
悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世
ほ:今回は、服部一忠の次の殿様、古田重勝についてですね。
悦:そうです。3人目の城主ですが、氏郷や服部一忠と同じように、ほとんど松坂にはいなかったようです。
ほ:伊勢商人は、主人は松坂にいて商いの最前線である江戸店にはいかなかったというし、ここまでの殿さまも松坂にいた時間はごく短いでしょう。 “現場にはトップが不在”というのが松坂の基本的なありようですか…
悦:紀州藩の領地になっても、事態はあまり変わらないから、当たっているかもしれません。トップが不在というと、指導力がなくてことが進まないように思いますが、留守のほうがまとまるものです。家も同じですね。
ほ:亭主元気で留守が良い…?それは家によると思いますが…。
悦:何かまずいことがあったとき、代官とか、番頭とか、ナンバー2が出てきて、「主がおりませんので、ちょっとわかりません…」と言い訳をして、のらりくらりかわして、うまくいく場合も多かったでしょう。古田はほぼいなくても、松坂の町はなんとなく出来たわけですし、主がいなくても、江戸の店はしっかりもうけていたのですから。「主がおりませんので…」は、松坂人の言い訳として、きっと有効だったのでしょう。
ほ:はー、そうですか…。
悦:どうしたのですか、ノリが悪いですね。
ほ:前々回は、氏郷の悪ノリみたいな町中掟がおもしろかったですし、前回は、服部一忠はイケメンかも!?という推察でノリノリだったのですが、古田にはあまり思い入れができず、時代背景もややこしいでしょう。モチベーションの主がおりませんので、ちょっと…
悦:これこれ、そこで松坂人の言い訳を使ってもだめですよ。古田重勝は、地元にいた時間は短くても、朝鮮にも出兵し、江戸築城にも携わった武将で、続く4代目はその弟の重治ですが、松坂の城や町はこの人の治世にほぼ完成したのですから、古田時代は大事なのです。
ほ:古田は、意外にやり手の殿様だったのでしょうか。がんばってたのですね。
悦:まあ、とにかく、読んでみましょう。
ほ:古田も日野からきたんですね。氏郷と同じコースだ。
悦:そうですね。しかし、日野でもそんなに強い印象は残していません。手元にある『近江日野の歴史』にも、氏郷が松ヶ島に去ったあと、「主を失った日野は、秀吉の直轄地になったらしく」などと書かれてます。
ほ:影が薄いですね。なんだか気の毒です。
悦:「移城す」という言葉は引っかかりますが、城主として君臨したというより、所領をもらったら、そこがたまたま日野だったということでしょうか。猫の目のように状況は変わります。関ヶ原の戦いでは東軍につき、家康から加増されていますね。そして、江戸の普請に努めた、とあります。
ほ:江戸城のご造営ですか。
悦:家康が入るまでの江戸は、海辺で土地も狭い海辺の寒村でしたから、全くゼロから、つまり土地の造成から始めています。後に津の城主となった藤堂高虎は道の普請から築城まで、土木工事一切のエキスパートですから、ずいぶん活躍したようですよ。
ほ:重勝はどこを受け持ったのでしょう。
悦:ウイキペディア情報では、石垣造営だそうです。
ほ:ウィキを使われるとは珍しい…。それにつけても、石垣造営はやっぱりちょっと地味で影薄いかな…。ところで、本旨にはあまり関わらないようですが、宣長が写した本には注がありました。
「兵部少輔重勝 一説に信勝は、吉左衛門尉某の嫡子なり。吉左衛門尉は羽柴殿の侍大将にて播磨国三木の城攻めに討ち死にす。次男は大膳亮重治なり」
悦:ああ、これは父親・重則の話ですね。三木城は別所氏の居城です。今の兵庫県三木市、山陽自動車道沿いの町です。
ほ:地図で見ると、神戸市明石区の真北ですね。この城を、信長の命を受けて中国平定に出陣した羽柴秀吉は天正6(1578)年3月に攻めます。なかなか手強かったようで、お父さんはその合戦で命を落としたようです。落城まで2年もかけたとは驚きですね。関ケ原の合戦なんてあっという間に終わったのに。
悦:城攻めは、その城の規模や地形も左右しますが、一つの作戦として、波状攻撃で相手が物心共に疲弊、消耗するのを待つという手も使われます。
ほ:持久戦なら、犠牲も少ないでしょうね。ところで、宣長本では、「二万三千石加増ありて都合六万石となる」と加増高について少し異同があります。また、「六月十六日卒、号天関道運居士」、「年四十歳」と亡くなった時の情報が加えられています。病気で亡くなったようですね。ところで、武将としての重勝の評価はいかがですか?
