COLUMN

第17回 暗君?賢君? 殿さまもいろいろ

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

ほ:今回は、引き続き「國君御代々之御事」の4回目です。まだ吉宗の話題が続きます。でも、その前に、ちょっとだけ当時の世情などを確認しておきましょうか…。吉宗が藩主になる1700年代に入るころは、戦いの記憶も薄れて町人の力が強くなってきてるのでしたよね。

悦:つまり贅沢になってきたということです。腹を空かせて逃げ惑っていた時代もようやく終わりを告げた。衣食足りて礼節を知るどころか、もっと美味しいものを食べたい、おしゃれもしたいとなってくる。するとお金が必要になる。貨幣経済、流通経済の浸透ですね。米を基盤としていた武士たちは、この時代の荒波の中に巻き込まれていきます。しかも米は不作の年もあり、また売り惜しみもある。

ほ:令和になってさえ米騒動がありましたからね。

悦:生産量が減ったわけでもない、みんながパンやパスタを食べ控えてご飯ばかり食べていたわけでもない。でも米がない。そういう奇妙なことが起こるのは、米に対する依存度が高すぎるからですね。

ほ:それで、各藩では特産品の開発が盛んになるのですね。この辺りならさしずめ木綿やお茶でしょうか。これを持って商人たちは各地で商いを展開するのですね。「松阪市史」の年表を見ますと、三井家は、1691年に幕府御為替御用をはじめていますし、翌年には大阪・高麗橋に呉服と両替商のお店を出すなど、すでにかなり発展しています。

紀州藩には“もっけの幸い”――松坂の商人発展
(松坂の時代がやってきた!)

悦:三井高利の成功は、「必要だから買う」から、「買い物は文化だ」への転換だったと私は考えています。

ほ:買い物が文化になった…楽しむものになったのですね

悦:買い物は平和の象徴でもあるし、担い手は、そう、女性です。いよいよ商人の町・松坂の時代がやってきたのです。松坂の女性は一層美しくなります。もちろん松坂よりも先行して江戸に進出していた櫛田川流域の商人たちの繁栄も続いていますね。

ほ:「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立上り、耳を澄ませて太鼓を数え、「おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ」助太刀するは此の時ぞ、もしやその中に昼間別れたあのそば屋が居りはせぬか」

悦:三波春夫の「元禄名槍譜俵星玄蕃」ですね。何ですか突然。

ほ:1702年、赤穂浪士の討ち入りがありました。本懐を遂げた浪士一行は、泉岳寺に向かう途中、永代橋近くのちくま味噌の江戸店に立ち寄っています。

悦:ちくま味噌といえば、中万の竹口さんですか。

ほ:そう。竹口家もそうですし、射和の富山家も大坂に店を出すなど、更に発展しようとしています。そして、松坂城下の商人たちも急成長していきます。城下の商人たちが儲けて大きくなっていくのは紀州徳川家にとっては“もっけの幸い”でしたね。

悦:“もっけの幸い”、“儲けの幸い”、それぞれのお店は、内情は大変だったと思いますが、まあ金蔵が着々と育っていくみたいなものですから、藩にとっては有り難いでしょうね。武士は所詮は簒奪者ですから、獲物は多いに越したことはない。

ほ:でも成功した人の先祖も、多くはもと武士ですよね。

悦:上田秋成が、「三井は浪人者」だと減らず口をたたきますが、三井だけじゃない、竹川や富山など皆そうですからね。刀をソロバンに替えて、銭の戦いに勝って行ったのが成功の一因だという気がしますね。

ほ:ええ、計算能力や教養などに加え、挫折を経験したガッツがありますからね。

悦:そうです。たとえば竹川さんの家は、近江浅井家でも藩主の一族じゃなかったですか。武士といっても足軽や雑兵ではない。大勢の家来を統率していた人たちです。大将クラスとかね。だから主人が射和や中万、松坂から、遥かに離れた江戸、大坂、京都の番頭や手代を指揮していくのも可能なのです。

ほ:時代や世相の分析・先読みも大事ですしね。

吉宗に賛否両論ありました…やっぱり?

