
悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世
ほ:今回は二代城主・服部一忠です。といっても、今の松阪でこの名を知る人は少ないでしょうね。
悦:権力者の悲哀です。よほどの暴君でもない限り、支配者、政治家はすぐに過去の人となってしまいます。ましてや服部は城主だった期間も短く、果たして松坂に来たことあるのか、そんなことすら疑問なのですから、仕方ないですね。
ほ:でもね、なんだか、とっても格好いい人だったみたいですよ。
悦:堀口さんの「推し」ですね。でも、その前に少しおさらいをしておきましょう。まず、蒲生氏郷が日野からやってきて、織田信雄の松ヶ島城を引き継ぎます。徳川家康との和睦も微妙な中ですが、とりあえず秀吉は、氏郷に123,155石という知行割を行います。
ほ:配下にしておくのですね。
悦:城主となった氏郷は、新しい町を造るべく、四五百の森に城を築き、「町中掟」を発布します。天正16(1588)年「松坂」の誕生です。この掟を託された三人。そのうちの一人、町野主水佐はどうやら山田奉行も兼ねていたようです。
ほ:伊勢の山田ですか。
悦:そうです。『宇治山田市史』には、豊臣時代の山田奉行は例の御師・上部越中守が山田一統を支配し、土民の公事裁判は、岩出、また田丸の城主であった牧村兵部、町野左近、古田兵部、稲葉蔵人、稲葉蔵人たちが申し合わせて事を取り計らったとあります。例の上部氏、松坂の実際の支配を任された町野氏、またその三代目松坂城主・古田重勝の名前も出ますね。
ほ:神宮のある山田がいかに重要な場所であったかわかりますね。
悦:重要というか、厄介な地だったのでしょう。
ほ:この町野左近は、主水佐(もんどのすけ)と同じ人ですか?
悦:きっとそうだと思います。町野家、ご先祖は三善清行というたいそうな家柄ですが、詳細はカットします。
ほ:山田は、その自治を守るために、隣の松坂城主や近隣の城主たちの力を利用したのでしょうね。
悦:持ちつもたれつの関係でしょうね。これが乱世、いや今の時代もパワーバランスとか言って、結局は同じですね。氏郷の「掟」の中で目立つのが質屋対策とは、意外でしたね。やはり治安と経済が町の両輪ということでしょうか。しかし氏郷は町の完成を見ることなく、天正18年2月には小田原城攻めで出陣、奥州攻めから会津への転封となります。
ほ:再び松坂に戻ることがないまま、会津に去ってしまったわけですね。あっけないこと。
悦:想像してみてください。ある日突然、四五百の森が切り拓かれ築城が開始された。周囲の荒廃地も拓かれ、田畑を壊し、住んでいた者は追い払われ、その後には家臣団や強制移住者、野心満々の荒くれ者が集まり、さらに道普請に寺の移転と、大混乱。ところがその頭領の氏郷は、小田原城攻めだと家臣を引き連れ出て行ってしまう。家族や下僕、また出入りの商人や職人はみな置き去りです。やがて新しい城主が決まるが、当の本人・服部一忠は来ずに、家臣だけがやってきて、やがて服部は切腹となる。実に目まぐるしい展開です。この間、城の普請はどうなっていたのか。町づくり、またインフラの整備は誰が指揮をしたのでしょうか。この地に暮らす人たちにとっての戦は未だ終わってないのです。
ほ:次の城主となった古田時代には、この町があわや戦場にという危機もあったわけですね。
悦:そうでしたね。
ほ:さて二代城主・服部一忠ですが、松坂の歴史はなぜこんな人を重視しないのか、とても残念です。
悦:城主としてはわずか4年、しかも本人は京都にいて松坂のほうは家臣任せだったとか、秀次の謀反に連座して切腹して影は薄いのですが、確かに戦歴を見ると立派なものですね。まずは本文を読むことにしましょう。
〇本文読み下し
