
悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世
悦:連載も5回となりました。そろそろ表記なども統一出来るところはしていきたいと思います。
ほ:不統一を気になさってますか。
悦:たとえば年号表記です。『松坂権輿雑集』では当然、元号表記ですよね。
ほ:一番最初から「松坂城は、天正年中、蒲生飛騨守氏郷、松ヶ嶋城を引き移す」(第2回)とありました。この「天正年中」というのは元号表記ですね。
悦:これを西暦に直すと、1574年から1592年となります。明治以前は、もちろん我が国では西暦はないので、元号、つまり日本暦となります。
ほ:今年は西暦2025年、日本暦では令和7年ですね。
悦:ただ元号では、読む人にはわかりにくいですよね。そこで私は、年は西暦、月日は旧暦と混用して書いています。ざっくりと歴史の流れをつかむときには、断然西暦が便利なのです。たとえば天守閣が飛んでいったのは、「1644(正保元)年7月29日に大風」と書きましたね。
ほ:正保元年は、1644年ですものね。
悦:ところが「7月29日」というのは、正保元年の7月29日であって、西暦1644年に換算すると8月31日となるのです。
ほ:なるほど。印刷物をつくるときには年号の表記方法を統一するという作業が必ずありますから、私も当初それを気にしていました。なので、この「『権輿雑集』を読んでみた」でも、第一回は<元号(西暦)年>という形に統一の方向で考え、最後に統一していました。そういうものだと思っていましたのではっきりご相談せずにいまして、失礼しました。でも、2回目くらいから、ウェブサイトだし、その時々でどっちを重視するかによって違っていてもいいのかな、と気持ちが変わって、その後は年号表記の統一はしませんでした。でも、今のお話をうかがうと、月や日が入っている場合、それが旧暦なのか太陽暦での日付なのかも問題になってくるということですね。新暦と旧暦の日付を換算するのは計算方法などがあるのですか。たとえば皇紀の場合は西暦に660年足すというような。
悦:残念ながら無いですね。でも、換算表はあります。1582年から1872年、ほぼ江戸時代ですが、この間の換算は『日本暦西暦月日対照表』(野島寿三郎編・日外アソシエーツ)が便利です。
ほ:なぜ1582年からなのですか、江戸時代というわけでもなく、中途半端ですね。
悦:ローマ法王グレゴリウス13世が改暦、つまりユリウス暦をグレゴリオ暦に改めた年です。1872年は明治5年ですが、この年の12月3日がグレゴリオ暦1873年1月1日にあたるので、この日を以てグレゴリオ暦、つまり西暦を採用し、明治6年1月1日としたのです。
ほ:そうなのですか。急な変更は大変だったでしょうね。師走だと思ってたら急に年が改まって。
悦:また宣長さんですが、賀茂真淵先生と日野町新上屋で会った「松坂の一夜」はご存じですね。
ほ:もちろん存じております。
悦:この歴史的な会見は、宝暦13年5月25日です。これを『対照表』で見ると、1763年7月5日。また『古事記伝』を書き終えたのは寛政10年6月13日です。35年かけた大事業ですが、1798年7月26日となります。夏の真っ盛り、したたり落ちる汗をぬぐいながら、「やっと終わった」ですね。
ほ:「松坂の一夜」は爽やかな季節の出来事かと思っていました。暑い中でも、宣長さんはずっと頑張ってたのですね。旧暦の日付を今の日付で考えると、季節感がずれてしまいますね。気を付けないと…
悦:難しい説明はともかくも、私はまず西暦を書き、それに元号を括弧で書いていましたが、[ほ]さんは逆でした。このあたりを、原則として[ほ]さん方式に統一します。
ほ:承知いたしました。前の回にさかのぼっての修正は行いませんが、今後は他の不統一も気づいたら直していきましょう。それから、今、検索してみましたら、和暦と西暦とユリウス暦の日付を計算して変換してくれる無料サイトもあるようです。元号の月日の表記が出てきたとき、それがどんな季節の出来事だったか知りたいときは使ってみます。
ほ:では、連載第5回、いよいよ「蒲生氏郷町中掟之事」ですが、とても有名ですよね。
悦:『松坂権輿雑集』の中で引用される回数はダントツです。でも、実はよく分からないところだらけです。