ほ:そんな時代に、時代真逆のような質素倹約という享保の改革を打ち出して、吉宗は将軍としてすんなりと受け入れられたのでしょうか。

悦:為政者と庶民はベクトルは真逆ですから、日本をまとめるためには、余人をもって代えがたい人材だったのでしょうね。また松坂の商人には進出先に自分たちのリーダーが座るのですから、ありがいこともあったはずです。

ほ:「紀州さまのお膝元、松坂でございます」ですか。吉宗がどのようにして幕臣たちのハートをキャッチしたのか、ちょっと調べてみました。まず、吉宗は将軍になるとき、紀州藩を廃藩にせず存続させたのです。前の将軍の綱吉の館林藩や家宣の甲府藩は当主が将軍になると廃藩され、その家臣は皆幕臣となっているんですよ。でも吉宗は、御三家の領地は東照神君から拝領した聖地だから廃してはいけないと存続させたんです。そして、紀州藩士から、大禄でない40名ほどだけを従えて江戸城に入ったのです。しかも、この40人余りは、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したというんですね。旧幕臣の地位を脅かさなかったんです。

悦:えっ、そうだったのですか。私は「引き抜きだ」と思ってました。だからこの時、江戸に行けなかった人は、役に立たない残りかすかと思ってましたよ。

ほ:またしても松坂人の心を逆なでしちゃうようなご発言ですね。これも人心掌握のひとつの鍵ですね。もちろん、丹羽正伯や植村政勝のような本草学者は、特殊技能を持っているから別枠でしょうね。また直接の引き抜きではないけれど、加藤枝直などはその後、江戸で活躍します。また、家宣の代からの側用人・間部詮房や新井白石を罷免し、水野忠之を老中に任命して財政再建を行いましたし、司法制度の改濡革、新田開発の促進や官僚制度の改革、幕府の収入の安定化を図り、庶民生活に関しては、江戸町火消を組織し、目安箱を設置、小石川養生所の開設も吉宗の善政として知られています。切れ者ですねぇ。いろいろ行いました。これらは享保の改革(1716)と呼ばれていますね。

悦:まず前政権の否定ですね。今でも常套手段ですね。吉宗は押し出しも立派だし、計算にもたけている。仰せの通り、善政も行いますが、すべてがそれでうまくいくというものではない。財政立て直しのために年貢を上げます。しかし、貨幣経済が浸透してきたから、百姓も米を売って稼がないといけなくなる。農村社会は窮乏の危機に陥ります。でも立派なのは、率先して質素倹約はもちろん、これは押し付けではなく自身のことですが、女性は美しさより丈夫で、健康な子供が生めたら十分だという価値観を持っているのです。

ほ:やはり、賛否はあったわけですね。ところで、吉宗で子供といえば、天一坊事件を語らねば!という気持ちになります。享保13年(1728)に天一坊という山伏が「自分は吉宗公のご落胤だ。もうじき大名にしてもらう」と言って浪人を集め、捕らえられて獄門になったという事件ですね。大岡忠相が裁いたということになってますね。

悦:そういう話、好きですねぇ…。そんな ほ さんにおすすめなのが、半世紀も前の本ですが、大石慎三郎さんの『大岡越前守忠相』です。大岡政談についても書いてありますよ。

「大岡政談」で庶民に親しまれてきた大岡越前守の姿は、政治家とは、裁判官とはこうあってほしいという庶民の願望が、大岡忠相という特異な政治家と結びついてできあがった、いわば歴史の虚像である。

悦:とあります。

ほ:一刀両断。虚像ですか…これも見事なお裁きでございます。

悦:それと先ほどちらりと話された、大岡越前の山田奉行時代の話ですね。

ほ:吉宗が紀州藩主のころ大岡忠相は山田奉行でした。山田は伊勢市の外宮のある一帯です。その後、吉宗が将軍になると、大岡は江戸町奉行に抜擢されますね。それは山田で何らかの出会いがあって、吉宗は大岡を認めたのだろうという話です。