一、服部采女正一忠、天正十九辛卯(1591)年、関白秀次公の命に依りて松坂城主となる。南伊勢に於いて、三万五千石を一忠に賜ふ。聚楽に在勤し、家臣石黒毛右衛門松坂のことを主(つかさど)る。関白秀次公、逆心の由に付き、文禄四未(1595)年七月、太閤秀吉公より采女を上杉景勝へ預けらる。その後切腹の由。幼息乳人介抱して、大崎玄蕃の家に之を退かさる由に語り伝ふ。
註 服部采女正は越後の宰相へ、同妻子は吉田清右衛門尉へ預けらると太閤記に見ゆ。
ほ:あっけないほど短いですね。
悦:『権輿雑集』を書いたのは松坂人ですから、この町との関わりが重視されます。服部は、今の言葉で言えば在任期間が短かかったのだから仕方ないですね。尾張国津島の人のようですが、いったいこの服部のどこにあなたは参ってしまったのですか。
ほ:服部一忠・通称小平太は武家の生まれなのかどうかさえ、詳しいことは不明なようですが、合戦の続く中で若い時代に、信長の部下としてさっと鮮やかに表舞台に登場します。信長が亡くなったあとは秀吉のもとで秀次付きになって、このままうまくいくかな…と思ったら、秀吉に、後に秀頼となる赤ちゃん“おひろい”が生まれて、一気に立場が悪くなり、秀次とともに謀反の嫌疑で切腹に追い込まれるでしょう。ドラマチックな生涯です。ご存じの通り、服部一忠の軍歴の最初は、桶狭間の合戦ですね。
悦:海道一の弓取りと言われた今川義元に一太刀浴びせようとする、『信長公記』の名場面の一つです。
ほ:錦絵にもなっていますね。ここに掲載はできませんが、ネットでも出回ってますので見ていただくといいと思います。
悦:「初めは三百騎ばかり真ん丸になつて、(今川)義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度帰し合わせ合わせ、次第に無人になりて、後には五十騎ばかりになりたるなり」、織田信長の波状攻撃で今川義元を守る武将も数を減らし五十人ほどになった。そこで「信長も下り立って、若武者共に先を争い、突き伏せ、突き倒し、いらつたる(イライラした)若者ども、乱れかかってしのぎを削り鍔を割り火花を散らし火焔を降らす」信長配下の若武者が我こそが一番槍だ、手柄だと無茶苦茶に切り込んいった。この書き方では、今川勢と戦うよりも、まるで先陣争いをしているようです。「敵身(味)方の武者、色は相紛れず、爰にて御馬廻り、御小姓衆歴々手負い,死人員(かず)をしらず。乱戦の中で信長に近侍する者たちも犠牲者が多数出たが、その中で、「服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口切られ倒れ伏す」戦陣切って今川義元に一刀を浴びせようとした服部小平太。だが、必死の義元に膝を切られて倒れこんでしまった。その隙に毛利新介が義元を切り伏せ、見事その首を取った。無念なり小平太。
ほ:ふふ。講談師のような名調子ですね。で、この信長の親衛隊は屈強で、しかも衆道好きの信長の目に叶った眉目秀麗な若者たちです。だから、信長さまに良いところを見せようと我先にと義元に殺到したのですよ。
悦:なるほど、よくわかります。
ほ:小平太は、手柄は毛利にとられるし、手傷を負ってしまってさんざんですが、本能寺の変では、弟の小藤太は二条城で討ち死にしましたが一忠は生き長らえます。その後、豊臣秀吉に召し抱えられ、黄母衣衆(きぼろしゅう)に抜擢されます。これは、姿の良い武者が選ばれたそうです。
悦:黄母衣衆ですか。大きな母衣を背につけて馬に乗って先陣を切る、突撃親衛隊ですね。
ほ:目立ちますよね。真っ黄色のマント。
悦:そういえば昔、松阪市長でとても姿勢の良い方がお見えになりました。氏郷祭りの時の騎馬姿も決ってました。聞けば、もと近衛兵だったとか。なるほど一忠もねえ。戦国武将というとみな血に飢えただけの狼みたいなイメージがありますが、ちょっと違うかなと思えてきました。一忠はカッコいいし強い!
