
悦:前回14回のタイトル「南龍公は、危険なオトコだった!」、これは ほの字さんがうまくつけてくださったのですが、じっと眺めていると、最後はエクスクラメーションマーク(感嘆符)!というより、クエスチョンマーク(はてな)?の方がよかったかなという気がしてきました。
ほ:あら、ご不満でしたか…。賛否両論あった人物だから、ということでしょうか?危険な男の方が魅力があるんですけどね…。じゃあ。両方つけておきましょうか。
「南龍公は、危険なオトコだった!?」
ということで。
悦:南龍公に対しての評価は、内と外では真逆ということですね。
ほ:初代の南龍公が武闘派だというのは、間違いないでしょう。
悦:この気質は、有名な五代藩主吉宗、つまり八代将軍ですが、にも受け継がれていますね。
ほ:外からは物騒な殿様でも、領民からは感謝されていたのでしたね。
悦:南龍公の時代、ある時、領内で親殺しという事件が勃発した。ところが、犯人の息子は、親を殺して何が悪いと開き直る。
ほ:今の法律では、法の下の平等で誰を殺しても罪は同じですが、以前は他人を殺すよりも親を殺す尊属殺人の方が刑が重い、ってことになっていたのじゃなかったですか。江戸時代はどうだったのか…この犯人の言うことはその考えと逆ですね。
悦:まず、心情的に納得できない。ましてや儒学を奉じる時代ですから、頼宣は、これは教化の問題だと考え、出したのが「父母帖」です。
ほ:親孝行を説いた文を書き、領内に通達したのでしたね。頼宣の時代のことでしたか…これについては後の章で出てきます。
悦:そうですね。ここには、ごくごく当たり前の事が書かれています。でも、このようなことから領民に教えないといけない時代だったのです。
ほ:殿さまのすべきことは、領民の教化、そして新田開発などの産業振興ですか。
悦:そうですね。産業振興の中でも特産品の開発が大きいですね。司馬遼太郎の『街道をゆく』「仙台・石巻」に、こんな話が出てきます。仙台平野は肥沃な穀倉地帯だったがために、伊達家は米以外の産業開発を怠った。そのことが、例えば隣の出羽や、加賀国金沢との違いだというのです。
ほ:出羽の紅花によって花開いた華麗な文化や、美術工芸都市としての金沢、あっ、この前も「金沢」の特集をテレビでやってましたね。
悦:東京国立博物館平成館で開催中の「百万石!加賀前田家」に合わせてですね。先月号の『芸術新潮』特集も「金沢 美の源流 加賀百万石前田家ものがたり」でした。
ほ:その影響は、近代、いや現代にまで及ぶというわけですね。
悦:「沃土ノ民ハ材(もち)ヒズ」、これは『街道をゆく』で司馬さんが引いている言葉です。『仙台叢書』別集2「仙台物産沿革」に出てきます。出典は漢籍、『国語』「魯語下」ですが、重い言葉です。意味はお分かりかな?
ほ:もちろん分かりません。
悦:司馬さんはこう書いています。
『国語』によると、むかし聖王は民を瘠土(せきど・引用車中・やせた土地)に住まわせたものだ、という。瘠土の民は心身を労するから心身の働きもよくなる。むかしの聖王はそういう者を用いた。それに対し沃土の民は材(はたらき)がよくない、というのである。
筆者は、歴世の仙台藩が沃土の上に安住して殖産興業をおこたった、といいたいのである。
仙台藩はそれほど沃土だった。
ほ:南龍公は特産品をつくることに力を入れたのでしたね…ということは、紀州藩は、米よりもその他の産物に頼らないといけなかったのでしょうか。
悦:藩主の先見性、としておきましょう。
ほ:松坂には肥沃な水田がありますが、それに加えて、木綿やお茶の特産品があったから強いですよね。
悦:この地方特産のお茶や木綿は、これから『権輿雑集』でも出てきますよ。
ほ:そうですね。でも、当時の紀州藩と松坂商人の関係性を考えると、紀州藩から見た松坂の最大の特産品は「お金」だったのではないかと思われます。
悦:話を戻して、紀州の特産品と言えば、まず有田のミカン。本居宣長が和歌山に行った時にも差し入れでミカンを貰って、やっぱ美味しいと言っています。また黒江の漆器。
ほ:京商人で、日本橋で今も活躍している漆器の黒江屋さん、見に行きましたね。
悦:ほかにも、保田の紙、布引の西瓜、竜神温泉…。だから恩恵にあずかった村では、「南龍公」といってお祀りするわけです。