悦:劇団伊勢さんがお芝居にされてましたね。

ほ:劇団伊勢さんは、地元の偉人や伊勢に残る物語などを演じていますね。私、以前に『「劇団伊勢」の物語』という本を書かせていただきました。この本は、元神宮禰宜の河合真如さんが、劇団伊勢の60周年を祝ってつくられた本で、団長の佐藤さんの人生を軸に、倭姫命や尾崎咢堂、御師など劇団がお芝居にしたいろいろな物語も紹介しています。

悦:地元にまつわる物語を演劇として伝え、残していくのは良いことですね。でもそれ以上に、そのような文化活動を記録することが大事なんだな。いい仕事されましたよ。


『「劇団伊勢」の物語』(2023年 人間☆社)
表紙右上の写真が、佐藤団長が演じた大岡越前

悦:さて、神領を代表する大岡忠相と、隣り合う紀州藩のもめごとも大石さんの本にも記述されますが、旧紀州藩領内に住む私にはちと物足りないですね。でも大石さんのこの本は、岩波新書でね、とても読みやすく名著ですよ。当然吉宗についても記載は豊富で、こんなことも書いてありますよ。

(吉宗は)精力も絶倫だったようで、«天一坊事件»の沢の井の話でも象徴されるように、これをとりまく女性も多彩である。しかし他の将軍や大名たちのように特定の女性に耽溺するということはなかった。家康がそうであったように、美醜・教養などは気にしないタイプだったようである。

ほ:精力絶倫で女性の見栄えに興味なし…どんなんでもいいの? 歴史書というより、通俗読み物みたいですね。

悦:これが、学者の「柄の大きさ」ではないでしょうか。大石氏の筆は、女性のことから着る物、食事にまで及びます。大石さんには、その後の『徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像』という本もあります。

ほ:柄の大きさねぇ…。さて、そろそろ吉宗から離れて、お話を紀州藩に戻しましょうか。吉宗が江戸に行ったので、宗直(むねなお)が次の藩主になるんですね。読みますよ。

吉宗以降も結構華やかです

一、紀伊大納言宗直卿。先君の御従兄弟。享保元丙申(1716)年五月朔日御相続。延享二乙丑(1745)年十月五日、大納言に御任。同月二十三日従二位に御叙成りなされる。

悦:宗直は吉宗の父方の従兄で、伊予国西条藩の第2代藩主でした。藩の財政再建のため、藩札発行や銅銭鋳造などに尽力したということで、41年2か月の長きにわたって紀州藩主として統治し、満74歳で亡くなりました。次の代は長男の宗将が継いでいます。

ほ:「松坂権輿雑集」に書かれているのはここまでですね。7代・徳川宗将(むねのぶ)については、この対談で使っている『松阪市史』のテキストでは書かれていませんが、他の本にはありましたね。

悦:ええ、宣長が書き写したものにもあります。

紀伊中納言宗将(ハル)卿
先君ノ御嫡 宝暦七丑年八月七日御相続 明和二酉年 月 日御逝去 菩提心院殿

悦:これには月日が書かれていませんが、正しくは明和2年(1765)2月25日ですね。この、宗将が亡くなった年の6月8日に、この「松坂権輿雑集」の筆者・久世兼由も亡くなっています。

ほ:それで、ここで終わっているのですね。兼由の没後、書き写した人たちが補ったりしたのかな…。このあとの藩主は、8代・徳川重倫(しげのり) 9代・徳川治貞(はるさだ) 10代・徳川治宝(はるとみ) 11代・徳川斉順(なりゆき) 12代・徳川斉彊(なりかつ) 13代・徳川慶福(よしとみ) 14代・徳川茂承(もちつぐ)と続きました。割と地味な感じ?