ほ:天正13年、秀吉が関白となった時に、従五位下采女正となります。これについては、また後からお話ししますね。天正18年、小田原城攻め。この時の功績で氏郷は会津に転封。一忠は松坂城主となります。石高は35,000石。
悦:一介の侍が、城持ち大名になったのだから、たいしたものですね。
ほ:まだまだ活躍は続きます。文禄元(1592)年からの朝鮮出兵に第二軍八番隊に所属し、浅野幸長(よしなが)を補佐して漢城に侵攻。李氏朝鮮の首都、今のソウルですね。ほかにも朝鮮半島各地で、伊達政宗や加藤清正などと一緒に奮戦します。
悦:そういえば、服部一忠のあと松坂城主となった古田重勝も彼の地に遠征していますね。
ほ:そんな豪胆な武将に与えられたのが先ほどでた「采女正」という官位です。気になりませんか。
悦:たしかに、武将が采女かよ、と思いますよね。古代、「采女」といえば地方から宮廷に差し出される女性ですね。容貌端正な者を選んだと和田英松の『官職要解』にあります。
ほ:つまり美しい女性ですよね。
悦:三重県四日市には采女という場所もあり、何といっても松阪は「飯高諸高(もろたか)」という四代の天皇に仕えて過失がなかったという伝説的な采女を出した地です。でも、采女の制度は平安時代の初めに消えてしまいます。官職名だけが残っていたのでしょうが、たしかに猛き武士・一忠とは、何かそぐわない気がしますが。
ほ:だからね、きっとイケメンだったのですよ。女性と見まがうような美青年にならふさわしい名前でしょう。「うねめ」とか呼ばれて熊みたいだったら嫌じゃないですか。桶狭間で活躍し、黄母衣衆に抜擢されるように姿も良くて、その上女性かと思うような美形だった…松坂の新しい殿さまは素敵だと騒ぎになったことでしょう。そんな殿さまが来たら、女性たちは見に行ったことでしょうね。きゃ~!ですよ。
悦:どうだろう…美形かどうかも分かりませんが、残念ながら松坂には来ていないと思いますよ。盛り上がってるところを申し訳ないけれど、おそらく松坂に来てあれこれしている暇はなかったでしょう。<聚楽に在勤し、家臣石黒毛右衛門松坂のことを主(つかさど)る>と本文にありますから、あるいは短期間視察程度に来たことはあるかもしれませんが、長居はしていません。忙しすぎます…
ほ:な~んだ。松坂の殿様はイケメンだった♡ と一人で盛り上がりましたが、来ていないかもしれないのですね。松坂に来なかった松坂城主…それだけでも十分に残念ですが、イケメン武将だったかもしれないと思うとさらに残念ですね。
悦:今年の氏郷祭りでは、どこかから美少女に見紛うような一忠さんを探してきますか・・
ほ:さて、織田信長亡き後、一忠は秀吉、次いで豊臣秀次の家臣となります。ところが秀吉に子供が生まれてから、主君の秀次の人生は暗転し、最後は自刃させられます。反逆を企んでいたとか、いやいやそれは石田三成の謀略だとかいろいろ言われていますね。
悦:殺生関白と呼ばれるほどの豊臣秀次の悪逆非道振り、また本人が自刃してから、妻子、側室30余名は京都三条河原で処刑、その亡骸はまとめて一つの穴に投げ込まれ、「秀次悪逆塚」という碑が建てられたとか。真相は不明ですが、気の毒な話ですね。
ほ:一忠も預けられた先の上杉景勝のところで、最後は切腹させられます。ところで、「権輿雑集」には「幼息乳人介抱而大崎玄蕃家に退かれしの由に語り伝ふ」とありますが、子どもは助かったのですね。
悦:子供を預かった大崎も、主君の木村重茲(しげこれ)は秀次事件に連座して切腹しますが、しかし大崎自身は乱世を生き抜き、最後は紀州徳川家に仕えます。その後を継いだのが。養子にした一忠の次男・勝長であったそうです。また、ほかの本には「采女正は越後の宰相へ、同妻子は吉田清右ヱ門尉へ預らると太閤記に見ゆ」とあるそうです。
上田秋成『雨月物語』「仏法僧」 挿絵ほ:戦国乱世の中、子どもだけでも生き延びたなら、よかったです。
悦:ところで高野山で自刃させられた秀次と忠臣たちの幽霊と出くわした人の話はご存じですか。
