COLUMN

第16回 吉宗さまは辣腕…いえ、やっぱり暴れん坊…?

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

ほ:今回は、「國君御代々之御事」の3回目。ようやく吉宗に入ります。

悦:南龍公と呼ばれた初代・頼宣に続き、2代藩主・光貞も長く和歌山を統治しましたが、宝永2年(1705)には、3代・綱教、2代・光貞、4代頼職と相次いで亡くなります。藩は財政面でも政治面でも打撃を受けたところで、吉宗の登場です。

ほ:4代の頼職(よりもと)は若くて、まだ妻子もなかったので、弟の吉宗が継いだのでしたね。では読みます。

國君御代々之御事 3

一、紀伊中納言吉宗卿。先君の御弟。宝永二乙酉(1705)年十月六日御相続。享保元丙申(1716)年四月朔日、武府の御家に遷御。

ほ:これだけです。あっさりしたものですが、久世兼由がこの「松坂権輿雑集」を書いたのが宝暦2年(1752)のことですから、吉宗が将軍になり、紀州藩主が宗直に替わってまだ数年です。先祖が現地で採用された同心とはいえ、久世兼由は紀州藩士ですから、主君の家のこと、ましてや将軍のことについてこれ以上は書けなかったということでしょうか。

悦:いや、「まだ数年」じゃないですよ。吉宗が紀州を離れてから36年たってますから。しかも前年、寛延4年(宝暦元年)には吉宗は亡くなっています。遠慮したというより、もう国を出て行った人は関係ないということでしょうよ。

ほ:あ、年を間違ってましたね。失礼しました。それにしても大変な時に5代藩主になりましたよね。藩財政はすでに下降線をたどり、そこへ藩主、もと藩主、新たに藩主になった方とお葬式が立て続けに3回、江戸藩邸は火事に遭うし、どうしたらいいの、という感じですね。

アンラッキー?…いや、ラッキーです

悦:しかも、四男坊ですしね。

ほ:吉宗の母は巨勢利清という武士の娘ということになっていますが、実は貧しい大工の娘で、女中奉公に出ていて湯殿で光貞が手を付けたという噂があったそうですよ。

悦:好きだなあ。

ほ:え、何が?

悦:光貞が好き者だということですよ。吉宗にしてみたら、突然、降って湧いたように藩主の座が回ってきたのですからね。もし私なら、ちょっと待ってよ、面倒だな、勘弁してくれよと言いたくなりますよね。

ほ:吉宗はね、大悦さんのような面倒くさがり屋じゃなかったのですよ。野心的精力的に政に挑もうとしてたのでしょう。

悦:おっしゃる通りです。時代はやはり、それにふさわしい人を生み出すのでしょうね。混乱する藩政、それに追い打ちをかけるかのように、太平洋沿岸では地震に津波に火山の噴火。その中で吉宗は辣腕を振るい、藩政を立て直します。

ほ:それが評価されて将軍への道が開かれるのですね。偶然のようだけど。大悦さんの言うように、時代の要請だったのかもしれませんね。

悦:幕末の彦根藩主・井伊直弼も、所詮、私は部屋住みの身ですよと「埋木舎」と号してますが、強運に恵まれ、藩主になり、やがては大老となり、最後は命と引き換えに近代を迎えるための膿を出すのですから。

ほ:すねてたけど実力があるから、機会が来たら実力発揮するわけですね。雌伏から雄飛の典型ですね。そういえば、桜田門外の変も松坂と関わりがあるそうですね。

悦:これ以上横道にはそれたくないけれど、直弼の懐刀・長野主膳は本居学の信奉者で、飯高宮前と深い所縁がある。

ほ:井伊直弼については、NHK大河ドラマ(当時は大型時代劇)にもなった舟橋聖一『花の生涯』がありますね。

悦:1963年4月からですが、まさか、子供の頃に見たとか?

ほ:さすがに記憶にございません。それにしても、宮前って面白い土地ですね。松阪市街地から50キロくらい西ですが、小津安二郎が青春の一年間を過ごしてますし、長野主膳が、隠れ住んだと言っていいのかな。

悦:松坂〈阪〉という当時この地では文化の中心から適度に離れていたから揺籃となれたのでしょう。

ほ:静かな場所ですが街道沿いですから、密かな情報が通っていく場所だったかもしれません。

悦:あと射和文庫には桜田門外の変のリアルなレポートが、まことに不思議なことですが茶の秘伝書にカモフラージュされて残っていますが、ああ、吉宗の話だ。宮前は和歌山と松坂を結ぶ街道の宿場町です。参勤交代では何度も通ることになります。

