COLUMN

第9回 重要なのは良きNo,2なのだ

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

「古田重勝出陣之事 その3」

宣長さん、現代も大活躍

ほ:古田の実像を知りたいと薮の中をさまよううちに、師走。臘月ですよ。

悦:すっかり寒くなりましたね。

ほ:大林組さんの季刊誌を拝見しました。大悦さまの文章も載ってますね。宣長が10代のころ、引きこもって書いた架空の町の地図とそこに住む人の系図が、250年経って立体化されるとは、ご本人を含め、今まで誰一人思わなかったでしょうね。

悦:「端原氏城下絵図」ですね。大林組のプロジェクトです。

ほ:江戸時代に生きた10代の青年が描いた架空の地図が、現代の最先端の研究者に人口や高低差や時代や規模などを多方向から検証されて、齟齬がないというのはすごいことですね。人間社会や自然について、相当正しく把握できていたということでしょう。やはり天才なんだなぁと感心せずにはいられません。

悦:それは確かにそうですよ。

ほ:「端原氏城下図」は、以前に本居宣長記念館が、その土地を分譲するという形でクラウドファンディングをしてましたよね。250年後の松阪に利益をもたらしたのですから、よくはたらく地図だことと感心しましたが、またしても…です。

悦:「端原氏城下絵図」の力はすごい。作家の円城塔さんもこの架空都市を舞台にした小説を書いてますしね。

ほ:『去年、本能寺で』に入っている「宣長の仮想都市」ですね。それにしても、大林組さんの季刊誌は美しいですね。壮大で緻密なプロジェクトが続いて、さすがは大林組さま!ですよ。

悦:この『季刊大林』は、過去にも記憶に残る素晴らしい特集を組んでますよ。「ほ」さんの興味がありそうなものでは、神宮の「御師」三日市大夫次郎邸を三重大の菅原洋一さん監修で再現しました。それが今の三重県総合博物館のジオラマになったのじゃなかったかな。

ほ:『季刊大林』№43 1998年ですね。

悦:でも私が知る『季刊大林』の最高の金星は、何といっても№27(1988年)「出雲」ですね。

ほ:出雲?

悦:ええ、古代の出雲大社が48メートルの高さだったという文献や伝承をもとに、それを大林組が総力を挙げて紙上ではありますが再現したのです。いくら文献があるからと言って、高さ48メートルの高層建築があったなどと誰も信じていなかったのに、大林組は、果たして木材で作れるのか、地質や推定柱軸力など、あらゆる角度から綿密に計算して挑んだのです。

ほ:ほ~。48メートルってどれくらいだろう。

悦:確か松阪市庁舎の高さがそれくらいですよ。この復元のもととなった古代の出雲大社の図面を最初に紹介したのが、エッヘン、本居宣長なのです。門人だった出雲大社の千家俊信さんが、「先生、家にこんなのあります」と一枚の図を持ってきてくれた。それを見た宣長は、「不思議なことがあるものだ」と『玉勝間』で紹介したのです。その後の経緯は、本居宣長記念館のホームページ「出雲大社の神殿「雲太」を見てください。

悦:また、大林組は『古代出雲大社の復元-失われたかたちを求めてー』(学生社)として刊行しています。その本の最後のところ引用しておきますね。

「ちょうど西暦が二千年をむかえた年、その四月中旬、島根県の教育委員会から、突然不思議な電話を受けた。あの出雲大社で境内の工事中に、直径が一㍍を越す木柱痕が出土したというのである。それが、どうも私たちが十二年前に誌上復元(詳細本文)を試みた古代出雲大佐の跡ではないかというのである。
これが、文字通り、字義通りに未曾有の大発見がなされたことの第一報であった。このときは、正直に言って半信半疑ではあった。しかし、三日を経ずして、その巨大な木柱痕が三本組になって全容を現したとの続報がはいった。
もう間違いない。総高十六丈(約四十八㍍)あったとされる、本文中に記述しているあの『金輪造営図』は、間違っていなかったのだ」

ほ:すごいですね。この『金輪造営図』というのが宣長の紹介した図ですね。

悦:普通なら、こんなバカな話を信じるなんてと一笑に付するところですけどね。

ほ:そこが、宣長の天賦の才であり、大林組の企業としての懐の深さというものですね。いろいろな意味で見直しました。大河ドラマと言い、「端原氏城下絵図」といい、令和になっても宣長さんは大活躍です。

大林組の広報誌 季刊大林 No.64 「地図」
<本居宣長の空想地図「端原氏城下図」を読み解く、想定復元>のある号

待ってました!助左衛門!!