ほ:そんなの初耳です。
悦:なんと松坂の隣、相可の拝志(はやし)親子です。と言っても、創作ですけどね。ご存じ上田秋成『雨月物語』「仏法僧」です。一忠さんにはよい挿絵がないので、幽霊の秀次一行で我慢しておいてください。
ほ:殺生関白の幽霊…!? こっちの方が別の意味できゃ~!ですね。
悦:秀次に本当に武烈天皇のような所業があったのかは疑問です。文武両道に秀でた人であったという説もありますが、長くなりますからこれ以上深入りしないで置きましょう。
ほ:先をお急ぎのご様子ですが、ちょっと寄り道しましょうよ。イケメンと言えば、江戸時代の松坂に、本居宣長に会いに来た素敵な方がいましたね。
悦:宣長に会いたいとやってくる人は多いのですが、ひょっとして、蔦屋重三郎ですか。でも蔦重がイケメンかどうかは分かりませんよ。
ほ:いえいえ、今年の大河ドラマで横浜流星さんが演じておられますから、完璧に美男子のイメージですよ。それに、当時の本の挿絵に出てくる蔦重を見るとかなりハンサムそうです。いくつか蔦重について書かれた本を見たのですよ。それによると、耕書堂で出された本のうちの何冊かの挿絵に出てくる、蔦の紋がついた羽織や着物を着ている男性が蔦重のようなのですが、いずれもこれといって難のない細面の優男に描かれています。ことに歌麿の春画集『歌まくら』の「茶屋の二階座敷の男女」に描かれた男性は、顔はほぼ隠されていますが、いい男の風情が濃厚に漂っています。
悦:男女の密会を「鴫蛤」と言いますが、口吸いをする二人の濃厚な濡れ場、挿絵が示せないのが残念です。でも東京国立博物館の「蔦屋重三郎」展図録や各書で見えますから、一人でニソニソと楽しんでください。でも、あれが蔦重ですか。本当かなあ。
ほ:きっと、きっと、いい男なんですよ。
悦:版元に対する絵師の忖度ということもあるでしょうし、イケメン好きな人の希望的観測という気もしますが、まぁ、ここは逆らわないでおきましょう。
ほ:それは良いお心がけです。あまりイケメン、イケメンと騒ぐと、今の時代、このルッキズムに毒された外見至上主義者め、とおしかりを受けそうですが、そういうことではないのです。波乱に満ちた生涯を悲しく終えた武将や、自らの才覚で時代の風潮をリードした成り上がりの商人なら、美しくかっこいいひとだったと思ってあげたいじゃないですか。蔦重については、吉田さんがこのコラムの前の連載・「カチっと松坂」の28回で詳しく書いていらっしゃるからそちらも見ていただくといいのですが、そして重複することもありますけれど、蔦重について語りますと、吉原の貸本屋から身を起こし、当時日本の中心地となっていたお江戸の日本橋に「耕書堂」という本の店を構えて、時代の寵児だったのでしょう。イマドキでいうと、大手のIT社長でソフト開発とかもして、自らメディアにも出てます…みたいな感じかな。
悦:先ほども少し名前を出した東博の蔦重展は「コンテンツビジネスの風雲児」とサブタイトルを付けました。
ほ:東博の展示をご覧になったのでしょう。いかがでしたか。
悦:『吉原細見』、『江戸生艶気蒲焼』、『画本虫撰』、歌麿、写楽、蔦重が世に送り出したものは大体が一人でこっそり、また気の合った仲間と笑いながら楽しむものですよ。
ほ:こっそり悦にいるべきなのですか。そういえば吉田さんの「悦」は、お名前ではなく号の「大悦」の略ですよね。
悦:よく思い出してくださいました。「大悦」はバラスと「一人悦(ひとりよろこぶ)」ですね。
ほ:なるほど、「孤独者の夢想」ですね。そんな世界を、東博のような大舞台で見せるのは難しいでしょうね。
悦:私には、東博の企画担当者の、なんでこんなものやらなきゃならねえんだ、という苦々しい思いが伝わってきそうでした。でも、さすが大河ドラマ、小道具などの考証や制作も丁寧で、その筆の滴と思って見てまいりました。
ほ:もし蔦重が、展示や図録もプロデュースしていたらどんなにか… ですね。