ほ:竹川家に残されていた桜田門外の変についての文献は、茶道の研究者の方が発見されて、立派な本にまとめられましたね。で、吉宗ですが――。

暴れん坊だけど賢い子でした

悦:母の出自はともかくも、家康の曽孫になりますから、血筋は一応クリアしてます。

ほ:4代将軍家綱、5代将軍綱吉とは再従兄弟(はとこ)になりますね。家康との血の近さを理由に吉宗を将軍に選んだということでした。天和4年(1684)生まれ、元禄10年(1697)に綱吉が紀州を訪問した際には兄の頼職と一緒にお目見えしたのでしょう。

悦:将軍は紀州には行かない。江戸の紀州藩邸です。

ほ:なるほど、やすやすとは箱根は越えないのですね。紀州に行ったんじゃなくて、紀州藩邸でご対面した、と。で、この拝謁で越前国に領地を賜り、兄は高森藩の、吉宗は葛野藩の藩主となっています。もちろんまだ少年ですから、ここを管理したのは紀州藩で、領主として赴いてはいませんけどね。22歳で紀州藩を相続する時に将軍綱吉から吉宗という名を賜っています。綱吉の吉をもらったのですね。幼いころから何か光るものがあったのでしょう。

悦:元気がいいというか、6歳の時に、御座所の中で飛び回っていて怪我をした。当然のことながらお守り役の鈴木沢右衛門は責任を取って逼塞を命ぜられた。

ほ:お気の毒に。

悦:近頃、沢右衛門の姿が見えぬなと思った源六 ―後の吉宗ですが― はその事情を知ると、飛び降りたのは自分のしたことで、お守り役には落ち度はないと大殿様、

ほ:二代藩主光貞ですね。

悦:そうです。父に直々に訴えたのです。それで蟄居は解かれたそうですが、沢右衛門は感激し涙を流したそうです。

ほ:さすが名君は子供のころから違いますね。栴檀は双葉より芳しです。

悦:こんな話もあります。御殿廊下の障子を指で破って遊んでいた。

ほ:子供ならやりそうです。

悦:大きな御殿ですから、破っても破ってもきりがないけど、さすがに飽きたのでしょうね。やめた。するとすぐに障子の貼替。宗清という職人が呼ばれて、どれだけ紙がいるかを計算し始めた。

ほ:見積ですね。私もこの前、障子の貼替えをしました。初めてでしたのでピンと張るのは難しかった…

悦:過不足なく紙は買ってきましたか?さて、宗清の作業を眺めていた源六君は、「美濃紙5帖で足るよと」言う。宗清は心の中でいい加減なことを言う若君だなあと思いながら、入念に計算してみたら、源六君の言うとおりだった。

ほ:ほ~。走りながら破って、でもその距離をきちんと計算できたのですね。さすが数字にも強い米将軍、面目躍如たるものがありますね。

悦:ちょっと難しい言葉で言えば、英邁だった。そんな話が『南紀徳川史』にいくつも載ります。

ほ:こんな話もありますね。体も大きく、700人並んでいても頭が出ていたそうですよ。6尺というから180センチくらいあったのでしょう。そして力が強い。武闘派だと言いましたが、父の光貞が相撲を観戦した時、吉宗に力士と相撲をとらせたら、相手を投げた…本当かなあ。

悦:しかも子供の頃から父君が「なんで末子に生まれたか」と嘆くほど乗馬がうまくて、字も草書なら定家流、大字は唐様を使いこなし、しかも性格は柔和で、子どもが懐いたそうですよ。

ほ:松平健さんって、暴れん坊将軍にぴったりのキャスティングだったのですね。ずっと以前に京都行の近鉄特急でお見掛けしましたが、背が高くてがっちりした、強そうな方でした。

悦:色は浅黒い。「麻表色黒」とありますよ。

ほ:質実剛健って感じで、いいじゃないですか。

悦:松坂との関わりも一つ付け加えておきます。元禄9(1696)年、13歳で具足召初め(半元服)、をして、父の江戸行に随行します。3月2日に松坂に着きます。

ほ:この時の参勤交代では、高見峠を越えたのですね。

悦:そうです。ついた翌日、「御鉄砲御殺生被成」、鉄砲で殺生をなさられたと『南紀徳川史』にある。

ほ:えっ、誰を殺したのですか?

悦:いや、きっと狩りですよ。

ほ:鷹狩じゃなくって鉄砲ですか。

紀州の殿さまお国入り…までの大異変

悦:鷹狩りと言えば、異聞ではありますが、おもしろい話もある。その前に、家督を継いで藩主となって宝永7(1710)年にお国入りをします。てまり歌があるでしょう。

てんてん手鞠 てん手鞠
てんてん手鞠の 手がそれて
どこから どこまでとんでった
垣根を越えて 屋根こえて
おもての通りへとんでった とんでった。おもての行列なんじゃいな
紀州の殿さま お国入り
金紋 先箱 供ぞろい、
お駕籠のそばには ひげやっこ
毛槍ふりふり やっこらさの やっこらさ

ほ:え?ちょっとお待ちをーー お父さんやお兄さんたちが亡くなったのって、宝永2年 (1705)のことでしたよね。5年もたってからようやくお国入りですか?

