COLUMN

第19回 人の道って人によって違っちゃうものだから…

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

「父母に孝、法度は守れ」って言われても…

ほ:猛暑が続いたかと思ったら、熊本では地震、片付かないうちに今度は滝のような雨が各地に降って…。日本はどうなっちゃうのでしょう。天変地異がフツーになりそうな昨今ですね。

悦:前回、紀州徳川家歴代藩主の話をしましたが、為政者はいつの時代も、周辺諸国との紛争だけではなく、今の私たちが悩まされているような天変地異との戦いがあります。しかし、為政者にとってそれよりももっと大事なことは、秩序の維持です。人の道を踏み外さないことだと、上に立つものは考えるのですね。

ほ:人の道ねぇ…。道徳だの思想だのも、為政者に都合がいい方向に向いてるものを押し付けることが多いでしょうし、力で押さえつけようとする為政者が多かったような気がしますが…。でもまぁ、上に立つ者が人の道を教えるというのは、ある意味、当たり前ですね。

悦:そう。今回は、まさに当たり前の話です。人々が道を踏み外さぬように、紀州徳川家の初代藩主徳川頼宣は、領民に「父母帖」を与えました。

ほ: 本文を読んでみますね。

御教訓松坂へ(江)到来の事
父母に孝行に、法度を守り、謙り、奢らずして、面々家職を勤、正直を本とする事、誰も存たる事なれどもいよいよ能相心得候様ニ常に下へ教可申聞者也
右は万治三子年三月紀府より松坂江到来之由ニ語伝ふ

ほ:「御教訓」が松坂に到来したこと という題ですね。「父母に孝行をしなさい。世の中の決め事はきちんと守り、へりくだり、奢ることなく、一人一人がと家職、家業に励み、正直を本とする事。これは誰も誰もよくわかっていることではあるが、あらためてよくよく心に停めるように、事あるごとに下々に教え聞かすべきことである」と、本当に当たり前のことが書かれています。はじめの文言から「父母帖(状)」と呼ばれていますね。「父母に孝、法度をまもれ」とか、そう言われてもなぁ…と思ったと思います。

悦:「衣食足りて礼節を知る」とは、中国の『管子』という書物にそのような意味の言葉が出てきて、わが国では『続日本紀』和銅7(714)年2月の詔に出てきます。昔から上に立つ者は、これを言うのです。さて、これが発布されたのは万治3年に、紀州から届いたとあります。西暦1660年、3年前には江戸では明暦の大火があり、この年も風水害も多いのですが、それでも社会や人々の生活も少しは落ち着いてきた。

ほ:そろそろ礼節を知るべき時だと考えたわけですね。伊勢の商人の江戸進出も盛んになってきましたしね。戦国時代とはまた違う、危険な時代ですね。上に立つ人にしてみれば、ね。

悦:貨幣経済が定着してくるから、このあたりで引き締めでしょうね。

ほ:ところで、この「父母状」のようなものは、どうやって庶民に知らしめるのですか。松阪市の広報と一緒に各戸配布して、目につくところに貼っておいてくださいとか?

悦:そんな「ごみ収集カレンダー」みたいなことはない。また寺社のお札みたいに、少し高いところに貼って、毎朝、家族で唱和する、というものでもない。

ほ:じゃあどうするのですか。

悦:丁寧に読んでみてください。「常に下へ教え申し聞かすべきものである」とありますね、例えば村なら庄屋とか、町なら町役などが、人が集まった時に読んで聞かせていたのでしょう。

ほ:教育勅語みたいですね。

悦:歳が分かりますよ。知っているのですか、教育勅語を。

ほ:昔は、国民学校で読み聞かせたものでした。

悦:読み聞かせられたのじゃなく読み聞かせた方なのですか…いったい何歳?人魚の肉でも食べたのですか。

ほ:あれはたしか18のときでした。人魚とは知らずに…

悦:はいはい、もうその話は結構です。江戸時代の松坂の人たちは、きっと威儀を正し首を垂れて聞いたことでしょう。百字にも満たぬ短いものですが、緊張の一瞬ですよ。きっと。わたし以前、この「父母状」を見たことがあります。