悦:おっしゃる通りです。なにも江戸時代に限ったことではありませんが、展示では、企画の当事者が、本当に好きか、嬉々としてやっているか、が問われますね。
ほ:作り手のよろこびが、見る人に感染するし、自然と内容もよくなるんですね。でも、たまに“悪女の深情け”という感じのものもありますよ。思い入れが深すぎてtoo muchという感じの…。
悦:耳が痛いですね。
ほ:大河ドラマも、いよいよ佳境。蔦重の日本橋での活躍が始まりました。耕書堂のお店は日本橋の通油町ですね。大河ドラマを見ているとちっとも出てこないのですが、周りには伊勢商人のお店がいっぱいあって、そこの従業員やご主人も店の前を行き交っていたはずですよね。
悦:蔦重の耕書堂の前の道を数分も歩けば伊勢店がずらりと軒を並べる大伝馬町、堀留町、本町、駿河町があります。最盛期には松坂だけで50軒が江戸に店を持ち、また周辺の蛸路、射和や中万、相可、さらには津や白子などから進出したお店の多くが日本橋界隈に集中しているのです。またそこで働くのは、大方が伊勢出身ですから、町では伊勢弁が飛び交っていたはずです。
嘉永3(1626)年の日本橋付近
日本橋にある耕書堂跡の案内板ほ:粋と流行りで洒落のめしていた蔦重たちと、質素倹約で地道が身上の伊勢商人とは、あまり意気投合はしなかったかもしれませんけどね… 「つまんねぇ奴らだぜ、なぁなぁ言いやがって」とか、江戸っ子は言っていそうでしょ。反りが合わなかったかな。
悦:江戸日本橋は、日本の中心です。人もお金も情報もみな集まってくる寄り合い所帯みたいな町ですけどね。そうそう、日本橋を歩いていて昔と決定的に違うなと思うのは、本屋の数ですね。昔は有名な本屋が何軒もあった。耕書堂もその一つですが、しかし今の日本橋で本を買おうとすると、地下に潜るか、京橋まで歩くかですね。
「東都大伝馬町繁栄之図」の一部分
ほ:おなじみの錦絵。大伝馬町の伊勢店の図と言えば、これですね。
悦:お店(たな)には暖簾が掛かっています。
ほ:川喜田や三井など伊勢商人の店印が染め抜かれてますね。松阪でも、今公開している小津家などにも暖簾が掛かってますよね。
悦:その暖簾をくぐると、なんと松坂は江戸に、江戸は松坂につながっていた、と私は思うのです。
ほ:松坂の暖簾の向こうは、江戸で、江戸の暖簾をくぐると、そこは松坂、ですか。
松阪市本町の旧小津清左衛門家の入口悦:リアルタイムで、あらゆる情報や物、時には多額のお金までもが、430キロ、これは松坂・江戸間の距離ですが、を行き来していたのですよ。そんな町ですから、江戸の本屋の店先に並ぶ話題の本は松坂で居ながらにして知ることができました。宣長が賀茂真淵先生の最新刊『冠辞考』を江戸から帰った人に見せられた話は有名ですよね。
ほ:江戸の情報が地方都市に流れるのはわかりますが、でも松坂情報は日本橋では関心持たれていたのかしら。
悦:経済と文化は連動します。しかも二代、三代と繁栄が続き、亭主は松坂でゆったりと、商いは手代たちが江戸などで行うという伊勢商人のシステムは、本拠地の文化レベルを上げるのです。
ほ:なるほど。お金のあるところに文化が育つのですね。
悦:お金と、教養と暇ですね。真淵が松坂に何日も滞在したのは、どうやらこの町には『万葉集』の古写本がありそうだという情報があったからでしょう。お公家さんならともかくも、商家に稀代の珍本『元暦校本万葉集』ですからね。土蔵の中には何があるか期待は高まります。
蔦重の来訪を伝える宣長の『雅事要案』ほ:その滞在で「松坂の一夜」が実現するのでしたね。稀有な出会いの背景には大きな経済力がはぐくんだ文化力があったのを見落としてはいけませんね。
悦:松阪にいる大店のご主人の文化力、経済力は、江戸のみならず全国の文化に関わる人にとって、大変魅力的だったことは、多くの画家や文人の来訪からも窺うことができます。江戸の医者・安田躬弦(みつる)も用事で津に来た時に、この近在の文化人たちを訪ね歩いていますよ。また少し後ですが馬琴も精力的に伊勢の著名人の情報を集めていますね。そして馬琴がタッチの差で会えなかったのが、本居宣長です。
