COLUMN

第18回 今月はオマケの年表

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

今月はオマケの年表

ほ:暑いですね~。え…と、先月読んだところは、第11まである「松坂権輿雑集」の第1部がもう少しで終わる、というところなのですが、このあと、内容が変わりますね。

悦:今からは「各論」ですね。

ほ:内容がぐっと具体的というか、局所的になりますね。その、小さな記録に入っていく前に、紀州徳川家の領地となってからのざっとした歴史をおさらいしませんか。前回申しましたように年表をつくってみました。ただ、流れをつかみたいというだけの目的で、とてもテキトーに作りましたので、間違いがたくさんあると思います。お木曳だの何だのといろいろあって、時間がなくて見直しができていません。項目も行き当たりばったりに入れてありますので…。

紀州藩主と松坂に関わる年表(青文字は全国的な出来事や流れ)

紀州藩主 将軍 出来事
初代・頼宣
よりのぶ
(南龍公)
(家康十男) 
2代・秀忠
1605就任
3代・家光
1623就任
(秀忠次男)
4代・家綱
1651就任
(家光長男 11歳)
1619(元和5) 松坂、紀州徳川藩の領地となる。初代藩主・頼宣、紀州入府
代官・長野九衛左門 松阪預かりとなる
1624(寛永元) 富山長左衛門 初の富山札を発行(櫛田川流域の商人繁栄)
1626(寛永3) 頼宣、伊勢国に鷹狩し、とらえた鶴を家光に献上
松坂町奉行に与力二人を置く
1637(寛永14) 島原の乱
1651(慶安4) 由比正雪の乱(慶安の変)頼宣関与?
1657(明暦3) 明暦の大火(振袖火事)頼宣関与の噂
1660(万治3) 頼宣の父母状、松坂に到着
1663(寛文3) 富山家江戸本町二丁目に大黒屋呉服店開業
小津屋孫右衛門、大伝馬町で木綿仲買となる
1665(寛文5) 小津屋孫右衛門、大伝馬町で木綿仲買となる
2代・光貞
みつさだ
(対山君)
5代・綱吉
1680就任
(家光4男)
1667(寛文7) 頼宣、長男・光貞に譲位
1671(寛文11) 頼宣没
1673(延宝元) 三井高利江戸本町に越後屋を開店
1677(延宝5) 紀州藩、農村立て直しの法令を出す
1685(貞享2) 生類憐みの令
1690(元禄3) 三井家、徳川幕府大坂御金蔵銀御為替御用を受ける
1697(元禄10) 将軍・綱吉、紀州訪問。頼職や吉宗がお目見えする
小津屋清左衛門、長井与兵衛ら次々大伝馬町に木綿問屋を開く
3代・綱教
つなのり
1698(元禄11) 光貞長男・綱教に譲位
1699(元禄12) 富山家大坂高麗橋に呉服店開業
中絶していた機殿神社の神衣祭再興される
1702(元禄15) 松坂城代松坂預かりとなる 紀州藩、松坂茶屋札発行
赤穂浪士討ち入り 翌朝、ちくま味噌の江戸店に立ち寄る
長谷川源右衛門、竹川政賀、辻屋与兵衛ら大伝馬町に木綿問屋開業
1704(宝永元) 綱教妻・鶴姫(将軍綱吉の娘)没
1705(宝永2) 富山家大坂でも両替商開業
5月、綱教没
8月、光貞没
4代・頼職
よりもと
1705(宝永2) 光貞三男・頼職が相続(父の死に、江戸より早馬で駆け付ける)
9月、頼職没(26歳)重なる不幸に藩の財政危機
5代・吉宗
よしむね
6代・家宣
1709就任
(綱吉養子)
7代・家継
1713就任
(家宣4男 4歳)
1705(宝永2) 10月、光貞四男・吉宗が相続
紀州藩、松坂紺屋町北出一峰の娘を孝子として褒美
1706(宝永3) 三井越後屋と富山大黒屋 江戸での安売り競争
1707(宝永4) 富士山噴火
1709(宝永6) 松坂城石垣普請はじまる
1710(宝永7) 吉宗江戸から紀州への途上で松阪を訪れる
1716(享保元) 徳川吉宗第8代将軍となる→享保の改革(享保元年から)へ
6代・宗直
むねなお
8代吉宗
1716就任
(紀州藩主 光貞4男、
家康曾孫)
9代・家重
1745就任
1716(享保元) 吉宗の従弟・宗直が相続
1718(享保3) 藤堂家、機殿神社に寄進し神事復興する
本草学者松本駝堂、熊野で発見した和人参を幕府に献上
1722(享保7) 國分家、常陸国土浦に出店、綿やたばこ等に加え醤油醸造する
1728(享保13) 天一坊事件(吉宗の子かも?)