悦:堂々たる体躯の武将だった、かもしれませんが、残念ながら武功のほどはわかりません。前回の服部一忠のところでも触れましたが、朝鮮攻めには従軍していますが、肝心の関ヶ原の合戦では、どうも参戦せずに、後方支援、つまり松坂城に居座って西軍ににらみを利かせていた説が有力かな。白峰旬さんの「関ケ原の戦いの布陣図に関する考察」に、
「参謀本部図では、織田有楽の横に古田重勝が位置しているが、これは古田重然(古田織部)の間違いであると考えられる。古田重勝はこの時点では、家康方として居城の松坂城に籠城していたため関ヶ原の本戦には参戦していない。なお、参謀本部図を踏襲した関ヶ原の戦い関係書籍の布陣図では、現在でも古田重勝として間違えたまま引用されている。後述するように、古田重勝は、江戸時代に流布した関ヶ原の戦いの布陣図には一切出てこないので、参謀本部図独自の間違いであると考えられる」とあります。
ほ:織部と間違われてしまってたのですね。後方支援というのも、やっぱり影薄めですねぇ…。なんだかかわいそう。
悦:後方支援も大事な役目です。合戦終了後に加増されてますから、貢献度は大でしょう。でも、勇ましいのだろうけど、何か出遅れている感じがしますね。
ほ:そうなのですか。わりと厳しい評価ですね。勢州松坂会には熱烈な古田贔屓の方もいらっしゃることですから、ほどほどでお願いします。頑張って松阪を造ったのですから。
悦:『権輿雑集』はこのあと時間が少し戻って、1600年に起きた関ケ原の戦いの前後の話となります。徳川派と豊臣派が拮抗している状況ですね。
ほ:私も真似してウィキってみましたら、重勝は永禄3(1560)年生まれとありました。そうすると関が原では41歳となります。そして、この情報のもとは「美濃国諸旧記」という文書のようです。でも、忘れないで。宣長さんは、慶長11(1606)年の「武府において病卒」の横に「年四十歳」と書き添えています。すると、重勝は永禄9(1566)年生まれで、関ヶ原では35歳、松坂城主となったのは、30歳となります。美濃の旧記を信じるか、宣長さんのメモを信じるか、思案のしどころですよ。松坂っ子ならば宣長ファーストでいくべき、かな。
悦:よくわかりませんね。確かに1560年生まれ説を採ると、弟の重治が1578年生まれなので、年齢差が開きすぎますが、まあ今は深入りせずに、さ、「重勝出陣の事」本文のはじめの部分を読みましょう。
ほ:時代背景が込み入っていて、猫の目のように状況が変わっていくのですよね。ややこしいわ…。関ヶ原の合戦って、石田三成が総大将の西軍と、徳川家康がトップの東軍が戦ったと聞いていましたが、関ヶ原だけで戦ってたのじゃないんですね。
悦:天下分け目の戦いです。合戦は各地でありましたし、さまざまな情報や思惑が入り乱れ、怪しげな人々も暗躍していました。
ほ:「伊勢戦記」というは、やはり戦記物の一種でしょうか。
悦:どうもこの記事はおかしいですよ。読めばわかります。
ほ:では、とりあえず読んでみますね。重勝の動きを松坂出陣から追ってみます。
会津若松の上杉景勝が徳川家康の命に背いたので、成敗に出陣だとの知らせを受けた古田重勝は8月12日辰刻、朝の8時くらいに松坂を出陣、大口浦から舟で伊勢湾を渡り、翌日、吉田に着きます。今の愛知県豊橋市です。