ほ:「掟」という名前に惑わされて、私は、これは氏郷が作った法律なんだな…と思っていましたが、大間違いなようですね。
悦:そもそも「掟」とは重々しいものです。「旧約聖書・出エジプト」で神がモーゼに与えた板は、「掟の板」と訳されます。隣の伊賀国では、織田信長の侵攻までは、守護大名ではなく国人や土豪といった在地の領主たちの連合で統治されていましたが、その時の掟が「伊賀惣国一揆掟書」です。これは裏切り者が出ないようにというものですから厳しい内容ですね。法律、規則といえばそれまでですが、かなり重い内容です。この「町中掟」も、新しい町をつくるのだという決意表明、スローガンだと思います。
ほ:いつも松坂のよく目立つところに、高札のように掲げられていたのでしょうか。読める、読めないは別にしても。
悦:一番最後に、町人に申し聞かせよとありますが、最初は、ひょっとしたら本町の辻あたりに掲げられたかもしれません。それも最初のうちだけでしょうね。氏郷がこの町を去って服部一忠が城主になると、スローガンは変わりますからね。
ほ:今の首長交代で施政方針が変わるのと同じですね。でも…そうなのですかぁ…。荒々しい世情の中で活気ある町の発展を目指した氏郷の、夢と野望と、予想外に細やかな配慮と、「オレに逆らうんじゃねぇ」みたいな粗さが入り混じっていて、面白いなぁと思っていたのですが、“とりあえず” ですか。
悦:いつも妙なところを面白がりますね。首長の交代と言いましたが、マニフェストじゃない、これだけは守れよと言う「掟」ですから、氏郷らしさが出ていておもしろいのでしょう。
ほ:この「町中掟」のモデルとなったものもあるのでしょうね。
悦:「オレに逆らうんじゃねぇ」とまず織田信長が天正5年(1577)に出した掟「安土山下町中掟書」があります。これは、安土を商業や交通の拠点とすることを目指して書かれ、楽市楽座令の典型として知られています。それをまねて、氏郷が天正10(1582)年に近江の日野で定の十三箇条を出しました。そして、豊臣秀次が天正14(1588)年に出した「八幡山下町中掟書」の十三箇条があります。その後、天正16(1588)年に松坂開府に当たって出したのがこの町中掟です。
ほ:
悦:そうです。その「松坂に合うように」というところが大事でしょう。
ほ:今からつくろうとする町ですから、今後の方向性を示すということかしら…。
松坂城址、徳川陣屋跡から市街を見下ろす。悦:既に町があった近江の八幡や日野と違って、ここは新開地です。氏郷が初めてこの地に足を踏み入れたとき、もちろん小さな集落や社もあったようですが、その人たちを周辺に追いやり、生活環境を整え、新しい居住者を集めます。静かな住環境を求める新興団地じゃなく、町を造るのですから、何より活気が必要ですよね。網野善彦さんという歴史家をご存じですか。日本の中世史観を一変した人です。今回の「町中掟」の参考にならないかと書架から何冊か引っ張り出して開いてみたら、超有名な『無縁・公界・楽』の中で松坂の「町中掟」について書かれていて、衝撃を受けました。
ほ:教えていただいて私も読みましたが、びっくりしました。だって、松坂は科人(とがにん)の走り入りの場で、無縁の地だとあるでしょう。松坂って西部劇にでてくるようなならず者の町だったのかと…。でも、おっしゃる通り、網野さんの本に沿ってこの掟を見ると、謎に思えた部分の意味がだいたいは腑に落ちる気がしました。「公界」とか「無縁」と呼ばれた場所があちこちにあった時代には、治安が安定した江戸時代以降の常識は通用しないのですね。この近くでも、大湊や河崎、桑名など、中世は自治による自由都市だったのでしょう。そういったことも含めた当時の人の常識があれば、この掟の本当の意味は自明なんでしょうけど、現代人には分かりづらい…。
悦:網野さんはどこまでも、「松坂が科人走入りの場であったことを前提としなければ」と言っているわけで、ならず者を集めようというあからさまな文言はありません。やたら銃をぶっ放すアメリカの西部開拓地とは一緒にはなりませんが、ただ、一旗揚げようという野心家、中には落ち武者もいたでしょうね。そんな人でも集まってきやすいように、アピールするわけです。