「芸術新潮」5月号ほ:力量のある殿さまだったのですね。力が余って危険なところもあった…と。単なる危険人物ではなかったんですね。さて、今回は、「國君御代々之御事」の続きを読みます。南龍公に続く第2代藩主からです。
一、紀伊大納言光貞卿 先君の御嫡。寛文七 丁未(1667)年五月十九日御相続。元禄十一戊寅(1698)年四月二十二日、御家を綱教卿へ譲りなさらる。御薙髪(ちはつ)の御時、対山(たいざん)君と称し奉る。宝永二乙酉(1705)年八月八日御逝去。清渓院殿二品前亜相源泉国公を御法号と奉る。
ほ:南龍公紀伊徳川家初代大納言頼宣は、寛文7丁未(1667)年5月19日、息子の光貞に家督を譲りました。第2代藩主です。
悦:光貞の治世は32年間に及びます。
ほ:初代頼宣の49年には及びませんが、けっこう長いですね。
悦:紀州藩だけでなく、世の中全体が落ち着いてきて、経済と文化は江戸時代最初のピークを迎えます。元禄時代ですね。この間の松坂での大きな出来事と言えば、延宝元(1673)年、三井高利の江戸、京同時進出、つまり越後屋創業でしょうね。
ほ:「越後屋」という名前は、高利以前からあったと聞いたことがありますが。
悦:実は高利の祖父までは、武士で、「越後守」を名乗っていたそうです。でも嫌気がさしたのでしょうか、刀を捨てます。高利の父の高俊、
ほ:親子二代がそろってタカトシですか。
悦:そうです。でも字は違う。コウシュンとコウリです。高俊は酒屋をやっていた。でも侍意識は抜けきらなかったのでしょうな、世間は「越後殿(えちどの)の酒屋」と呼んでいた。ところがこの奥さんがよく気の付く人で、店は繁盛。どう取り入ったのでしょうか、領主から「越後屋」を名乗ることを許されたのです。でもこれはコウリが江戸と京都で同時展開した「越後屋」とは、まったく別と考えた方がよろしいでしょう。
ほ:三井高利の越後屋創業については、同業者の激しい妨害があったようですね。江戸に出店した三井の台所の前にわざと厠を造ったとか、陰湿ないじめです。それをしたのは、同じ松坂の人だった。松坂の町ではニコニコと接しながら、江戸では後から来るものをいじめるなんて、性格が悪いですね。
悦:出る杭は打たれる。どの世界や時代でもよくあることです。でも私はこの嫌がらせをした人たちの「集団性」が、実は「松坂商人」の特徴だったと思います。
ほ:あら、それは面白いですね。集団性?もっとお話しください。
悦:いやここは、南龍公頼宣の後を継いだ光貞時代の松坂は活気があったという話として語っただけですから、話題を戻します。
ほ:……面白そうな話をはじめておきながら、肝心なところは話さないなんて、それこそ性格が……
悦:ブツブツ言ってないで『松坂権輿雑集』に戻りましょう。「国君代々の事」では、特別なエピソードもなく淡々と領主の名前と在位について記されているだけです。
ほ:光貞卿は頼宣の子供。寛文7(1667)年5月19日に藩主となり、元禄11(1698)年4月22日、譲位した。「御薙髪」、これは隠居した、ということでよろしいですか。
悦:そうです。ここの「薙髪(ちはつ)」は、髪を下すという意味ですね。
ほ:出家したのですね。で、隠居して「対山(たいざん)君」と呼ばれたが、宝永2(1705)年8月8日に御逝去なされた。法号は、清渓院殿二品前亜相源泉国公である、と。
悦:頼宣、光貞、この二代の城主の治世80年余で、松坂の町は急速に整備され、また松坂商人の最盛期を迎える、活気のある時代でした。
ほ:そして、この光貞の子が、八代将軍吉宗ですね。
悦:素晴らしい。
ほ:光貞について少し調べたことを補いますね。この人はお父さんと違ってあまりヤバくはないみたい。光貞は、家康の孫ですから、その従兄弟には三代将軍の徳川家光、尾張藩主・徳川光友、そして水戸藩主・徳川光圀がいます。寛永3(1626)年12月11日、徳川頼宣の長男として和歌山城にて生まれ、幼名は長福丸。寛文7(1667)年に父・頼宣から家督を継いでから、元禄11(1698)年まで31年間にわたり藩主として君臨した。和歌山藩の藩政を行う。法令二十七箇条を制定するなどの善政により、領民から慕われたそうです。