悦:出陣したのが8月12日、この日にちが問題ですね。では次をお願いします。
ほ:この後、ちょっと文意が取りにくいのですが、「猛勢にて道つどひ同所に二夜逗留。次の日小田原へ着きたれば」、戦に向かう人で道が混んでいたので、そこで二泊します。そして、ようやく小田原に着いた古田一行に、石田三成挙兵の知らせが入るのですね。津、松坂、田丸へも攻め込んできそうだ。この知らせを聞いて重勝はとんぼ返りをする。
悦:やはり変だ。ここに、小山市が出した『小山評定 武将列伝』という本があります。ちょっとご覧になって、内容をかいつまんで紹介してください。
ほ:まず、豊臣秀吉亡き後、勢力を拡張する徳川家康は、会津に転封となっていた上杉景勝が命令に背いたと、慶長5(1600)年6月16日、大軍を率いて景勝征伐の為に大坂を出陣します。家康は大坂にいたのですね。
悦:秀吉の死去で、後継者闘争が始まる時期です、家康としては大坂を離れたくないが、関東に行って留守にすれば、その機を狙って動くやつがいるはずだと考えたのでしょう。
ほ:敵をあぶりだす作戦ですね。あれっ、6月16日に出陣していますね。重勝より2か月も早い。
悦:そうです。もう少し家康の後を追ってみましょう。伏見を通過したころに、さっそく不穏な動きがあるという情報が届きます。
ほ:石田三成がいよいよ挙兵ですか。
悦:未だ挙兵はしていません。だから家康は、知らんぷりして、東に兵を進めます。
ほ:上杉を討ちに行くというポーズを見せているのですね。
悦:四日市から伊勢湾を進みます。三河の佐久島を経由して、遠江国の白賀賀から陸路で進軍、7月2日、秀忠のいる江戸城に入ります。その間に西側の不穏な動きは次第に大きくなりますが、それでも家康は兵を進め、7月24日頃、今の栃木県小山に着き陣を布きます。ここで翌25日に開かれたのが、「小山評定(おやまひょうじょう)」と呼ばれた軍議です。集まった武将は家康、秀忠以下約28名。井伊直正、本多忠勝、福島正則など錚々たる面々。藤堂高虎、蒲生秀行もいます。家康は、天下分け目の合戦を前に、まず彼らに去就を問い、さらに上杉を討つか、反転西に向かい石田を討つか、いずれの策を採るべきか皆の意見を聞くのです。
ほ:これによって、家康に忠誠を誓う真田信幸と、豊臣秀頼に付く父の昌幸、弟・信繁親子の「佐野犬伏の別れ」があったりするのですね。
悦:結局、武勇抜群の結城秀康が総大将となり宇都宮城にとどまり、主力部隊は石田を討つべく7月26日、上方に向けて出陣します。
ほ:家康もいっしょに小山から離れるのですか。
悦:家康はもう少し東国の動きを見守るためでしょう、小山に滞在し、8月4日に江戸に向けて出立、5日の夕方には江戸にいたことがわかっています。
『小山評定 武将列伝』
以下の徳川家康の動向は、色々な資料はあるのですが、一番簡便なのが、小山市が平成23年10月に出したシンプルな装丁のこの本です。以下の記述は、この本に基づいています。
ほ:なるほど、たしかにおかしいですね。実は私、最初に『松坂権輿雑集』を読んだ時から気になっていたんです。
悦:さすが隠れ歴女!