ほ:さて、閑話休題(あだしごとはさておき)古田についての続きを読みましょう。今回は、舞台が松坂に戻り、あっぱれな武士が出てきます。読みますね。

同二十六日、また、木食上人船江薬師堂にて古田兵部少輔に対面し、申しけるは、拙僧意見承引之無き上は、明日松坂へ取り懸かるべく侍るなり。近頃笑止なる義と申しける。兵部少輔思案し、長臣・古田助左衛門に相談す。助左衛門申しけるは、只今まで大御所の御味方と成る。今更思案すべき所に非ず。その上、私世倅小熊、江戸に召され置き侍れば、親子各(おのおの)別に罷りなすこと難儀に存ず。且つまた、主人の命を背いては本意に非ず。唯お暇給わり切腹仕るべしと言い捨て、そのまま弥勒院へ参り、切腹の用意いたしかば、兵部少輔驚き、助左衛門方ヘ言い遣りけるは、その方、申す通り至極せり。この上少しも別心なし。自害止まり帰るべしと押し留められければ、助左衛門申しけるは、御同心の上は私望に達したり。假(たと)ひ敵幾万騎来たるとも、この助左衛門にお任せ候らへと悦びすすむ。
形勢は天晴れとぞ聞こへし、

ほ:26日に、また木食がやってきて、船江の薬師堂で古田重勝と対面するのですね。この薬師堂って、大西源一さんが持っていたという「伊勢国松坂町之図」に載っている薬師堂でしょうか?今もありますか?

悦:まさに、「今も哀れをとどめける」という状態です。

松坂の古地図(部分) 年代等不明
参宮街道に面して「薬師堂」がある
薬師堂仁王門 江戸時代に建立

ほ:そこで、木食はまた、自分の言うとおりに降参して西軍に味方しないと明日は松坂に攻め入るぞと脅すわけです。思案するまでもないことだ、「近頃笑止なるべし」とせせら笑って去る。すると重勝は不安になって、例の古田助左衛門に相談するのですね。助左衛門は「今まで大御所である家康様の味方をしてきたのに、今更何を迷われる。私はせがれを江戸に置いております。まさか親子で敵対するわけにも参りませんし、さりとて主に逆らうわけにもゆかぬ、ここでお暇いただいて、切腹いたす」と言いおいて弥勒院に行ってしまいます。

悦:弥勒院は、鍛冶町、今の日野町ですね、八雲神社の隣です。隣というか弥勒院の境内社が牛頭天王社ですけどね。この弥勒院については『松坂権輿雑集』第5に出てきますね。

ほ:なぜここが切腹の場に選ばれたのでしょう。

悦:分かりません。

ほ:何か関係があったのか…なんにしても、木食の言葉にうろたえた重勝に、助左衛門がカツをいれたのですね。ちょっと芝居がかっていて類型的な感じはありますが、良い家臣ですね。

悦:類型的なのがいいんですよ。芝居や読み物にリアルさや個性を求めるようになったのは新しいですからね。忠臣助左衛門の言葉に慌てた重勝は、助左衛門のところに「お前の言うのがもっともだ。もう迷わないから切腹はやめてくれ」と使いをやるわけです。助左衛門はそこも見越していたでしょうから「そういうことなら…」と切腹をやめます。

ほ:で、助左衛門は「たとえ敵が幾万騎来るとも、この助左衛門におまかせください」なんて見得を切っちゃうわけですね。まさに、よっ! 助左衛門。待ってました! です。ちなみに、松坂城の、歴史民俗資料館から本丸に上がって行くところ、遠見櫓と鐘櫓の間に助左衛門御門跡というのがあるでしょう。あれはこの助左衛門の名から取ったのでしょうか?