ほ:いよいよ登場しましたね。よっ!宣長! って感じです。
悦:なんと宣長さんは古典研究をもとに、松坂から、日本文化のパラダイム転換を果たすのです。その発信力は抜群です。
ほ:蔦重のような時代の最先端を走り続けた人が、宣長のところを訪ねるのはごく自然なことなのですね。ところで、宣長自身は江戸には関心はあったのかしら。
悦:先ほどの安田躬弦が宣長のところを訪問した時、
「何くれと物語するに、東の事などねもごろにとひ聞つゝ」
いろいろ話をする中で、東のこと、つまり江戸の話を宣長は聞きたがったと躬弦は書いています。もちろん宣長には江戸での楽しい思い出もないし、その町の賑わいも好みではないとは言っていますが、しかしいわゆる「国学」の全国展開を見据えていますから、江戸の情報は欲しかったでしょうね。
ほ:そう考えたら蔦重も、出版というメディアでの江戸は制覇した、続いては西だともくろんでいたとしたら、利害は一致しますね。面会の記録は残っているのですか。
悦:『雅事要案』寛政7年3月の条に
「同廿五日来ル 一、江戸通油町蔦ヤ重三郎 来ル
右ハ(加藤)千蔭(村田)春海ナドコンイノ書林也」
と書いてあります。加藤千蔭と村田春海はともに賀茂真淵の高弟です。つまり宣長とは兄弟弟子。春海は歌も学問もできてしかも大金持ちだが遊び人。千蔭は幕府の役人で学問に熱心。しかも江戸を代表する書家でもありました。また二人は、ルーツは共に伊勢国、特に千蔭の家は松坂と深いかかわりがあるのですが、いずれにしても正反対の二人の名前を蔦重は出して面会を求めるのです。
ほ:用意周到ですね。「チョイと宣長にでも会ってくるか」ではないのですね。でも蔦重来訪記事は、ずいぶん簡単な書き方ですね。しかも紙の裏ですか。
悦:いやいや。これでも十分ていねいな書き方なのです。用事がすんだら、紙は裏返してまた使います。宣長は効率よくできている。通常の訪問者なら名前があれば、御の字でしょうね。宣長はやりたいことがいっぱいある人でしたからね。お土産でも持ってくれば話は別ですが・・・
ほ:宣長さんって、お土産に弱いの…? そこで二人がどんな話をしたのか、気になりますねぇ。
悦:今年の大河ドラマは新吉原に江戸城、大奥、また本屋仲間の抗争と、よくまあこんなドロドロしたものを一年間も視聴者に見せ続けるものだと思いますが、救いは、蔦重の目ですよね。遥か彼方を見ている。
ほ:江戸文化をほぼ制圧した蔦重が次に目論んだのは、京、大坂、名古屋でのコンテンツビジネスの展開ですよね。だから名古屋で急成長している永楽屋東四郎にも注目し、その永楽屋の看板商品が宣長だったから、松坂まで足を延ばして著者にもご挨拶、ですか?でも、用意周到なのでしょう。
悦:本を売りたいという程度の話なら、本屋同士で話をするのが筋でしょう。わざわざ著書に会うまでもない。そんなちっぽけな話ではない。
ほ:では、新しい本の執筆依頼?蔦重はちゃんと宣長の書いたものを分かっていたのですね。
悦:かもしれません。でも、その話があっても宣長は乗らなかったのでしょう。いっぱい構想を持ってますから、新しい企画の入る余地はないでしょうね。
ほ:結局、日本橋の耕書堂に並んだのは、光源氏と六条の御息所の馴れ初めを描いた宣長の創作『手枕(たまくら)』、随筆『玉勝間(たまがつま)』、注釈書『出雲国造神寿後釈(いずものくにのみやつこかむよごとごしゃく)』だけだったようです。新しい本は出なかったのですね。蔦重は、宣長に会いに来て、その後わずか2年で亡くなりますからね。
加藤(橘)千蔭の本「ゆきかひぶり」の奥付悦:本居宣長の成功は、『古事記伝』に代表される研究のレベルの高さにあったのはもちろんです。しかしそれだけではない。京都の本屋から頼まれたらキャッチコピーも作るし、遠国のお弟子さんには著書の通信販売もする。最高品質の著作を、廉価でという学問の流通革命を宣長は行ったのです。
ほ:学問の流通革命…?