ほ:いえいえ違いますよ。上杉が逆心だということで古田は、8月12日に松坂を出陣したと書かれていますが、この時期に参戦するなら、石田の率いる西軍との闘いでしょう。小山評定も終わってますし、どこへ何をしに行こうとしていたのだろうと不思議だったのです。日付が変だったのですね。
悦:目を隣の津、安濃津に転じます。そこの城主・富田信高は、やはり家康側ですが、7月には、安濃津城を空にして家康軍に加わり、小山に駐屯していた。ところが石田が挙兵したというので、7月27日、家康は伊賀伊勢の従軍諸将に帰国を命じます。
ほ:これは西軍が東に進むのを遮るためですか。
悦:そうですね。たとえ近江から美濃、尾張に侵攻するにしても、伊賀、伊勢の動きは気になりますからね。既に8月1日には伏見城を守っていた東軍の鳥居元忠が殺され城は落ち、軍勢の一部は鈴鹿峠を越えて伊勢に乱入しているのです。
ほ:西に進軍する徳川方の大軍勢の動きもわからずにノコノコ小田原まで行って、今頃何しに来たのか、戦は西じゃ、早く帰って自分の城でも守っておれと追い返された、またしても後の祭り、古田も「跡辺」か、と思っていたのですよ。
悦:「権輿雑集」を読むとそうなりますよね。でも『津市史』が引く参謀本部編纂の「日本戦史」には、富田信高は小山で石田挙兵の報に接し、家康の命を受けて古田重勝、分部光嘉と共に江戸を経て、三河の吉田から海路でその兵300人と共に小舟百余艘で伊勢を目指したが、西軍の九鬼嘉隆に行く手を阻まれたとある。
ほ:「海賊」と書かれていた連中ですね。古田重勝だけが帰ってきたんじゃないんだ。
悦:少なくとも戻ってくるときは、皆で一緒だったようですね。さて、伊勢湾で富田一行は海賊九鬼に取り巻かれますが、ところが富田信高は九鬼嘉隆と知り合いだったので、「いやぁ、西につくか東につくか迷っているのですよ」とか何とか上手いことを言って、「願わくは貴下と共に進退せん」と嘉隆を喜ばせて危機を脱したというのです。
ほ:そんな簡単な話…?まぁ、武将だって無駄な戦いはしたくなかったでしょうから、戦わずに済ませられたらその方がよかったかもしれませんしね。
悦:でもこの詰めの甘さが、やがては九鬼嘉隆の命取りとなります。
ほ:そうなのですか。日付だけじゃなく、動きも正しくはないということで、つまるところ、『権輿雑集』が引いた『伊勢戦記』は信用できないのですね。うっかり信用したら、重勝は間の抜けた武将だということになります。ところで、信用できない『伊勢戦記』では、古田が吉田に戻ると、松ヶ﨑の荘官、つまり村長が、船で迎えに来ていたと書いてあります。そんなグッドタイミングで?しかも吉田の海岸に?と疑わしく思うのですが、ずっと待ってたのでしょうか…。
悦:それも怪しい。よく見てください、「松崎庄官松嶋七右衛門、松島友右衛門繁勝法名浄和より五代の先」と記述は松嶋の子孫に及びます。
ほ:詳しいですね。
悦:詳しすぎます。
ほ:これを信じるなら、重勝は優れた殿様ですよ。松坂に来てわずか5年ほどで、松嶋氏のような地元の顔役を味方に取り込んでるなんて、人望があったのでしょう。家臣が良かったのかな。
悦:人心掌握には長けていたのでしょうね。でも私は、この記事は一連の騒動が終わった後に、松嶋家が自分の功績を書き立て、上申したものをそのまま採用したのではないかと疑います。
ほ:深読みしますねー。なんだか、歴史は、人柄が悪くなる学問のように思えてきます。
悦:逆に、そのような人の持つ弱さを見つめることで、人間世界の不思議さ、深さを見出すのだと考えれば、無上の尊さを感じることもできるのです。
ほ:つまり、本居宣長の「物のあはれを知る」につながるとでも?でも今日は横道には入りませんよ。ふふふ…
悦:先を急がれるようですから、迎えに来ていた松ヶ崎の庄官・松嶋七右衛門についてはここでは省略、巻2の「御船奉行衆到着帰国之事」で触れることにしましょう。
ほ:ここまでの結論は、『松坂権輿雑集』の古田出陣8月12日説は怪しい。また、松嶋家は自分の家の功績を盛った可能性もありそうだということですね。