:きっとそうでしょうね。松坂城には古田氏関係では「きたい丸」の名も残ります。

助左衛門御門跡付近松阪城址 助左衛門御門跡付近

デマゴーグの末路は哀れ

そのとき、敵急に押し寄せ来るよし言侍れば、松坂町騒動し、財宝を抱き、近在へ逃走し、強盗多く乱暴す。古田助左衛門下知にて強盗一人を搦め捕り、本町の辻へ引き出し、助左衛門手に懸かりて胴切りにいたし候ひける。それより事静かにぞなりにけり。
老人の語り伝ふるに、敵急に押し寄せ来と町中を一時に触れ行く者有り。捕らへ候ひ而吟味しかば、寄せ方より価を以て頼まれ、此の如しと白状す。この者、出所は黒田村無宿帳外の者、則ち、黒田村の道路に晒し残骸せられし由。右の場所を業架橋と言ふ。今言う新田の入口なり。ごうがと言ふ名にて有りしにや。

悦:殿と家臣の物語がいい感じで収まり、「形勢は天晴れとぞ聞こへし」、良い方向に進みだした、と安心したその矢先、「敵が押し寄せてきた」というデマが飛び交います。それで、「松坂町騒動し、財宝を抱き、近在へ逃走し、強盗多く乱暴す」という混乱状態に陥ってしまいます。

ほ:パニックですね。そこでまた助左衛門の出番です。「古田助左衛門下知にて」、「下知」は命令ですね。「強盗一人を搦め捕り、本町の辻へ引き出し、助左衛門手に懸かりて胴切りにいたし候ひける。それより事静かにぞなりにけり」。お~~。強盗捕まえてひとり胴切りですか。歌舞伎の一場面みたいですね。それで町が平静さを取り戻した。本町の辻というとお城から出てくる追手筋と伊勢街道の交差点かな。

悦:ええ。町の中心部ですね。さらに続きがある。老人の話では、「敵が押し寄せて来るぞ」と町中に触れ歩いた男がいたので、捕まえて吟味したら、敵方からお金を以て頼まれたのだと白状したので、処刑して晒しものにした。その場所を「業架橋(ごうがばし)」と言い、新田の入口だと書いています。

現在の本町交差点
右手から続く道が伊勢参宮街道、
左奥に城跡がある

ほ:んんっ?黒田新田の…って、あの、大黒田町に10年ほど前まであった呪いの燈籠ですか?

悦:さあ、わかりません。金で動く小童の霊がそんなに長くこの世に留まるとは思えませんが、それはともかく、悪党の一人や二人成敗したくらいで町の治安は維持されたのだから、「重勝は西軍一万騎余りを相手に籠城戦で奮戦中」とはちょっと伝えは違いますね。

ほ:町の中は比較的平穏だったのでしょうか。胴切りとか死体を晒したりとかに、町民は慣れていなかったということかしら… とが人が流れ込んだ荒れた町とは思えませんね。まぁ、氏郷の時代からは時を経ていますが…。

悦:誤解しないでくださいね、町は戦場ではないですよ。いささか乱暴な人がいても、大方は争いを避け穏やかに日を過ごしているのです。ただ、西軍の大軍勢が、伏見城を落とし、安濃津城攻めまで20日くらいの間があるのと同じように、松坂近郊に駐屯して、陣容を整えて次の合戦に備えていたのかもしれませんね。

ほ:近くにそんなのがいたら落ち着きませんよ。パニックになる条件が揃ってしまってたのですね。では、続きを読みましょう。

戦い済んで日が暮れて

去るほどに、津の城は八月二十四日より二十六日迄攻め戦ひ、同二十七日高野木食扱いにて城を相渡す。信濃守左京亮は、先(まず)、一身田へ引き退きければ、長束大蔵、津の城を預かり寄せて帰陣したりける。その後、関ヶ原西方敗軍の由風聞に付き、古田兵部少輔、津へ押し寄せ、早々に城相渡すべしと長束大蔵方ヘ相届け、藤潟(方)山に三日陣を取り居かれければ、大蔵、是非無く城を明け渡し、関の地蔵まで退(しりぞき)ける。

ほ:津城は8月24日から26日まで戦って、27日に木食の仲介で城を明け渡し、富田親子は一身田の専修寺で出家します。で、長束大蔵という人が津の城を預かって、他の軍は帰ったのだけど、その後になって、関ヶ原の合戦で西軍敗北を聞いた古田は津へ軍を押し寄せて、城を渡せと長束大蔵方に談判し、藤方山に陣を布き3日に及んだ。仕方なく長束は城を明け渡し、関の地蔵まで撤退します。つまり伊勢での攻防戦は西軍の勝利で津はひどい目に遭い、松坂は何とか巻き添えを食わずに済んだというところでしょうか。でも全国レベルで見たら東軍の勝利に終わった。だから降参して出家した津城の富田氏も、加勢した分部氏も、また勝ったか負けたかわからぬ古田氏も、旧領の安堵はもちろん、さらに加増された…と、なんかちょっと釈然としない部分が残りますが…まぁいいでしょう。