ほ:過去は問わぬが、町ではおとなしくしろよ、ってことでしょうか。
悦:読んでいくと分かりますが、押し売り、押し買い、押し借りはするな、刀を振り回すなと敢えて言わないといけないのですから、当時の町の雰囲気は分かりますよね。その上で、他の土地で何があっても「松坂は別」と宣言するわけです。特に最初の四項目を読むと、時代の空気が伝わってきますよ。
網野善彦さんの著書・関連本ほ:はい。まずは読み下しますね。例によって便宜上番号を振っておきます。
蒲生飛騨守氏郷町中掟之事
〇本文読み下し
羽柴飛騨守 在判
天正十六(1588)年十一月晦日
町野主水佐殿
北川平左衛門殿
外池甚五左衛門殿
ほ:さて、①<当町之儀、十楽を之を為す上は、諸座諸役免除為す可し。但し、油の義は格別の事>ですね。これって、松坂を語る上では欠かせないフレーズですね。「十楽」は、子供のころから、「これは楽市楽座のことだ」と聞いていました。
悦:第1条のおおよその意味は、「この町は十楽の地であるから、商売に関わる税である座役や諸役は免除される」ということでしょうか。ある本には、「松ヶ島で(織田)信雄が出した楽市令を受けた可能性が指摘される」と書いてありますが、「信雄の楽市令」については、まだ確認していません。
ほ:松ヶ島で楽市ねぇ…。でも松坂は、「楽市」ではなく、「十楽」ですものね。
悦:「十楽」という言葉は、もとは仏教用語で極楽とかパラダイスなどの意味です。だから、「楽市楽座」という限定附きではない、もっと広い意味かもしれません。網野さんは、これは「戦国も末期に近く、さきのような理想世界の現実化を志向する人々の目標として自覚的に広く使われるようになった」とあります。
ほ:「わしのつくった町・松坂はこの世の極楽にするのじゃ、パラダイスじゃ」って?
悦:まぁ、そうです。伊勢の桑名は「十楽の津」だと宣言していますが、桑名は自由都市的な性質を持つ場所で、戦国大名による上からの楽市楽座令に従っているだけではない場所だったのです。
ほ:確かに、先行する信長や秀次の定書では「楽市」とあり、氏郷自身が日野に出した定めでは「楽売・楽買」とありますから、あえてそれらの言葉を使わず「十楽」を選んだのには、何か別な意味合いも持たせたいという気持ちがあったでしょう。新味も加えたかったでしょうしね。「松坂をパラダイスにするから、来て。自由に商いしていいよ~」と花火を打ち上げた感じということですか。なかなかキャッチ―ですね。けれど一方で、この網野さんの本には「松坂が無縁の場であったことは、疑いの余地なしといえるであろう。『十楽』とはまさしく『公界』『無縁』の原理のより積極的な表現だったのである」とあるのですが、これには少し疑問を感じます。氏郷は、網野さんのいう「公界」「楽」などが示す“理想社会”を目指しているわけではなかったと思うのですよ。たしかに、網野さんのいう「公界」「無縁」というようなものの特徴と、この町中掟は重なるところはあるけれども、違う点も多いでしょう。「公界」などでは、人々は主を持たず、外で罪を犯した人も受け入れるアジール的な場として自治を行っていたそうですが、氏郷は武将なのですから、自分を主君として松坂という町をつくろうとしますよね。そして、続く次の条項では、外の科人を町でかくまうことを命じないと書いていますから、松坂をアジール的な場所にしたかったのではないと思えます。
悦:もちろんです。氏郷のような強権的な領主は、自分が支配しやすく、また自分に益する町を造ろうとするわけですから、自由やら自治なんて端から考えていません。支配者と被支配者のせめぎ合いですね。堺は自由な自治都市だと言われますが、やがては信長や秀吉の力が強大化する中で、その特色は失われていきます。氏郷はアジール的な自由な街をつくろうとしたというよりは、経済発展を望んだのです。
ほ:ええ。まちづくりをみても、氏郷が経済発展を重視していることは確かですね。まちの中央に伊勢街道を通していますし、城下町の中心に日野や大湊から商人を誘致しています。戦いに備えるまちづくりとしては、お城のすぐ近くに街道を持ってくるのはNGですが、氏郷はもう戦いの時代ではないと判断して、経済優先のまちづくりを狙ったのですね。氏郷の「十楽」は経済が発展してにぎわうまちという意味だったのでしょう。それなら分かります。町中掟の続きに戻りますと、座で縛ったり税金を絞り取ったりはしないけど、油だけは別なのですね。<但し、油の義は格別の事>とあります。菜種油は伊勢国の名産品だったのでしょう。伊勢音頭にも「お伊勢良いとこ菜の花続き」という歌詞がありますね。