ほ:本物が残っているのですか。

悦:本物といっても、各所に配ったのだから、何百、ひょっとしたら何千枚もあった内の一枚でしょう。厚手の奉書に墨痕鮮やかに書かれていたのですが、その頃の私には、特に史料的価値もわからず、内容は、おっしゃったようにあたりまえのことですから、おもしろいものでもない。

ほ:それにしても、江戸時代のものですよね。どこにあったのかな。

悦:松阪のとあるお寺の住職が「古物商からもらったけど」と、記念館に持ってこられて、「寄贈しますよ」という話だったかと記憶します。展示にも使えないしなぁと、たしか持っておかえり願った記憶があります。

ほ:惜しいことを。

悦:今となってはね。でも、松坂の旧家でも探せば、きっと残ってますよ。ネットのオークションでもいくらでも出てきそうだな。

ほ:大事なものだったのでしょう。

悦:江戸時代はね。藩祖が直々に書かれた、といっても筆は祐筆だし、何度も配られたようですから、預かった方は扱いに困ったでしょうね。ぞんざいには扱えない。きっと紋付羽織袴で恭しく押し頂いてととりあつかうけれど、御一新以後は、土蔵の片隅にポツンと残されていたのでしょうね。

ほ:そんな物ってありますよね。個人的にはそんなにありがたいものでもないけれど、捨てるに捨てられない。

悦:それこそ「教育勅語」はともかくも、御真影の類ですね。御真影ってわかりますか?

ほ:フフ…八百比丘尼ですから。陛下のお写真ですね。宮内省から各学校に貸与されたのでしょう。火事の時に御真影を守ろうとして殉職した校長先生の話などもありますね。

親切な庄屋さんの気の毒な展開…良かれと思ったのに

悦:実はこんな話が残っています。皆の前で「父母状」を読み終えた庄屋さんが、静かに聞いてはいるが、こいつらにはまだ意味がよくわかってないなと思い、実はこれは有り難いお言葉なんだと、おそらくたとえ話も交えて説明したのでしょうね。

ほ:いわゆる説経ですね。親切というかお節介というか。

悦:そうそう。私なんかも、してしまいがちですよね。

ほ:あ~~。コメントは差し控えます。

悦:その説経の台本を作って、雨の日などに百姓たちを集めて説き諭していたのですが、ある日。役人につかまり、追込閉門五十日のお咎めを受けたのです。

ほ:それは気の毒な話ですね。面白おかしくしすぎちゃったのかな。

悦:どうもそうではない。真面目に語っていたようですが、そもそも殿様の教えに注釈をつけることが恐れ多いというのです。

ほ:不敬罪ですか。

悦:またまた恐ろしい言葉が出てきました。そうなのです。しかし捕まった紀州岩橋村の大庄屋、岩橋吉良大夫里道は、自分は間違ったことはしていないと信念を曲げず、何と江戸の目安箱に二度も訴え、また和歌の先生だった冷泉家にも頼み、老中に訴えます。

ほ:徹底抗戦ですね。信念の人だ。

悦:そしたら逆に捕らえられ、紀州田辺の牢に6年間も閉じ込められました。

ほ:そこまで行くとかえって教訓になりませんね。

悦:事が長引くにつれて、百姓たちから助命歎願が出され、ようやく帰宅を許されましたが、捕縛からすでに18年もたっていたそうです。面白おかしく語ったのならともかくも、何も悪いことはしていない。常に下に教えろというのですから、いわば当然の行為です。最初に咎めた木っ端役人の難癖こそが咎められるべきでしょうね。

ほ:聞かされた住民が迷惑したというのなら分かりますが、住人たちは助命を嘆願したりして悪く思っていないのですからね。でも、封建制ってそういうものでしょう。今の自由主義の中にいる私達には理解できませんが、当時の役人にはそれなりの道理があったのだろうと思います。人の道って、時代や立場で違うでしょう。同じ現代人同士でも、主義やバックボーン、あるいは信教が違うと理解しあうのが難しいことって往々にしてありますよね。そういえば、私達、氏郷さんの「町中掟」について、「ならず者を集めてでも町の活性化を図った」などと茶化してましたが、当時だったら遠島では済まないですね。