1733(享保17) 米価高騰し死者多数出る(享保の飢饉)
紀州藩松坂へ御用金を課す
1740年代 松坂の商人続々と大伝馬町に出店する
1752(宝暦2) 久世兼由「松坂権輿雑集」を著す
1757(宝暦7) 宗直江戸屋敷にて没
7代・宗将
むねのぶ
10代家治
1760就任
1757(宝暦7) 宗直の長男・宗将が相続
<仏教に帰依し日蓮宗を排撃、寺に多額の寄付→財政圧迫>
1761(宝暦11) 奥田三角「三角集」刊行
國分勘兵衛、土浦醤油仲間の総元締となる
1763(宝暦13) 本居宣長、松坂で賀茂真淵と出会う(松坂の一夜)
射和富山本家で荒木田久老ら元暦校本「万葉集」を披露見校合
1765(明和2) 宗将和歌山にて没
8代・重倫
しげのり
1765(明和2) 宗将の二男・重倫が相続(20歳)
1766(明和3) 松坂町諸株を取り極め、株金を定める
1771(明和8) おかげ参り流行 松坂を通る
1782(天明2) 天明の大飢饉 翌年浅間山大噴火
1785(天明5) 重倫、隠居(30歳)して叔父に位を譲る(以後54年間の隠居生活)
9代・治貞
はるさだ
(紀麟公)
11代家斉
1787就任
1785(天明5) 宗直次男、伊予西条藩主・治貞が相続(重倫の養子として)
<財政再建など藩政改革を行う(倹約殿様と呼ばれる)
熊本藩の細川重賢と並んで「紀州の麒麟・庇護の鳳凰」と称される>
1787(天明7) 本居宣長、治貞に「秘本玉匣」献上
1789(寛政元) 治貞没
10代・治宝
はるとみ
12代家慶
1837就任
1789(寛政元) 重倫次男・治宝が相続
<学問好き、松坂城下に学問所(和歌山城下や江戸赤坂藩邸にも)>
1792(寛政4) 本居宣長を召し抱え、和歌山城で三度の進講
1794(寛政6) 宣長、半に学問所建設を願い出る
1808(文化5) 富山家、負債を整理し、分散
間宮林蔵、樺太探査
1819(文政2) 紀州藩江戸屋敷焼失により、松坂へ人足差出を命ずる
1823(文政6) 紀州で大規模な百姓一揆「こぶち騒動」起きる
1824(文政7) 「こぶち騒動」の責任を取り治宝隠居
紀州藩、松坂へ御用金を課す
11代・斉順
なりゆき
1824(文政7)) 11代将軍・家斉の七男で治宝の女婿である斉順が相続
<重倫・治宝の二代の隠居を抱えた贅沢な生活で財政が傾き、
治宝と斉順それぞれの側近の間に対立が生じた>
1825(文政8) 紀州藩、松坂へ冥加金を課す 異国船打払令
1833(天保4) この年から6年にわたり天保の飢饉
1837(天保8) 竹川竹斎、上射和池築造荷着手 大塩平八郎の乱
1838(天保9) 紀州藩、松坂へ御用金課す(この後もしばしば御用金あり)
1841(天保12) 老中水野忠邦、天保の改革
1844(弘化元) 松浦武四郎蝦夷地探検に出発
1846(弘化3) 斉順没
12代・斉彊
なりかつ
1846(弘化3) 徳川家斉の二十一男 斉彊が斉順の養嗣子として相続
落雷で和歌山城天守閣焼失
1849(嘉永2) 斉彊没 享年30
13代・慶福
よしとみ
(家茂いえもち)
13代家定
1853就任
1849(嘉永2) 斉順長男の慶福が相続
1853(嘉永6) ペリー来航 竹川竹斎「海防護国論」を著す
1854(安政元) 安政の大地震・津波
1858(安政5) 家茂、第14第将軍に就任(12歳)
14代・茂承
もちつぐ
14代家茂
1858就任
15代慶喜
1867就任
1858(安政5) 松平頼学の六男・茂承が相続
1860(万延元) 桜田門外の変
1862(文久2) 家茂に皇女和宮降嫁
1867(慶応2) 大政奉還 松坂に飢饉 ええじゃないか流行
1868(明治元) 明治維新

ほ:こんな感じですが、いかがでしょうか。

悦:かなり恣意的だなあ。「おまけ」としてならこれでも結構ですが、でも「権輿雑集を読む」と見出しを掲げている以上は、項目の選定は必要かもしれませんね。

ほ:そうですね。じゃあそれを今後の検討課題として、次回からまた読み進めましょう。
まだ残暑が続くようですので、ご自愛ください。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2026.09.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集