大口浦(現在の松阪港)ほ:時代はめまぐるしく動くもの。だから情報が大事なのですね。
悦:早く、正しい情報を得た者が有利になるのは、狩猟生活の時代から変わらないということです。ぼんやりしていたら、「跡辺」2号どころか滅ぼされてしまいます。では『権輿雑集』に記述に戻りましょう。大口浦に戻ってきた重勝のもとを訪れたのが、木食(もくじき)という僧です。大坂、つまり石田の西軍につくほうがいいと説得に来るのです。
ほ:あやしいお坊さんですね。木食というと、秀吉が高野山を討とうとしたときに説得した応其(おうご1536-1608)や、江戸の後期にたくさんの木造仏を彫った五行(ごぎょう1718-1810)が有名ですが、米や野菜を食べずに木の実や山菜のみを食して修行する僧の通称ということで、たくさんいたみたいです。宗教者は、いろいろな関門をするりと通り抜けることができますから、こういうときに暗躍するのですね。
悦:前にでてきた御師の上部越中守などもそうでしたね。それに宗教者は時に武士以上の力を持っているでしょう。来世の幸福を願い、地獄に落ちる恐怖を抱いた信者たちは、並の兵士より始末が悪い。信長が比叡山などの寺や一向宗の信徒らを目の敵にしたのはそのためです。
ほ:その宗教者について、なんともあやしい一文が付いています。
ほ:先ほどの「伊勢戦記」を疑いましたが、この記事も怪しいです。
悦:出典が違うので、何とも言えませんが、とりあえず読んでみましょう。
ほ:ハイ。羽柴下総守というのは、北畠家の庶流・木造家出身で伊勢神戸城主の滝川雄利という人らしいです。羽柴姓を賜ってたのですね。その人と、木食が、西町の梅屋市郎太夫という人のところに来たとあります。西町は、新しく整備された街道沿いの町ですが、梅屋って何者だろう。
悦: 当時の俚謡に「丹生の梅屋か射和の太郎次、松ヶ島では伊豆倉か」というのがあったそうです。もちろん、同じ屋号でも丹生と西町は違いますが、いかにも商人風の名前ですね。さてそこへ、古田助左衛門を呼んだとあります。この助左衛門は、おそらく重勝の部下で、胆のすわった人のようです。この後の章でも豪胆な逸話が載っています。その助左衛門に、「津の城は噯になって埒があいた」というわけです。「噯」はあくびのことで、つまり落城し明け渡したということでしょう。だから、松坂も同じく明け渡せと言うわけです。すると助左衛門は「重勝が留守なので、城を明け渡すのは難しいですねぇ」と応えるわけです。
ほ:あら、松坂人の言いわけですか!? 主がおりませんので、ちょっと…って。でもさっきのところに、重勝が夜中に大口浦についたとあったじゃないですか。主君はもう帰っていたはずですが・・・
悦:その記事自体をどこまで信用するかですね。重勝はすでに松坂についていたが、そのことを助左衛門も木食も知らなかったのか、助左衛門は知っていたけれど黙っていたのか、実際のところはよくわかりません。
ほ:先の参謀本部編集の「日本戦史」ではどうなっていますか。
悦:手勢を率いて安濃津城の合戦に行ったことになっていますが、これは後でお話しします。
ほ:もし主君の名代で助左衛門が出たとしたら、城を明け渡すなんて簡単に決められるわけもないから、のらりくらりとかわすしかない。でも、相手もさるもの、「渡さないなら、明日攻めるぞ」と脅すわけですね。
悦:しかし助左衛門は、「なかなか請け申すべし」と応える。何とも致し方ない、と曖昧な返事をしました。
ほ:「なかなか請け申すべし」って、Yesなの?No? よくわからない返事です。
悦:なんとも致し方ない。
ほ:でも、このあいまいな返事も、肝のすわった人でないとできない気がしますよ。言外に「攻められるものなら攻めてみなされ」とすごんだ感じがします。気弱な家臣ならびびって、「明け渡します~」とか言ってしまったかもしれません。さすがは戦国の武士です。で、二人は帰っていったけど、その後、別に何も攻めてはこなかったと…。結局は、関ケ原の敗北で西軍は敗走したのですが、簡単に明け渡したりせず、かわしたのが功を奏すわけですね。でも、まるで傍で見ていたかのような具体的な記述ですね。