悦:あぁ、そうですね。色々あったのですよ。まず西条藩で問題が生じます。

ほ:西条藩と言えば、お父様の弟・頼純公の創められた藩ですね。

悦:支藩ですね。その息子に問題があって、なんとか解決し。続いて、ご自身のご成婚。相手は伏見貞致王のお嬢様で真之宮理子さまでした。しかしその喜びもつかの間、宝永4(1707)年10月4日には、紀伊半島周辺では大地震と大津波が起こります。甚大な被害が出ました。今のことばなら南海トラフで巨大地震発生といったところでしょうか。

ほ:この年って、富士山の大噴火の年ですよね。

和歌山城和歌山城

悦:それが11月23日、その50日前ですね。この日は風もなく、天気は晴朗、残暑厳しい日だった。突然東南方向から揺れだし、地は裂け水は湧き、天地も一つになるかと疑わんばかり、人家は軒並み倒れ、広場に逃れる人々は三転四倒して気絶するもの数知らず。大坂の如きは死亡3万余人と伝えます(『松阪市史』自然篇)。そして富士山の大噴火です。

ほ:それじゃ帰っている暇はないですね。というか東海道なども被害がひどかったでしょうね。簡単に行き来できませんね。

悦:隣の津では半田橋が傾き、春まで捨て置くわけにはいかないと、延べ5275人を動員し復旧したそうです。

ほ:半田橋というのは岩田橋でしょうか。

悦:半田村を流れているのは岩田川だから、きっとそうでしょうね。

ほ:地震に噴火…地下の太平洋プレートでなにかがあったのかしら。

悦:昔の人はそんなことはわからないから、将軍綱吉は僧侶を召し出して、何故だと問いただしたら、伝通院の祐天上人が、「地にある砂が空から降るという変異は本をただせば、動物の為に人が殺されるというご政道に問題があるのだ」と直言しています。

ほ:なんとまぁ、勇気のあるご発言だこと。綱吉の看板政策・生類憐みの令への批判ですよね。そんなこと言っちゃって大丈夫でしたか。

悦:いやいや、「お前は正直である」とご褒美まで頂いたそうですよ。この祐天上人は、悪霊退散では抜群の法力を持っていました。『松坂権輿雑集』の清光寺の条にも出てきますので、またその時にお話ししましょう。

ほ:江戸のゴーストバスターズですね。

悦:そんなこんなで翌宝永5年も過ぎて、6年正月10日、将軍綱吉が亡くなりました。また個人的にはいろいろあったので、江戸を離れる、暇乞いをすることができなかったのでしょう。

ほ:5年間、次から次へと問題が起きたのですね、で、このお国入りの時、吉宗は松坂に来ていますね。4月27日、江戸を出立。東海道を進み、5月6日に熱田から船で大口港に入り、松坂城に着く。翌日は鷹狩り。さっきお話しかけた鷹狩です。松坂は獲物が多かったのでしょうか。

悦:今でも私の住む辺りは熊と見紛うばかりの大イノシシやシカ、キジにウサギと色々いますよ。

ほ:でも鶴が大事みたいですよ。おじいさんに当たる頼宣は伊勢の領地での鷹狩で獲った鶴を将軍に献上しています。

悦:さすがに鶴はいないね。休む暇なく8日には松坂を出立、和歌山街道を大石、宮前、波瀬の宿と進み、高見峠を越え、大和国から紀伊国へ、いよいよ和歌山城下に入ります。この時、吉宗は小倉袴に大きな紋を付けた木綿の羽織と極めて質素ないでたち。「暴れん坊将軍」とはずいぶん違いますね。もちろん得意の騎馬です。美々しき衣類を着用していた出迎えの人は恐れ入ったそうです。

ほ:はは…。ドラマではキンキラキンのお着物ですものね。当時の松坂は、江戸店持ち商人の町として繁栄していたのでしょう。藩主の目にはどのように映っていたのでしょうね。

女の値打ちは顔だけじゃない!…偉いぞ吉宗

悦:狩りにはうってつけの場所、と気持ちが晴れるだけではなかったでしょう。街道を行き交う人の多さと、季節柄、木綿の花も真っ盛りだったかもしれません。川俣谷で飲む新茶も美味しかったでしょう。きっと、吉宗はこの町、この地域のポテンシャル、潜在的な価値を見抜いていたのかもしれませんね。

