COLUMN

第8回 戦(いくさ)はまずは情報戦。それから?

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

「古田重勝出陣之事 その2」

八幡の藪知らず 歴史の闇は深く濃い

悦:藪をつつくとヘビが出るというでしょう。

ほ:藪から棒になんのお話でしょうか。

悦:前回、古田重勝についてはすべてが藪の中だと言ったでしょう。

ほ:はい。いろんな説があって、そのどれが正しいとは言えないという話でしたね。同じことでも、語る人の立場や思想によって、見え方が変わりますからね。

悦:そして、前回、古田は江戸城の石垣でも造ってたんじゃないか、とも言いました。

ほ:ええ。影が薄いのね…

悦:それが、最近、松阪歴史文化舎さんが『松阪学のすすめ 歴史編(3)近世』という本を出されたのですが、その中で、古田は江戸城の普請奉行だったと書いてあるのですよ。

ほ:へ~。普請奉行だったの?江戸城造営の立役者の一人なら、ちょっと救われる気がしますね。検索してみましょうか… あ、一つ、それっぽいのがありますよ「(慶長十一年)二月二十五日付江戸城公儀普請奉行連署状」。白峰旬さんという方が2017年にupされたもので、2016年に下関市立図書館にあった『福原家文書』の中で発見された文書について書かれているもののようです。でも、ここには江戸城の普請奉行は貴志正久、神田正俊、内藤忠清、都築為政、石川重次、戸田重元、水原吉勝、伏屋貞元の8名とあります。書状の中には古田兵部の名前もあるけれど、これは船を出す人のリストの方ですね。古田は2艘出すとあります。これを見る限り、この時点(慶長11年・1606)では古田は普請奉行じゃないみたいです。

悦:そうですか。その筆者の白峰旬さんというのは、前回参謀本部のつくった図の間違いを指摘された「関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察」の筆者ですよ。『松阪学のすすめ』は、何かほかの資料があるのかな。藪をつつくと、いろいろなヘビが出てきて、古田重治の実態が浮かんでくるかと期待したのですが、やっぱり藪の中ですね。

ほ:歴史の藪は深いですね。

悦:八幡の藪知らずには入ってはいけない、という先人の知恵を大切にしましょう。

松坂城下で戦はあったのか

悦:今回は「古田重勝出陣之事」の続きです。すべては藪の中ですから、それを踏まえた上で、「松坂権輿雑集」ではこのように紹介されているということを伝えていきたいと思います。この時代の歴史について、松阪の人が一番気になるのは何だと思いますか?

ほ:え~と。それは、この場所で合戦が行われたのか、ということでしょうか。なんとなく松坂というと、ずっと平和な場所だったような幻想を持っていましたが、5回目の町中掟のところでは、科(とが)人の集まってくる場所だったかもしれないと物騒な話も出てきましたし、実際に北畠氏の残党と信長勢の合戦だって実際にあちこちでおきていたのですものね。

悦:松阪の町で騒乱と言えば、明治9年の伊勢暴動、あとは大火や坂内川の洪水かな、という平和な町だったという思い込みがあるような気がします。でも、『三重県史』通史や『津市史』では、やれ松坂城は落城か、古田重勝は戦う前にギブアップかと姦しい。『松阪学のすすめ』でも、「重勝は西軍一万騎余りを相手に籠城戦で奮戦中、九月十五日に関ヶ原合戦で東軍が勝利して事なきをえた」とあります。えっ、この町を舞台に籠城戦!驚きますね。

ほ:松坂城籠城戦、あったのかな~。皆さん同じ薮の中でさまよってる感じですね。決定的な文書はないのですから。勇気を出して薮に分け入りますか?あ、入らない?…では、本文を読み下しますね。結構長いので、少しずつ読みます。

人と情報が入り乱れ

その上(かみ)、大垣の城主・福原右馬之助、麾(のぼり)十本、弓十張、鉄砲二十挺、槍十本持ち為す足軽あまた召し連れ、松坂、岩手へ昼夜かけ廻り、意見申しけるは、津の城、時刻を移さず攻め落つ可し。次に両城へ取り懸かるべく申すなり。是非、一同致さるべしと強いて申すけれども、各(おのおの)承引なし。