悦:「条目二十七箇条」は武士の心得で、その制定を善政とつなげるのもいかがかと思いますが、先ほど述べたように、時代の機運が後押ししたのも高評価につながったのかな。
ほ:へぇ~、そうですか…。ネットの情報では、延宝5(1677)年に出した農村法は家臣からの反発を受けたものの、以後は和歌山藩の基本法となり、天和2(1682)年には財政再建策の家中知行切地の合理化、元禄10(1697)年には検地と名寄帳の整理、隠居後の元禄14(1701)年には町人への間口税を新設するなど、後に吉宗の時代にも継承されていく政策を実施したなどとあります。
悦:隠居後に政務に口出しするのはちょっと気になるけれど、でも立派だ。
ほ:まだまだありますよ。嫡男の綱教には五代将軍・徳川綱吉の長女鶴姫を迎え、将軍を屋敷へ招待するなど縁を深めます。文武両道で、また明律学を学んで刑法の基礎を整え、狩野興益や狩野探幽に師事して水墨画を描くなどしたそうです。
悦:狩野派に学んだことは聞いたことがあります。なるほど、法整備ですか。光貞の子の吉宗も将軍となってから「公事方御定書」を制定し法令の整理を行いますから、この父の遺伝子は受け継がれていくのですね。
ほ:光貞は1698年73歳で家督を譲り、湊村に隠棲します。
悦:隠居して穏やかな日は訪れたのかな。息子のご政道にも口を挟むなど、俗世間とは離れがたいものですよ。

三代・光貞卿、四代・綱教卿の花押
ほ:対山と号した光貞の晩年、またその没後には紀州家には悲しいことが続きます。嫡男・綱教の妻に迎えた鶴姫が宝永元(1704)年に亡くなります。翌年5月には夫で三代藩主の綱教も後を追い、悲しみ癒えぬ8月に対山、つまり光貞も亡くなります。享年79。葬儀は綱教の後を継いだ光貞の三男・頼職によって行われ、紀伊徳川家の菩提寺・長保寺(和歌山県海南市下津町)に葬られました。
悦:悲しんでいる暇もないですね。
ほ:それが、まだ続くのですよ。江戸から急いで帰国した紀州家四代藩主・頼職も病に倒れ、9月に光貞の後を追うように急死します。
悦:あれあれ、三代四代も終わってしまいました。
ほ:あ、本文を追い抜いちゃいましたね。でも僅か一年の内に、激変が続いたのです。では本文に戻ります。まず三代綱教です。
紀伊中納言綱教卿 先君御嫡。元禄十一戊寅(1698)年四月二十二日、御相続。宝永二乙酉(1705)年五月十四日御逝去。高林院殿従三品前黄門雲峯浄空を御法号と奉る。
ほ:徳川綱教、つなのりとお読みします。寛文5(1665)年8月26日、第2代藩主・徳川光貞の長男として生まれました。
悦:確認します。二代藩主光貞の子供3人が続いて藩主となるわけですね。
ほ:三代綱教。四代頼職、五代吉宗ですね。さて、綱教ですが、元禄11年(1698年)、父の光貞の隠居で家督を継ぎます。倹約を行い、藩の財政を建て直そうとします。
悦:貨幣経済の浸透で、まず各藩や農村から疲弊が始まるのですね。紀州藩も例外ではない。
ほ:だけど、志半ばで宝永2(1705)年5月18日に亡くなりました。享年41(満39歳)。子もなく先ほど述べたように跡を継いだ弟・頼職も同年のうちに26歳で亡くなります。
悦:偉大な父を持ち、藩財政は悪化、しかも高貴な奥様、気持ちの休まるときがなさそう。哀れですね。
ほ:こんな話もありますよ。綱教は、徳川綱吉の娘婿として将軍家世継ぎと目されていたが、早く亡くなったため、綱吉はやむなく甥の綱豊(徳川家宣)を後嗣にしたのだというのです。
悦:結局は弟の吉宗が将軍職に就くのですから、体が丈夫というのは、上に立つ人には必須の要件ですね。それと子種かな。
ほ:確かに。でも、丈夫なだけではだめですけどね。子種も量より質です。綱教の藩主としての治世は7年1か月、和歌山在国の通算は2年7か月だったそうです。
悦:では次は四代頼職ですね。
一、徳川内蔵頭頼職卿、先君御弟。宝永二乙酉(1705)年五月二十一日御相続。同年九月八日御逝去。深覚院殿四品前少将円巌真常大居士を御法号と奉る。正徳三癸巳(1713)年十一月九日、従三位宰相に御贈位官。
