ。出てきますよね、徳川頼宣。由比正雪は浪人を集めて幕府の転覆を図ろうとしたのでしたね。

悦:また怪しい世界に引きずり込もうとする… でも、流れはそういうことです。慶安4年(1651)7月に起きたので慶安の変と呼ばれています。

ほ:その反乱の首謀者・由比正雪が、徳川頼宣の判のある書状を持っていたのですが、でも頼宣は巧みに言い逃れますね。幕閣が頼宣を江戸城に呼び出し喚問するのですが、不審な点があればただちに捕らえるつもりで屈強な武士まで待機させていたとあります。頼宣って、家康から格別に愛された息子だったようですが、後の幕府方から見ると、よほど頼宣は危険人物だったようですね。

悦:龍ですから、捕まえる方は怖いでしょう。

ほ:ところが頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、将軍家側の頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をします。外様大名が裏で糸を引いていたら、これは天下の騒乱のもとにもなるだろが、仮にも将軍の身内の自分が謀反など企むわけがないだろうという、今考えるとどうかな~?という論を展開しますね。だけど、この後長いこと頼宣は江戸にいますね。ずっと江戸にいたのはなぜだろう。

悦:危険だから目の届く江戸にとどめ置かれたのですよ。このあたりのことは『南紀徳川史』にも詳しく書かれています。ほの字さんは、杉本喜一さんはご存じですか。

ほ:ちょっとだけ存じ上げています。松阪市の郷土資料室にお勤めだった方ですね。

悦:杉本氏に「紀州藩初代藩主徳川頼宣・二代藩主徳川光貞の新出書簡について」(『続あきんど余話・松阪商人を語る会』)という文章があります。その中に次のように書かれています。ちょっと長いですが引用しますね。
「この時期の頼宣の在府十年の理由について、慶安四年に将軍家光が死去した直後に起きた、由井正雪らを首謀者とする慶安事件への関与を疑われ、頼宣は江戸に留め置かれていたという説がある。」
ここまでは、既に述べた通りですね。問題はこの後です。
「しかし、『南紀徳川史』の記述によれば、家光生前からの遺命として、自分の死後将軍に襲職する家綱が幼少の間は在府して補佐してほしいという意向があったからだという。家光から見れば近い親族で信任できる人物としては、異母弟の保科正之を除いては叔父であり健在な頼宣に依頼する処が多かったと思われる。筆者は和歌山県立博物館の学芸員の方と、この件で話したが、家綱が成人するまで滞府したと考えるのが妥当であろうと言われた。筆者も同意見である」、

ほ:う~~ん。なるほど。でもそれは、紀州藩側の見方ですね。幕府の側の見る目は違っただろうという気がします。物事は、見る人の立場によって見え方がかわりますから、まぁ、どれが正しいとも言えないことです。なんにしても頼宣は、将軍のすぐ近くの位置に生まれ、一方で神と祀られ、信頼もされながら、一方では幕府の転覆を謀りかねない危険人物とみなされていたわけだ。

思いがけない夫婦愛…と思ったら

悦:「江戸図屏風」という、個人の所蔵ですが六曲一双の屏風がありましてね。本物は、見たことがない、かな。金の世界に江戸城内をゆく山王祭礼の行列を描いた作品です。なぜこの屏風が作成されたのか、その歴史推理を黒田日出男さんが『江戸図屏風の謎を解く』(角川選書)で披露しています。

ほ:はやりの絵解きですね。

悦:黒田さんは日本史関係の画像資料解読の、第一人者です。この屏風は慶安3年から江戸の上屋敷に留められていた時代のもので、でもそれは江戸滞在を余儀なくされた正妻・瑤林院との思い出の時間でもあったのです。頼宣と、少し離れた場所ではあるが、緩やかに行列を眺めている瑤林院の二人の姿を絵に留め、きっとまた離れて暮らすことになる妻の元に置いたのではないかというのです。

ほ:なんと麗しい話。ヤバい殿様から一気にロマンティックな着地だこと。

悦:この屏風の伝来とか、傍証も挙げられて、なるほどなあと感心します。また、先ほどの由比正雪がらみの慶安事件や、明暦の大火にまつわる南龍公のよからぬ噂など『南紀徳川史』には詳しく書かれているのですが、それらを意訳して紹介しているので、大変ありがたい本です。

『江戸図屏風の謎を解く』書影

桟敷は南龍公、緋毛氈に座るのは正妻・瑤林院ではと黒田氏は推測する
(『江戸図屏風の謎を解く』から)

ほ 明暦の大火って振り袖火事ですよね。そこにも南龍公が絡んでるのですか?

悦:『南紀徳川史』に、「此時も紀の国との逆心にて江戸放火被申候沙汰専らにて」とあります。

ほ:逆心で放火って…噂とはいえ危険すぎます。そんな噂をたてらるとは、よほど恐れられていたというか、物騒な藩主だったのですね。ヤバすぎる~

悦:龍ですから。だから麒麟が龍に見えたりもするのです。

ほ:ん? あぁ、管相寺に移した門の像のことですね。

悦:頼宣は間違いなく武闘派でしょう。

ほ:武闘派…。恐れられた根源はそこですね。

悦:頼宣の詠まれた歌に
「もののふの 弓矢取る名の 高見山 猶幾たびも 超えむとぞ思ふ」
というのがあります。急峻な高見峠を越えて伊勢に来るのは、こよなく愛した鷹狩りのためです。このために勢州三領を支配下に置いたとか、また鷹狩の為に他藩領にも入ることができたとか問題も多いのですが、その楽しみのためなら高見山も何のそのという歌ですが、どういう訳か、本居宣長がこの歌を自分のノートに書き写しているのです。それも紀州家に召し抱えられた晩年ではなく、ごく若い時なのです。

ほ:頼宣は鷹狩が好きなアクティブな殿さまだった…。それにしても、なんでも書き写しますね、宣長さんは…。好奇心が抑えられない若者だったでしょう。今回は、初代藩主のお話でしたが、この時期の事はこの後も『権輿雑集』のあちこちに出てきます。

悦:「権輿」、まさに始まりの時期ですから。

ほ:頼宣は1667(寛文7)年、66歳でその位を嫡男・光貞に譲ります。49年という、藩主の中では一番長い治世でした。1671(寛文11)年正月10日没。享年70。諡号は南龍院殿、その後に二品前亜相が付き、顗永天晃大居士です。顗はギ、慎むという意味があるそうです。あまり謹んではいない感じの殿さまですけど…

悦:そこが魅力でもあるでしょう。危険視されるのは、それだけの力や人望があるということですからね。

ほ:単にヤバいだけだったら、放っておかれますものね。南龍公は、毀誉褒貶に満ちた、大変興味深いご領主さまでした。

悦:さて、5月ですよ。伊勢ではお木曳も始まって、ほの字さんは忙しいのではないですか。

ほ:ええ。4月は御木曳初式や木造始祭がありましたし、とうとう今月からはお木曳本番です。
エンヤ!エンヤ!で日がすぎますよ。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2026.05.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集