悦:話が長くなるので簡単に言いますが、松阪は「流通革命の聖地」なのです。
ほ:ずいぶん大きく出ましたね。
悦:宣長の生まれた家の隣に居たのが三井高利、日本の流通革命の元祖です。高利から100年後に宣長が出て、昭和には、日本にチェーンストア理論を移植したペガサスクラブの渥美俊一さんが出ました。中でも宣長の登場で、誰もがどこででも、最高品質の研究成果を見られるように、そして疑問が生じたとき、異論があるときの対処法もきちんと示すという、学びたい人のための環境整備をしました。
ほ:それは新しい読者層の開拓ということですね。蔦重にしたら願ったりかなったりの話です。
悦:全国展開を目論む蔦重や宣長が忘れちゃならないのは、危険を回避することです。宣長のバランス感覚、危機管理能力は抜群でした。だが、江戸の蔦重からすれば、まだ甘い。
ほ:そういえば蔦重も、この直前にひどい目にあっていますよね。幕府に目を付けられて、財産の半分を没収でしたか。
悦:宣長も権力の影は感じていたでしょう。名古屋や京都で売っている分には問題なくても、江戸は事情が異なります。実際、『玉勝間』を江戸で販売するにあたって、記事の差し替えを蔦重は宣長に提言しています。さて、宣長の学問の柱となる古典と言えば、『古事記』と『源氏物語』ですね。その二つの核にあるのは、なんですか。
ほ:「天皇」ですか。なるほど、幕府もナーバスになりますね。
悦:徳川幕府の施策が行き詰まるなかで、天皇の存在について関心が高まってきます。そして時代は近代へと大きく舵を切っていきますが、まさにそのターニングポイントで、東西の両巨頭が出会っているのです。といって天皇と幕府の関係についての「みよさし論」(大政委任論)を振り回すようなことはしない。大人ですから。私は蔦重の構想として、やはり「源氏」に行きつくのじゃないかと思うんです。
ほ:あ~、「源氏」ですか…。「古事記」で、天皇制がこの国の正当だというようなことを書いてほしかったのかと想像していましたが、そこは大人の判断で、「源氏」でやんわりと天皇の権威を王朝の魅力で見せる…と。それも面白いですね。
悦:ひょっとしたら、大河ドラマの制作者の中には昨年の「光る君へ」から、『源氏物語』。「源氏」と言えば宣長、という流れがあったのじゃないかと・・
ほ:深読みしますねぇ…。で、この後、蔦重は「江戸わずらい」で2年もせずに亡くなってしまうのですよね。蔦重がもう少し長く生きて、宣長との信頼関係が築けていたら、二人の間に何らかの化学反応がおこって、きっと面白いものができていたでしょう。残念です。
悦:本当にそうです。蔦重がもう少し松坂でぶらぶらして、美味し国を堪能していたら、江戸わずらいと呼ばれた脚気などにはならなかったでしょう。
ほ:ビタミン不足が原因ですからね。ドラマでも、白いご飯ばかり山もり食べていました。脚気になる伏線の一つですね。でも、そうやって聞くと、この二人の出会いは、真淵と宣長の「松坂の一夜」に匹敵するものですよね。大河ドラマの重要な一場面として、見てみたいなー。
悦:今年の初め私は夢を見ました。誰かがテレビを見ている。ああNHKの大河ドラマか、今年は蔦重、
「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」。大奥、吉原に芝居小屋で浮世絵と太平楽だ、と突然、場面が変わってあれっと思った、横浜流星だ! いや違う違う、主人公・蔦重だ。が、見慣れた家の前に立っている。どこの家…なんだ本居宣長旧宅ではないか。そうか蔦重は亡くなる少し前に伊勢国松坂の宣長のところにやってきていたなあ、こりゃ見逃しちゃならぬとおもったら、ドラマは大団円。つまり私の中では、宣長に会う直前でドラマは終わっているのです。二人がどんな夢を今から鈴屋で語るのだろうという、おそらくそれは近代への歩みの第一歩となるものでしょう、その期待を視聴者に抱かせ幕引きとなるのです。
ほ:その夢の通りになったなら、横浜流星さんは松坂に来ますね。宣長さんが出てこないのは、私には物足りないですけど…。
悦:このドラマが、最後に大きな夢を抱かせないなら、所詮、蔦屋重三郎はその程度の人であったのか、となります。そうしないためにも、富士山を眺めながら、新しい夢に向かって歩く蔦重を見せて、日本中の人を励ましてほしいですね。そして最後に「鈴屋」、何これっ、という展開を考えてほしいですね。