ほ:徳川頼職(よりもと)は、延宝8(1680)年1月17日、第2代藩主・徳川光貞の三男として生まれました。幼名長七。元服して頼元(よりもと)、その後、頼職に改めています。先ほど、将軍綱吉が紀州藩邸を訪問したと話しましたが、この時、元禄10(1697)年4月に頼職も綱吉に御目見し、越前丹生郡内に3万石を与えられ、高森藩を立て、また弟の頼方(のちの吉宗)も越前国丹生郡内に3万石を与えられ、葛野藩を立藩しています。しかしそれが兄綱教の死でご破算となり、急遽兄の養子となり徳川姓に復し、紀州家を継承します。
悦:しかしそれもあえなく潰えてしまった。
ほ:繰り返しになりますが、8月に父の光貞の病が重篤との知らせに、頼職は江戸から早馬で和歌山へ向かいます。死に目には会えましたが、本人が父の死去1か月後の9月8日、26歳で亡くなってしまいます。
悦:江戸からの早馬が効いたのかな。
ほ:夜も昼も乗り詰めだったようですから、きっとそうでしょうね。四代頼職の治世はわずか4か月。和歌山在国は1か月でした。頼職は、和歌山藩主の家督相続時の格式である従三位・左近衛権中将の官位も将軍の偏諱(一字拝領)も受けていません。法名は深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士です。
悦:しかし僅か一年の内に、まず三代、続いて隠居の身ではありましたが二代、そして四代。これだけ藩主が短期間で変わると、手続きや、また経費も大変ですね。
ほ:そうなのです。この異常事態で藩財政はますます悪化していきます。だって、それなりに派手なお葬式を3回続けて出し、代替わりのあれこれにもお金が要りますよね。この主君の家の災難を「松坂権輿雑集」の筆者・久世兼由は書いていないのですよね。藩士として主君の家の内情には触れられなかったのかな…
悦:今、私は本居宣長の『古事記伝』を月一度読んでいます。会員数は30人くらいかな。19年目でやっと9巻目に入りました。
ほ:19年で9冊ですか!
悦:読んだのは8冊です。全44巻ですから、末遥かなㇼですが、それも楽しいかなと思います。これからヤマタノヲロチが登場して、舞台は高天原から葦原中国、つまり天上界から地上世界に移りますから、サクサク読んでいけると思います。とても面白いのですよ。ところで、先月読んだところにこんな一節がありました。
「殺(ころしたまふ)」は、既に解除(はらひ)し給ひしかども、なほ悪御心(あしきみこころ)の清(きよ)まりはてぬなるべし。されど此の神を殺し給へるから、種々の穀(たなつもの)などの成(な)り出(い)でつるは、善(よき)は悪(あしき)よりきざす理(ことは)り、かの黄泉(よみ)の穢れを祓ひ給ふとて、天照大御神などの如き善(よき)神の成り坐るにおなじ」
悦:高天原を追放されたハヤスサノヲノミコトはお腹がすいたのでオホゲツヒメノカミに食べ物を所望し、どうやって用意するのかとそっと覗いたら、鼻や口や尻から食べ物を出して調理していたのにびっくり、汚い、とオホゲツヒメノカミを殺してしまいます。その注釈です。宣長は言います。スサノヲノミコトの行為は悪いことだが、そこから、カイコや稲、粟、小豆、麦、大豆が生えてきたのだから、結果として善である。悪から善は生じるのだ、と。物は考えようであると。
ほ:三代綱教、四代頼職の早逝が吉宗の登場に結び付くと考えれば、たしかに悪いだけではありませんね。人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる綱のごとし、ですか。さて、また今回も終わりまでいきつきませんでした。次回は「國君御代々之御事」、五代吉宗の所からです。暴れん坊将軍ですよ!
悦:今月、松阪にやってきますね。
ほ:金ぴかです。あのサンバは、賛否はあるでしょうが、気分が明るくなります。何か良いことが起こるかも~って。待ち受けにすると金運があがるという都市伝説がありますね。マツケンさんではなく、吉宗については、次回、乞うご期待です。でも、『古事記伝』を読む会と同じで、この「読んでみた」も前途遼遠…終わるのかなあ。不安になってきましたが、サンバでも踊って忘れますね。。。
吉宗と言えば“暴れん坊将軍”…そしてこの方。『松坂権輿雑集』を読んでみた|2026.06.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集