ほ:「その上」とあるのは、前回読んだ、羽柴下総守と高野山の木食上人が、西方に付かなければ攻めてくるぞと脅すのを、古田の家臣・古田助左衛門が「主がいませんので」とかわしたのを受けての「その上」ですか。

悦:私は、前段とは関係なく、「その上」は「そのかみ」と読んで、「その頃」と解釈しました。

ほ:は、そういうことですか。木食たちの動きとは直接関係ないということですね。

悦:いずれにしても、裏に表に、人が入り乱れ情報が飛び交っているわけですね。

ほ:はい。そのころ、大垣城主の福原右馬之助が、のぼり十本、弓十張、鉄砲二十挺、槍十本持ち為す足軽あまた召し連れ…って、変な文章ですね。そのまま読むと、幟や武器を大量に背負った足軽を大勢連れてるってことになります…京の五条の橋の上の弁慶じゃないんだから…。

悦:ここも素直に、美濃国大垣の城主・福原右馬之助が、目立つのぼりをはためかせ、武装した手下を引き連れ、松坂や岩手(出)城に立てこもる兵に、もうすぐ大軍勢がやってくるぞ、命が惜しければ早く逃げろ、と触れ回ったと読めばいいです。気のせいか、ほの字さんの性格がだんだんねじけて来たように思えます。

ほ:単純に書かれているままに想像してみただけですよ。ごめんあそばせ。ただ、この「権輿雑集」を読み進むに従って、確実に疑い深くはなっています。えっと、ここの岩出というのは玉城町、宮川の近くの集落ですね。対岸は伊勢市佐八町です。

悦:岩出には、神宮祭主・大中臣氏の館があったところですが、その話も今は省略。

ほ:大中臣氏は、これまた、人柄を悪くせずには出てこられない大きな薮ですから、大急ぎで戻りましょう。福原は、松坂城や岩出城に立てこもる兵に、やがて安濃津城は落城し、そうしたら大軍勢が押し寄せるぞと触れ回ったわけですね。攪乱戦術ですね。

悦:確かに安濃津城の惨劇を見ると、フェイクではないですよね。藪の中、真っ暗闇の中で戦っているようなものです。疑心暗鬼に駆られます。

ほ:仮にこの時代にスマホがあっても、真実か否かを見極めることは、難しいでしょうね。

悦:災害でもデマが飛び交いますが、戦時下では敵を欺くにはまず味方からと偽情報はバンバン発信されます。戦術の一つです。だから情報機器がそろった現在でも、ウクライナの戦況を正確に把握することは無理でしょう。嘘の報告に過信と渦巻く疑念。結局は、「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」で済まされるのです。

岩出城開墾碑 北畠氏によって開かれ、関ヶ原の戦いの後廃城となった岩出城。現在はわずかに土塁と堀の名残が残るのみ

決戦 安濃津城

去る程に、津の城へは小西摂津守、浮田宰相、長束大蔵、増田(ました)右衛門、大谷刑部(ぎょうぶ)、福原右馬助、石子掃部(かもん)、安芸・毛利の家老・吉川、小早川、都合八万千人寄せ来る由に付き、「関原記」に曰く、毛利宰相秀元、長曽我部土佐守盛親、長束大蔵大輔正家、安国寺圭長老、人数三万にて伊勢国津の城を攻め落とすと云々。『勢陽雑記』には八万余騎と云々。

ほ:津には西軍の精鋭が結集してきました。その数八万八千人。でも「関原記」では、毛利宰相秀元、長曽我部土佐守盛親、長束大蔵大輔正家、安国寺圭長老たちが三万人と半分以下だし、また『勢陽雑記』には八万余騎と書かれていますね。疑い深くて恐縮ですが、この人数は多少粉飾されているのでしょうか。攻めてきている武将の名前も?