ほ:この和歌山入国の間に、ご懐妊中の奥方真之宮理子さまが亡くなってますね。

悦:理子様ご逝去の後、召使に子供が生まれた、長福、後の9代将軍家重ですが、ところがその召使の女が産後の肥立ち悪く亡くなった。そんなことがあって、しばらく側女も置かずにいたので家老が注進に及んだ。「なるほどもっともだ、だが長福のことを考えると死んだ母の縁のものがよいだろう」と仰せになった。そこで探すと、妹がいた。ところがどうにも不細工なので躊躇していたら、吉宗は笑って、「そんなこと気にすることはない。丈夫だったらよろしい」と仰せになったという話です。もう一つ、鷹狩りの時に、田舎家で米俵二俵を軽々と運ぶ娘がいたので召し抱えて、「丈夫な女には丈夫な子が授かる」と仰せになった、そんな異聞が残っています。武門の家では容姿よりも大事なものがあったのですね。

ほ:吉宗さまは面食いじゃなかったのね。美貌にとらわれないのはさすがです。そういえば大奥の美人のお女中から解雇したって有名な逸話がありましたが、当時、どれほどルッキズムが席巻してたのかというお話しですね。…こんな話をしていたら、ちっとも先に進みません。今回はこれで強制終了にしましょうか。

悦:その前に、ほ さんが作成してくれたメモの大事なところだけピックアップしますね。
藩政構の簡素化や、質素倹約による財政再建など、大胆に藩政改革を推し進めた。
吉宗自身が木綿の着物を着て、質素倹約を実践して見せた。これは先ほど触れました。
和歌山城の大手門前に訴訟箱を置いて人々の声を聴こうとしました。これは将軍になってからの目安箱の発想ですね。

ほ:あと、孝行者のご褒美は、『松坂権輿雑集』にも何度か記載がありますね。紺屋町の北出一峰の娘とか、鍛冶町の後家なつとか…。

悦:松坂が多いようですね。松坂はそうでもしないと親孝行なんてしない人ばっかりだったのですかね。

ほ:松阪人の気持ちを逆なでする大胆なご発言ですね。父母状は紀州も対象だったし、褒章は津の藤堂藩なんかもやってますから、松坂だけが、ってことではないでしょう。でも、その勇気にのっかって言うと、『松阪市史』の年表見ていたら、1623年の参考事項に「紀州藩、勢州一円に道中殺生禁制を出す」っていう記載があって、それこそ禁止しなければ殺生が行われていたってことかな…と思いました。

悦:1623年なら、戦国時代が終わってから、平和になったと言っても、まだ人心は荒々しかったのですよ。氏郷が「前科者でもとがめない」とか言って人を集めた新開地でしたから、松坂の人たちの気性は荒かったでしょうね。でもね、それから百年たっているから、荒くれというより、「忠孝を重んじる儒教の論理が欠如している」と、そのように見られたのではないかと思います。さらに百年後の19世紀初め、松坂に学問所を建てようとしたとき、和歌山の儒者がこの町では聖人の教えを語ると耳を押さえて逃げていくとこぼしています。これは武士の論理がこの町では通用しないということなのです。

ほ:なるほど。商人の理論が優勢になっていったのかもしれません。それに、逆に言えば、そういう土地柄だから本居宣長の儒学批判や「物のあはれを知る」という大胆な主張が生まれてくるわけですね。それは商いにも言えるのでしょう。 …このままだと本当に終わりませんね。

悦:次回は必ずこの段を終わりましょう。その前に予告編として写真を2枚入れますね。

ほ:あら、反古だ!ご自慢のひと品ですね?

悦:ふ・ふ・ふ… これは、最近、松坂の近郊から出てきた吉宗の忠臣だった加納遠江守に宛てられた諸大名の挨拶状です。

ほ:ということは、将軍になってからですね。

悦:そうです。私は先ほど吉宗は鷹狩りでよく訪れたこの地域の、潜在的な力を見逃さなかったと言いました。その一つが、優れた人材の引き抜きだった。

ほ:たしかに斬新な人材登用をしましたね。

悦:このような諸大名の挨拶状が反古として松坂にあるということは、この場合加納家に仕えた人が持っていたもので、それが松坂の本家に残されていた。明治になって徳川幕府が瓦解した時に、こんなものはいらないと襖の下張りにされたのでしょうね。

屏風の下貼りに使用されているが、中途で切断することもなく奇麗に貼られている。
宛名は、大方が「加納遠江守」、差出人は諸大名。約50通。加納遠江守久道(1673-1746)は徳川吉宗の側近で、書簡の内容は歳暮や年始の挨拶など儀礼的なものだが、花押が見事である。

ほ:ねぇ、さっきお話しされた鷹狩の異聞って、そのこと…?

悦:次回はもう少し吉宗と松坂の話を続けますので、ご期待ください。

ほ:わ、スルーされちゃった… お預けなの? …次回でホントにこの章を終わるのかなー…。

『松坂権輿雑集』を読んでみた|2026.07.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集