悦:いえいえ、地味ではありませんよ。昔の本ですが、『和歌山県誌』には「(8代・徳川重倫)公気象〈性〉勇豪にして躁暴殆ど狂に近し」とあります。

ほ:何で読んだか忘れましたが、隣家の松平家の女性を銃で撃とうとしたとか、刀を振り回したなどの話もあるようで、あながち作り事とは思えませんね。

悦:恐ろしい藩主ですが、この御母堂・7代宗将の奥方が、みほ子さま、後の清信院様です。

ほ:…みほ子さま…?

悦:

みほ子さまは、なんと賀茂真淵の愛弟子だったのです。このことは以前、「カチッと宣長」5回「男の円居・女のサロン」で書きましたが、ちょっと抜粋しますね。
1741年9月、紀州徳川家江戸中屋敷は華やいでいた。
藩主の長子・宗将(むねのぶ)が、伏見宮貞建親王の養女・富宮徳子を室に迎えたのである。富宮の周りを才色兼備の侍女達が取り巻いた。
その彼女たちがあげて物学びと詠歌の師と仰いだのが、気鋭の和学者・賀茂真淵であった。真淵は女性の門人を慈しみ、それぞれに「きよいこ(清子)」、「もみこ(紅子)」、「みほ子」などと雅名を与えて、花見や紅葉狩り、夏は隅田川に船を浮かべては楽を奏し、歌を詠み、盃を巡らせた。

悦:もう少し続けます。

さて、才媛・倭子と真淵門下で仲良くしたみほ子は、やがて七代藩主となった宗将(むねのぶ)の寵愛を受け、重倫を生み、御部屋八重の方と呼ばれ、また重倫が八代藩主となってからは清信院と呼ばれることになる。その孫が、十代藩主徳川治宝(はるとみ)である。
松坂で医者をしながら『古事記伝』を執筆していた宣長に、突然、紀州藩から仕官の話が来たのが1792年、63歳の年末であった。
その二年後、宣長は和歌山に赴き、藩主治宝の御前で講義を行うことになる。

悦:つまり孫の10代治宝侯が余生を和歌山で送るお婆様の無聊を慰めようと召し抱えたのが、本居宣長だったのです。

ほ:えっ、退屈しのぎに呼ばれたのですか。なんだか気の毒です。宣長、忙しかったのに…。去年の大河ドラマ「べらぼう」で9代の治貞が若き松平定信に、「先年、本居宣長という和学者に政(まつりごと)について意見を出させたのだが、物事を急に変えるのは良くないと言うておつた」と言ってたじゃないですか。

悦:大河ドラマのこの回では、宣長は名前だけが出ただけでしたが、あのシーンはよかったと思います。この9代の治貞が宣長への道筋をつけたのは間違いないけれど、しかし治宝侯はこの段階ではそこまではお考えになってない。とりあえずおばあ様が喜んでくれたらいい。ついでに宣長とやらの講釈でも聞くか、というのがどうも真相みたいですよ。

ほ:それで、物は試しと宣長の講釈を聞いてみたら、おもしろい、もっと聴きたい、となる。しかも『源氏物語』の講釈は絶品だというから、ぜひと所望があり、晩年宣長は大忙しの中、和歌山に出向いては講釈をする、ということになったのですか。

悦:几帳面な宣長は御前講釈の時の記録を残していますが、寛政11(1799)年2月17日午後、和歌山城大奥御対面所で『源氏物語』「紅葉賀」を講釈します。
御上段十八畳敷の広間の真ん中に藩主治宝(はるとみ)侯が座っておられます。
御上段の間の下手には十八畳の広間があり、廊下があります。
時代劇で殿さまが出てくるシーンを思い出してください。
その廊下に見台、本を置く小さな机を置いて宣長が座っています。更にその宣長の背後、殿様からは見えない場所に宣長の養子となる大平が控えています。
イメージできますか。宣長のメモを参照してください。