悦:盛られている可能性もあるでしょうね。そして、その後の軍紀物などを書く場合でも、大げさな方が盛り上がりますよね。

ほ:なるほど、今となっては二段階に盛られている可能性があるのですね。そうやって歴史の藪が深くなっていくわけですね。

悦:私はどうしても、この31年前の織田信長の大河内城攻めを思い出します。あの時も、七万とか八万の大軍勢が押し寄せたと記録にはあります。本当だろうか。でも、大河内攻めは攻め手にも余裕がありましたが、今回は近づく東軍の影におびえながらの短期決戦、力任せに踏みつぶすような戦略です。通説では、安濃津城の戦いは、8月23日に始まり、25日には降伏、27日に城の明け渡し、この間にどれだけの犠牲が強いられたか。これは後から出てきます。

ほ:時間がないのは西軍だけではありません。私たちも同じです。ひと月はすぐ経ってしまいます。先に進みましょう。

上野(あがの)の城主・分部(わけべ)左京亮加勢して津の城を堅む。

ほ:河芸町上野の城主・分部左京亮も安濃津城の富田氏に加勢すべく城に入りました。

悦:結局、富田氏も分部氏も西軍に敗れますが、勇敢に戦ったことは評価され、関ケ原の合戦後に二万石に加増されて、上野城に戻ってきます。

ほ:それは合戦後の古田の処遇を考えるうえで参考になりますね。

古田、江戸の家康に戦況を報告する

右の様子、兵部少輔より江戸へ、段々註進申し上げられ、陸路は敵中難渋に付き、松崎浦水主、籐兵衛、次郎助、善次郎、猟師村甚十郎、以上四人、船一艘に打ち乗りて、ご注進仕り、尾州床鍋浦より帰る所を、鳥羽の城主九鬼大隈守がつけ置きし海賊ども、黒部浦脇の淵にて見つけ、鳥羽へ連れ行く。三人は小浜にて殺し、次郎助一人は助け返しける。その後、松崎浦、猟師村の者、大事の用に相立に付き、兵部少輔より褒美として、松崎の屋敷方、高三十五石三斗三升、猟師村屋敷方五石五斗七升五合免許の証文を給う。

ほ:古田の登場です。松崎の水主も出てきました。兵部少輔重勝は、江戸の家康へ状況を知らせようとするのですが、陸路で行けば西軍の餌食なので、松崎浦の水主と猟師村の水主が海路で情報を運ぶのですね。

悦:状況を知らせるというより、「助けてくれ~」と悲鳴ですよ。ともかく伊勢湾沿岸、志摩から伊勢、尾張、三河はやはり船ですね。徳川家康が三河国に逃げ帰る時には伊勢湾で海運を生業とする角屋が活躍しました。角屋が小田原の北条氏と浜松の徳川氏の情報伝達にも一役買ったのはよく知られるところ、情報伝達における海上交通の力は大きいですね。

ほ:でも犠牲も出ました。役目を果たした4人は、常滑沖、今のセントレア中部国際空港の近くから、大口辺りを目指していたのでしょうね、西黒部浦脇の淵で、西軍・九鬼大隅守の配下の海賊に拉致されます。

悦:今の松名瀬海岸あたりでしょうか。

ほ:鳥羽に連行された4人の内3人は鳥羽の小浜で殺され、松崎浦の次郎助だけが助かり、故郷に帰ります。一人だけ助けられたのですね。

悦:逃げ出したのならともかくも、「助け返しける」とあるのが、どんな事情があったのか、不思議ですね。

松崎浦の水主はアピール上手?

ほ:でも助かってよかった。おかげで4人の名前も残ったし、任務を終えた報告もできて、またその後も古田氏のために働き、ご褒美をいただきました。次はその文書の写しです。大悦さんは、これが残るのも怪しいと疑うのでしょうね。

右証文の写し
今度、其の地の加子共、上下ほねおり忠節仕り候に付き、ご褒美として、松ヶ島、高の内ひかへ分の地子三十五石三斗三升の所下され候。其の分相心得べく候、已(以)上。