悦:本町の辻で、胴切りだ。晒されてしまいますよ。

ほ:怖いこわい…。ところで、「父母帖」は松坂だけじゃなくて紀州徳川家の領地全体に下賜されたということでしたね。それで、これによって世の中は少しは良くなったのでしょうか。

悦:日々の人間関係の改善には効果もあったでしょうが、世の中をよくすることは、容易ではありません。奈良の山の辺の道を歩くと、トレイルセンターの近くにそれは立派な古墳があります。行燈山古墳、第10代崇神天皇陵とされています。

ほ:実在が明らかな最初の天皇、大王ですね。

悦:この崇神天皇5年のことです。国内には疫病が蔓延し、民の半分が死んでしまった。

ほ:コロナどころじゃありませんね。

悦:翌6年になると事態はますます深刻化します。百姓の中には流離するもの、後世の言葉では逃散ですね、あるいは反逆するものあり、世上は殺伐とします。天皇は、徳を以て治めようとしたが無理だった。「徳を以て治めむこと難(かた)し」と『日本書紀』にはあります。

ほ:人の道を説くだけでは、世の中はよくならなかったということですか。

悦:ではどうしたか。『書紀』では、天皇はあらゆる神さまを祀る。神様のオンパレードです。しかし、天照大神、倭大国魂神は勢いが強すぎてお祀りすることが出来ず、次に八十万の神に集まってもらい占ったら、倭迹迹日百襲姫命が神がかりして、大物主大神、大国魂神、またその他の神さまをお祀りすることで、世の中はようやく収まり、五穀も良く実ったとあります。

ほ:神頼みの力が大きいですね。初めにおっしゃった「衣食足りて礼節を知る」のことば通り、ある程度世の中が平和で、生活が安定しなければ人の心は荒みますし、世の中は良くなりませんね。古代なら、神頼みで心を一つにすることや共通の希望を見出すことは大きな力だったのかもしれませんが、江戸時代に、この「父母帖」みたいに上から礼節を教えることの効果は、限定的だったのかな。長く続ければじわじわと教化されたでしょうが、政治の安定の方が大きく速く効くでしょうね。

悦:まず上に立つ者が身を正さないといけません。それは難しい。だから崇神天皇から2000年近い歳月が流れても、人々の苦しみは深まるばかりです。

ほ:今のところ、日本では比較的平穏な日々を送れていますが、先を思うと不安ですよ。この頃出会う人たちは皆さん、気候変動やAIやトランプさんの言動など、いろいろな不安について話されます。天災がいつ自分にも起きるか分からないと、ニュースを見るたび思いますしね。さて、では次に参りましょうか。本文を読みます。

馬って大事だったの?

御厩の事

一、御厩(うまや)は正保三戌年の頃より、慶安三年寅年の頃まで御馬縻(つな)ぎなさられ、松野孫三郎某、千田瀬平某これを主(つかさど)る由語り伝う。

ほ:正保3(1646)年丙戌の頃から慶安3(1650)年庚寅の頃までというから、僅か5年くらいでしょうか、藩の厩が設置された。松野孫三郎、千田瀬平がそれを担当した、ということですね。わりとすぐになくなってしまったのですね。父母帖は国君が地元民を訓導しようとしたという記録ですが、各論に入って初めに厩が出てくるのは、位置的な問題からでしょう。『松坂権輿雑集』の付図とされる地図で言うと、お城の入り口のすぐ隣にありますから。

『松坂権輿雑集』に付された地図(部分)
城郭の入り口に「御厩」が存在する。
大手門から入っですぐの場所。
この辺りに厩があった。

悦:ええ、この地図には、内堀の中、御城代屋舗の一角に「御厩」とあります。大手門の近く、鈴天というヤマザキショップや駐車場のあるあたりに「厩」があります。ただ、この地図がいつ頃のものかは問題ですよ。このことは次の項でも出てきます。仮に宝暦2(1752)年、これは『権輿雑集』自序の年号ですが、とするとこの記事で慶安3年頃という年では百年の開きがあります。