悦:これは後年、紀州藩主からのお尋ねで、新町の浄元という老人が覚えていたのを寛文7(1667)年に書いて差し上げたものだそうです。原本の所在は不明ですが、その時の年寄・須賀三郎兵衛の手控えにある、と。疑いだすときりがないけれど、おもしろい話ですね。
ほ:あやしいお坊さんが出てくるのが、うさん臭くて愉快です。
悦:愉快に水を差すようですが、恐れ多くも参謀本部編纂、泣く子も黙る参謀本部ですよ。その「日本戦史」には次のように書いてあります。長いのでごく簡単に紹介しますと、家康がやってくるという情報が入った西軍は混乱し、また富田や一緒に戻ってきた安芸郡上野の分部光嘉の船を見て、ああ家康軍の船だと慌てて逃げ惑う。一方、安濃津城の留守を守っていた富田主殿は、さっさと白旗を上げ、息子を人質に差し出します。その時、安濃津城にいた家中はわずか20人程だったそうです。
ほ:さっきのお話では参謀本部の布陣図の間違いが指摘されてましたが…。それにしても、西軍も津のお城側も、ダメダメだったという記録ですね。その安濃津城の富田主殿って誰ですか。
悦:城主の妹のお婿さんだそうです。さて、そこへ富田信高が戻ってきて、「なんで降参した」と主殿を詰問すると、「しばらく敵の気勢をそぐ為に私の子供を差し出しただけですよ(豚児の如きは敵に餌したるに過ぎず)、気になさらずに戦ってください」と答えたのだそうです。
ほ:わが子を犠牲にするって、酷いですね。降参したくせに何言ってるんだか。
悦:それを聞いた富田信高は感心し、城の備えを固め、戦う準備をするのですが、いよいよ古田の名前が出てきます。「古田重勝も安濃津は松坂の衝に当たるを以て銃隊長・小瀬四郎左衛門らに兵五十人を附し」応援にやってきた。
ほ:はぁ、感心しちゃうんだ。で、古田は兵隊50名を加勢の為に寄こした・・・
悦:しかし衆寡敵せず、つまり大軍勢の前では抵抗できず、激しい戦いに城にいた老幼婦女は号泣しその惨状はとても口では伝えられないと書きます。そして、西軍の僧の登場です。
ほ:木食ですか?
悦:一人は高野山の木食上人興山。もう一人は草津の浄善寺だったと書かれています。その降伏勧告を受けて、富田信高は家臣と一身田の専修寺で出家、高野山に入ります。
ほ:出家してけりを付けたわけですね。そうして津城はあえなく落城しました。で、松坂の古田はどうなったの?
悦:『津市史』では、「津の開城後直ちに南進して松坂城に向ったのであるが、その城池の要害状況を見て、やゝためらっている間に、城将古田重勝は攻め手の大勢を支えきれないと思って一矢も発しないで、和を請うた。これがために松坂では籠城戦はなかった」と書いています。
ほ:津城を攻略し、南下して松阪を攻める、その時にどう攻撃するか作戦を練っていたら、古田重勝の方から降参してきた、というのですか。情けなや。
悦:降参したのに、西軍が去った後に旧領安堵というのも妙な話です。
ほ:『松坂権輿雑集』に載っている浄元さんの話ともずいぶん違いますし、どれが本当だろう。
悦:芥川龍之介の「藪の中」ですよ。真実はわからない。あるいは事実は一つではないのかもしれません。
ほ:すべては「藪の中」ですか。『松坂権輿雑集』も参謀本部も信用できない…、私もどんどん疑い深い人間になっていきますよ。
悦:さて、今回はこの辺りで終えましょうか。
ほ:はい。長すぎて読むのに疲れるというご意見も耳にしました。もう、充分長くなってますが、この辺で…
悦:まだまだこの後も、津の落城や、松坂の城下の混乱などが描かれます。
ほ:どんな波乱だろう…。怖いもの見たさで、待ち遠しいです。
悦:女性は強いですね。
ほ:どういうことですか?
悦:いや ほの字さんのことではない。本当に強い女性が安濃津城の合戦では登場するのですが、そこまで話せるかな。まあ、乞うご期待、と言っておきましょう。
ほ:ほ~~。
『松坂権輿雑集』を読んでみた|2025.10.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集