ほ:ずいぶん離れてますね。遠い… 宣長講釈する声は聞こえたのかしら。

悦:隣の部屋で控えていた家臣が、宣長のことばはよどみなく。分かりやすかった。また区切りも大変巧みで、さすがに若いころから講釈そしているだけのことはあると感心しています。

ほ:よほど上手だったのですね。どのくらい講釈したのですか。

悦:九つ頃というから12時くらいに参り、七つ半、5時頃にさがっています。ずっと講釈していたわけではなく、途中でコーヒーブレイクというか、お菓子も出たそうです。さて、その翌年の図を見てください。寛政12年11月29日です。

講釈図殿との距離は遠い

講釈 図殿様が下りてきた

ほ:あっ、藩主と宣長が近づいている!

悦:治宝侯ももっと近くで聞きたかったのでしょうか、御上段から次の間に下りてこられてますね。そしてにっこりと微笑み「ひさしい」と声を掛けられたそうですよ。

ほ:殿さまが段々近づいてくるの、面白いですね。この時の宣長は紀州家から召しかかえられてましたよね。禄高はどのくらい?

悦:10人扶持です。でも奥医師格だから拝謁は叶ったのでしょうね。

ほ:治宝は学問好きで、和歌山にも江戸にも松坂にも学習館や学問所などを設置して、藩士の子弟の教育に務めたということですし、従一位と高いくらいももらってる…。でも、隠居してからも力を持ち続けていたのでしょう。それは、ちょっと嫌なヤツじゃないですか?

悦:まぁ、そういう側面もありますが、能力があるとそういうことがおこるものです。隠居時代も含めると64年間も紀州徳川五十五万五千石の最高位に君臨したのですから。それとね、『古事記伝』が全館刊行されたときには『古事記伝』の題字を書いてくださった。しかし、あまりに恐れ多いと出版される『古事記伝』には載せずに、『古事記伝首巻』という別の形で出版したので、読む人の目には触れないのが残念です。逆に、これでもか、と言わんばかりに大きく書かれて人々の前に掛けられていても気づかないのが、松坂の八雲神社の扁額です。

ほ:見たことないですねぇ。今度お参りしたらよく見てきます。

悦:堂々たる筆跡です。本居家、また宣長学統と治宝侯にはまだまだお話ししたいことは山ほどありますが、場所をわきまえて、これくらいにします。

ほ:あ、ハイ、そうですか…。11代の斉順は、11代将軍・徳川家斉の7男ですが、藩の経済がひっ迫して大変だったようです。そして、12代の斉彊も家斉の21男です。この人の時代は、落雷で和歌山城の天守閣が焼失するなど多難だったということです。30歳という若さで亡くなったのは、苦労が大きかったのでしょうかね。それから、13代の慶福は、後に将軍徳川家茂(いえもち)となり皇女和宮を妻とした人です。家茂と和宮は、政略結婚とはいえ仲睦まじかったそうですね。この人も、3歳と幼少に藩主となり、13歳で将軍になり、幕末の動乱に翻弄されて享年21歳で亡くなっちゃうのは心労が原因としか思えません。和宮とも短いご縁で、かわいそうです。

悦: 最後の徳川茂承で、明治維新を迎えますね。家茂が亡くなった後、この人を将軍にという声も多かったけれど,固辞して徳川慶喜になったそうです。将軍家と紀州徳川家は密接に絡み合っていますね。

ほ:御三家は血のスペアという側面がありますが、確かに、血筋が絡んでます。あの、私ね、前回のお話のあと、どうも、自分が歴史の流れというか、世の中の気分の移ろいを掴めていないのを感じまして、これはいかん!と思い、ひどくざっとしていますが、それぞれの藩主の時どんなことがあったか、松阪を主として出来事を拾った年表をつくりました。次回はそれをもとにお話ししましょうか。拾った事項は私の気分で選んでますので、偏ってると思います。直してください。

悦:いいですよ、そうしましょう。

ほ:では私、川曳きに行きたいのでこれで失礼します。

悦:あれ、行っちゃった。お木曳、好きだな――。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2026.08.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集