悦:まぁいいでしょうって、なんだかなげやりな感じですが、西軍の敗北でたくさんの大名が滅び、それらを勝者が分配するのですから当然でしょうね。

ほ:ええ、そうなのでしょうとは思います。だれがどのくらい頑張ったかなんて、誰にも分からないのですものね。それと、いつの時代も戦いは嫌だなぁ、と思って…。第二次世界大戦だって、現在続いてる戦争だって、結局は力づくで奪うのですものね。戦争に正論はないし、戦争は怖いものです。人間って、情けないけれど、進歩しないんですね。

伊勢でも一波乱ありました

またその頃、山田中島に来田庄蔵というものあり。松坂古田兵部、岩手稲葉蔵人の両人、宇治山田の御代官にて有りしかども、庄蔵、右の両人に背きて、鳥羽九鬼大隅守に一味して中島に楯籠もる。蔵人大輔、同年九月朔日未明に発行して、中島を攻め破る処に、大隅守、後巻に出る由聞こへしかば、古田、稲葉の加勢のために斎宮まで馳せ向かはれける。されども、蔵人大輔、無難に退治し、岩手へ引き取りしかば、九鬼も古田も両方へ引き返しけると也。

悦:そして、伊勢の話になります。この場所が伊勢市と呼ばれるようになったのは昭和30年からで、それまでは宇治山田市でしたね。簡単に言うと、宇治は内宮前の地域で、山田は外宮前にあたります。そして、昔は山田と書いて「ようだ」と言いました。その山田の来田庄蔵が、九鬼大隅守に味方して中島にたてこもったというのです。つまり古田達に反旗を翻したのです。

ほ:中島は、松坂から行くと宮川を渡った向こう側。今も度会橋の東詰め付近に町名が残っていますが、宮川も流路はずいぶん変わったようですから、名前の通り中洲だったのかもしれませんね。古田と岩出城の稲葉蔵人は山田の代官も務めていたのですね。来田はその両人に背いたと。

悦:蔵人大輔というのは稲葉のことで、従五位下左近蔵人なのでこういう名でも呼ばれているそうです。その蔵人が9月1日に中島を攻め破ったとあります。なお、「山田奉行」といっても江戸幕府の機構で遠国奉行に所属していたのとは違い、山田を支配していた、という意味でとらえておけばよろしいかと思います。

ほ:この9月1日というのは、家康が江戸を出発した日とされていますので、まだ全体の勝敗が分かっていない段階となりますが…日付は、こだわるときりがないから、参考に…、ですね。各地で、こういう小さな戦いが繰り返されていたのですよね。

悦:で、そこへ、九鬼大隅守が出陣するという情報が入ったので、古田も稲葉の加勢のために斎宮まで向かったけれども、稲葉が来田を無難に退治して岩手城に帰ったので、九鬼も古田もお互いに引き返したということです。

ほ:めでたしめでたし…なのかな?それにしても、伝令や手紙や流言、内緒の取引、表立ったパフォーマンス…昔の人も、今と変わりのないあの手この手の情報戦を繰り広げていたのですね。今より手立ては少ないけれど、その知恵は大したものです。

悦:情報戦を制する者が実際の戦も勝つのでしょう。こうしてみてくると、松坂ではどうやら小さなパニック騒ぎや、とらえた者の制裁事件はあったけれど、大きな戦はなかったようですね。津では、女子どもや老人まで盾にして阿鼻叫喚の地獄絵図だった…という話もありますが…。山田は、その前の宇治山田合戦で多くの血が流れました。そう考えると松坂は、穏やかな地ですね。

ほ:松坂で大勢の血が流れたのなら、まずは供養をいたさねばなるまいか、と思いましたが、そういうことでもなさそうです。ふ~。ようやく古田の関ヶ原の合戦前後の動向についての部分が終わりましたね。分からないことは多いけれど、得るところも多いお話でした。

悦:次回は古田家の良い話と悪い話です。どんな名家にもスキャンダルはつきものですよ。

ほ:この世にあるかぎり、人はゴシップと無縁ではいられませんね。乞うご期待!です。
それでは、皆さま、お元気で、楽しい年末年始をお過ごしください。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2025.12.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集