馬場勝兵衛 判

慶長五年十一月二十日
松崎庄屋 七右衛門
但し、猟師村証文は火災に焼失。
当御代今に御免許為され成おかる。

悦:疑いだすとみな怪しい。

ほ:前回出てきた庄屋と同じで、松崎浦の水主はアピール上手だったとしておきましょう。

慶長5年、関ケ原合戦前夜

ほ:ここでちょっと前後の流れを整理してみましょう。

6月初め、徳川家康は諸大名に会津の上杉攻略のために出陣するように命じます。
6月16日、徳川家康は会津の上杉を攻略すべく駐留していた大坂を出陣します。
7月12日、家康は江戸城に入りました。
7月17日、家康が出た後の大坂城に石田三成が入り、19日には宇喜田秀家等の軍勢4万人が伏見城を攻めます。彼らは家康の東軍に対し西軍と呼ばれます。
7月24日、家康は上野国小山に入ります。
7月25日、家康は、このまま上杉攻めを遂行するか、それとも引き返して西軍を討つか協議の為に「小山評定」を開きました。翌日、東軍は、結城秀康を総大将として宇都宮に残し、東軍の主力部隊は小山を出陣、西に向かいます。ただ家康は未だ小山に居て諸国の形勢を慎重に窺います。
8月1日、伏見城が落城。その勢いで西軍の大軍勢は伊勢国に侵攻します。目指すは安濃津城。古田の伝令として松崎浦の水主が江戸に向かったのもこの頃でしょう。
8月4日、家康が小山を出立、江戸に向かいます。
8月23日、安濃津城攻めの開始です。安濃川北岸愛宕山付近で小競り合いがありました。
8月24日、西軍は津の郊外、納所村、刑部村、神納村を焼き払い、城下に入って四天王寺に入り放火。火は瞬く間に市中に広がります。同じころ松坂では、羽柴下総守と高野山の木食が西町の梅屋市郎太夫の所で古田助左衛門と対面、津城は間もなく落城するであろうと告げます。事実上の降伏勧告です。先に見た、大垣城主・福島右馬之介による松坂城、岩出城へのかく乱作戦もこの前後に行われたのでしょう。
8月25日、安濃津城が落城、27日、城が明け渡されました。
9月1日に家康が江戸城を出ます。いよいよ東西決戦の開始です。
9月15日、関ケ原の合戦、ご存じの通り東軍が勝利します。

悦:これでよく分かりますね。古田が上杉攻めに出陣したのは、きっと6月の初め、遅くとも7月の初めでしょうね。『松坂権輿雑集』の引く『伊勢戦記』説は誤伝でしょう。7月後半、西軍の動きに対抗し、家康から西軍侵攻途中にある諸大名にそれぞれ自分の城に帰還し、守りを固めるように命が下ります。安濃津城主・富田信高も伊勢上野城主・分部光嘉と帰国。きっと自分の城を取り囲む大軍勢に怯えながら城に入ったことでしょう。安濃津城の落城については、ある勇敢な女性の話が伝わっていますよ。

ほ:前回の最後で予告されていた強い女性のことですね。

悦:そうです。津城の主・富田信高の妻です。夫は合戦には不向きなようでしたが、妻は勇敢だったのです。武将・宇喜多忠家の娘ということだけで名前も伝わっていませんが、落城寸前となり落胆した夫を助けようと、華麗な緋縅の鎧姿で槍を持って駆け付け、戦ったと言われています。錦絵にもなっていますから、検索してみてください。

ほ:月岡芳年が描いたのが出ています。美しいですね。パブリックドメインの画像とのことですから、ここにも挙げさせてもらいましょう。奥方様、強かったんだ。巴御前かリボンの騎士か…という感じですね。あ、リボンの騎士は手塚漫画です。幼少期にこのアニメを見て育ちましたのでつい…。

悦:江戸時代の話ですが、松坂の女性は「里の豊かに賑はゝしきまゝに姿装ひよし。すべてをさをさ京に劣れることなし」(『玉勝間』「伊勢国」)、つまりおしゃれだねと言われている同じ頃、津の女性は、武家の屋敷の前で雨宿りしていた人が見たのは、雨が降ってきたと若い奥方が軒先の米俵をひょいひょいと家の中に運び込んだという話です(「武辺咄阿濃津廼聞書」三村竹清)武家の町と町人の町の違いでしょうか。最新モードに身を包みはんなりと美しい松坂女に、主人の留守を守る強い津の女、ですね。

ほ:さて、当時の伊勢国の勢力図はどのようになってましたか?