ほ:大河ドラマですものね。年末には夢を…ですね。しかし、「本居宣長」や「鈴屋」をどれだけの人がわかるかしら。
悦:大河ドラマを見ている人たちなら、名前を聞けばピンときますよ。本居の名前で中にはあらぬ誤解をする人もいるでしょうが…。でもそれも蔦重の大きさになると思うのです。現実のドラマで無理なら、どなたか「裏大河」なんて作ってくれませんかね。
ほ:「裏大河」が面白くて評判になれば…オモテがウラ、ウラがオモテなんて、まさに蔦重たちの世界ですね。
ほ:でも、やっぱりイケメンが来てほしいなあ。松坂が松阪になっても、イケメンとは縁がないのかしら…そういえば、来年の大河ドラマは豊臣兄弟ということですが、再来年、令和9年の大河ドラマは小栗上野介忠順が主人公と聞きました。松坂桃李さんが演じるそうです。小栗は、幕末に射和の豪商・竹川竹斎を江戸まで招き寄せて語り合っていますね。ずいぶん話が弾んだようです。
悦:そのあたりのこと、ぜひ聞かせてください。
ほ:小栗は松坂、正確には近郊の射和村ですが、そこには来ていません。竹斎は勝海舟のパトロン的な存在だったのですが、その竹斎が書いた『護国論』を多分勝経由で読み、伊勢に海防の調査に来て実際に竹斎と合って話をした大久保将監や勝らの話を聞き、慶応2(1866)年に竹斎を江戸に呼び寄せ、3か月にわたって江戸にとどめ、海防について話し合っています。そして伊勢国に帰る際も、幕府の軍艦に二人で乗り込み、語り合いながら大坂まで送ってきています。
悦:幕府の軍艦・長鯨丸は蒸気船ですね。竹斎は、両替商も営む豪商として、商人のネットワークを活かして内外の情報を持っていたでしょうし、小栗は安政7(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため渡米していましたし、勘定奉行であり経済に明るく、話がかみ合ったのでしょう。
ほ:そのころ、幕府はもう崩壊寸前でしたし、竹斎の方も、幕府の御用商人として店の経営もひっ迫し、暗殺予告に名をあげられたり、病気もあって大変な時期だったと思うのです。小栗は30代で竹斎は50代の終わりと年齢差もあったし、幕臣と地方に住む商人と立場も大きく違います。でも、二人の間には信頼関係や友情のようなものが生まれていたのでしょうね。日本の国防を、将来あるべき姿を、熱く語り合ったのでしょう。面白い関係だと思います。でも、小栗は、新政府軍にとらえられ、まともな吟味もないまま翌日には斬首されてしまった…。それを聞いた竹斎は射和で小栗の家の宗派のお寺を選び二度も法要を行ったそうです。本当に悼む気持ちが伝わりますね… 竹斎はその大河ドラマに出てくるかしら?
悦:ぜひ、登場してほしいですね。小栗が松坂に来たという史実はありませんけれども…。
ほ:江戸で会ってるんですものね。でも、松坂桃李さんの主演ですし、松坂つながりでロケとかイベンとかにぎやかに開催してくれないかなぁ。もちろん、今年、蔦重がきてくれればなおいいですが。
悦:イケメン志向で松阪の賑わいを願ってるわけですね。私の中では、「光る君へ」から『源氏物語』と言えば宣長、その門人・竹川政信を父に持つ竹斎へとつながります。志半ばで第一線を退いた竹斎の夢を継いだのが、射和を流れる櫛田川上流に生まれた大谷嘉兵衛なのですが、彼はアメリカに乗り込んで大統領に直談判し、お茶の関税撤廃を実現したのだから、夢よもう一度、という風に、本当に大河のような夢をみています。
ほ:夏の夜の夢ですね。今回は、私のミーハー魂が炸裂して、イケメンとテレビドラマという横道のお話を長々してしまいました。夏休みなので特別企画としてご勘弁いただきましょう。怪談もありましたし。
悦:次回は、また「松坂権輿雑集」に戻って、まじめに古田の章を読んでいきましょう。古田のところも、なかなか面白いです。では、この秋冬の大河ドラマで蔦屋重三郎が史実通り松坂に来ますようにとの期待を込めて、今回はこれでおしまいにします。猛暑が続きますから、ご自愛ください。
『松坂権輿雑集』を読んでみた|2025.09.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集