ほ:すぐになくなったと記事にはあるけど、百年後の地図にもある…どういうことかな…。「御厩」は、きっと身分の高い方が乗る馬を飼っていたところでしょうね、

悦:市長の公用車ですね。

ほ:そこは独立した組織、つまり「御厩」としてはわずかしか存在しなかったけれど、すぐ隣に屋敷がある御城代様も馬には乗るわけですから、その馬小屋として同じ場所に存続していた、と解釈してはどうですか。

悦:その解釈が良いかもしれませんね。

ほ:場所が変わったというような伝えが明確にあったとしたら、きっと久世兼由も書き残したでしょうからね。まぁ、推測に過ぎませんが…。松坂で馬に乗れる人ってたくさんいたのでしょうか。

悦:与力や同心は徒歩(かち)でもちろん馬には乗れませんが、紀州から派遣されている武士は、身分からして当然乗ることが許された人が多かったはずです。また幕末の御城番衆は、騎馬も許されたと聞いたことがあります。でもまあ、少数でしょうね。

ほ:馬って大事だったのですね。

悦:大事です。もちろん武士の乗り物であり、何より威厳を示すことができます。ちょっと珍しい記事を紹介しますね。宝暦12(1762)10月6日の宣長の日記に「町御奉行町中巡行【騎馬】」とあります。お奉行さまがオープンカーに乗って町の様子を見てまわるわけですな。

ほ:上から目線というか権威の確認というか…ですね。え…と、では次に進みましょうか。「御鷹部屋之事」。

悦:これは次回に回しましょう。この「御鷹部屋之事」と、次の「石上八幡宮之事」の2条は、関連しています。

ほ:関連…?鷹狩りの鷹を世話していた人たちと、その人たちがお祀りしていた神様、ということ?

悦:私たちが使っている「松阪市史」本ではこの2項目は独立項目ですが、他の写本、例えば本居宣長の写本でも、多くは、「御鷹部屋之事」は、「御鷹師到着帰国之事」という項目の中で語られます。「石上八幡宮之事」は、「両役衆到着帰国之条」の中で説明がなされます。

ほ:なぜそんな違いがうまれたのでしょう。

悦:久世兼由自身がどう書いていたのか分からないので何とも言えません。たとえば、兼由は、この2項目が独立した本と、独立させなかった本という二種の本を書いたのか。

ほ:そう考えるのはちょっとムリがありますね。

悦:そうですね。そうなると、兼由以外の人が勝手に改変したのか。『松坂権輿雑集』には、比較的新しい本のわりには異本が多いのですが、これらは自分の関わりがある所を増補したり、いらないところをカットしたりしているのですが、ここの場合は、ちょっと事情が違うように思います。

ほ:「鷹部屋」の関係者の手が入っている?

悦:その可能性もないとは言えない。でもそれは分かりませんね。たとえばこんなことも考えてみました。五代将軍徳川綱吉、と言えば、

ほ:「お犬様」

悦:そう。蚊を叩いても罰せられるという悪名高い「生類憐みの令」ですね。この発布で松坂の鷹部屋は廃止されました。のんきに言ってますが、当時は驚天動地の出来事だったようですよ。江戸では、鷹匠(たかじょう)町が、小川町に改められ、餌指町が冨坂町に変えられました。

ほ:小川町って、神田小川町ですか。

悦:そうです。松坂で大事に飼われていた鷹はきっと紀州に帰っていったのでしょうが、将軍家の鷹は、新島に放されたそうですよ。

ほ:へ~、公的に飼われていた鷹にも事が及んでいたのですか。鷹狩もなくなったわけだ。島流しならぬ、島放ち…鷹は自由になってよかったけど、それが仕事だった人たちはとんでもないとばっちりを受けたのですね…。馬のお話から鷹に移っていきましたが、では、このお話の続きは次回としましょう。次回まで、だんだん秋が深まっていきますね。天変地異がないことを祈ります。豊かで平穏な秋であってほしいものです。

『松坂権輿雑集』を読んでみた|2026.10.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集