悦:長島の福島正頼、松坂の古田重勝、岩出の稲葉道通が家康側。桑名の氏家行広、神戸の滝川雄利、亀山の岡本良勝は石田三成側。志摩国鳥羽の九鬼は父・嘉隆が石田三成側、子の守隆は家康側と分裂していました。

ほ:このように見てくると、大悦さんの最初の疑問、松坂城では合戦が行われたのか否かですが、可能性としては8月25日の安濃津城落城から、関ケ原の合戦の9月15日の間となりそうです。でも、そこはひとまず置いておきまして、次の文章に進みましょう。

月岡芳年の描いた富田信高の妻

松坂武士・伊右衛門、四郎右衛門が大活躍

既に津の城急々に攻めるに付き、兵部少輔より加勢を遣はさる。物頭には林宗左衛門、水谷浅右衛門、津田左衛門、人見伊右衛門、小関四郎右衛門、小玉仁兵衛、田中右近已上七騎、この外、雑兵(ぞうひょう)多く馳せ参じかども、猛勢にて四方を囲いぬれば、城中へ入る可き様無かりし所に、小関四郎右衛門、下知にて、家来次郎八鉄砲を撃ちかけ、大勢を散々にし、浜手の備えを打ち破り、漸漸(ようよう)門内へ入る所に、母衣(ほろ)武者三騎懸け入りしを、松坂勢これを射捕る。其の時、敵大勢押し込み来たるを、人見伊右衛門、矢をつかつて城に入らば射殺さんと矢を放たずて白眼しかば、敵暫く猶予しける。其の間に松坂の加勢残らず城中に入りにけり。
其の時、城主富田信濃守申しけるは、松坂加勢の働き、目を驚かせ侍るなり。別に、鳥毛の兜を着したる侍に逢いべく申すとて、小関四郎右衛門に対面し、指料(さしりょう)の大小を下しける。四郎衛門もまた我が大小をば家来次郎八に取らせしよし。

ほ:古田勢が強い~!びっくりですよ。林宗七衛門ら七騎を旗頭に多勢の雑兵が馳せ参じたが、敵は猛勢。城を取り囲んで入れず。そこで、小関四郎右衛門が部下の次郎八に命じて鉄砲で相手をさんざんに蹴散らし、浜手の門をこじ開けて、ようやく門内へ入るというとき、敵方の母衣武者が三騎駆けてきた。それを松坂勢が射取ろうとする。すかざず敵が大勢押し込み来るのを、人見伊右衛門が矢をつがえ「入らば射殺す」と白目をむけば、敵はひるんで立ち止まり…また講談みたいになりました。合戦の場面は血沸き肉躍る…ですよね。ま、それで、津の城主・富田信濃守が「松坂加勢の働き、目を驚かせ侍るなり」と言って褒め、四郎右衛門に対面して指料の大小を授けたので、四郎右衛門も自分の刀を家来の次郎八にあげたと…。四郎右衛門は鳥毛の兜なんておしゃれなものを付けてたのですね。

悦:覚えていますか?前回紹介した津の市史などでは、古田からの加勢が50人来たけど、別に…みたいな冷淡な書き方でしたよね。松坂ではこんなに勇猛果敢に描かれている。しかも見ていたかのように。歴史は、語る人によってずいぶん変わるものです。

ほ:本当に。地元贔屓は、人情ってものでしょう。このようにして歴史の藪はますますが深まっていくという例ですね。さて、古田の部下が大活躍したというところで、今回は終わりましょうか。

悦:そうですね。この続きは次回にしましょう。舞台が松坂に移って、お芝居みたいな場面が続きます。松坂で合戦があったかどうか、はっきりしますね。

津城。江戸時代に入ってから、築城の名手といわれた藤堂高虎がつくった新城の石垣が残る。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2025.11.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集