悦:伊勢音頭は時代が下りますが、このころから菜種油はこの辺りの名産品で、大きな金額が動いたのでしょう。当時の座、特に油座とか油売りについては、不勉強でコメントは差し控えさせていただきます。
松坂の出来初めのころの図ほ:では②に進みましょう。<押し売り、押し買い、宿々押し借り停止せしめ訖ぬ。并に、科人町へ預け置き候こと申し付くべからず。但し、科の軽重は其の時に至り各別之事とす>。この前半はよく分かります。落ち着いてきたとはいっても戦いがまだ続いていて、人の心が荒んでいる時代ですから、押し売り・押し買い・押し宿など往々にして行われていたでしょうから、それを禁止するのは当然ですね。けれども、後半は、「罪を犯した人間を町へ預けることを命じてはいけない」とあり、初め私は、この“科人”はこの町で罪を犯した人をさすのかと思いましたが、そうではなく、ほかの場所で罪を犯して逃げ込んできた人のことだそうです。網野さんの本には、「公界」「無縁」等ではほかの土地で罪を犯した人間を受け入れていたし、「いかなる有罪人でもその寺に入って保護を求めた者についてはこれを保護するように」という命令を国の守護が「無縁」の寺に出しているという例が挙げられています。これに対して、氏郷は保護させなくてもよいと言ってるのですね。これを受けて、網野さんは「松坂が科人の走り込む町だったからそういう掟を書いたのだ」と言っていますが、そうなのか、これも疑わしいと感じています。
悦:網野さんの本をずいぶん熱心に読まれたのですね。驚きました。天正16年11月、新しい町を開くと宣言した。そこは十楽の地だから、外とはルールは違う。場合によっては、罪を犯した人でも、この場所で悪行がなければ受け入れた。だけど、積極的に保護しろとは命じてはいない。やがて、町が整って秩序が生まれてきたら、また新たな法整備を行って、ちゃんと罪人はとらえるし、座なども作るし、税金も取るようにするのです。
ほ:なるほど「とりあえず」なのですね。では、③<一、喧嘩口論堅く停止せしめ訖ぬ。借家のもの仕出し候とも、家主に其の科を懸くべからず、往還の旅人、下々のものたりとも一人の曲事(くせごと)と為すべし。>は、けんかや口論はダメだというのは分かりますが、家を借りている人がそれをしてしまっても家主の科としてはいけないというのは妙な感じがします。それまで店子がしたことは家主の責任とされていたということでしょうか。
悦:当時、「公界」などでない一般の場所では連座制が適用されていました。江戸時代になってからでも、店子の罪は大家も責任を問われます。地域のつながりが密だった中世ならなおさらです。しかし、新しい街をつくっている途上では、本人一人の罪として済ませておかないと、ことが進みません。だから、これも「当面は」なんですよ。
ほ:そういえば落語なんかでも、大家さんは親のように店子の世話を焼いていますね。ひとまず連座制を断ち切って、まちづくりに臨んだということですね。
悦:次の「往還の旅人、下々のものたりとも一人の曲事(くせごと)と為すべし」はどういうことなのでしょうか。集団で旅している一行の中で、仮に犯罪者がいたからといって、全員を処罰することはしないということなのでしょうか。
ほ:多分そうでしょうけど、はっきりしませんね。これは宿題としておきましょうか。続いて④<一、天下一同の徳政たりというとも、当町に於いては、異義あるべからざること>というのは、天下一同の徳政が出たとしても、ここでの約束は変えないぞ、ってすごんでいる感じですか?徳政令が出ると、いろいろな貸し借りや契約がチャラになっちゃうのでしたよね。
悦:中世社会には天皇や将軍といった支配者の交代(代替り・代始め)に伴い、所有関係や貸借関係など社会のさまざまな関係がリセットされることがあり、それを期待する人もいる。しかし、他所で徳政令が出たとしても、この町の中での契約は変わらず有効だという保証なんです。
ほ:たしか、先行するほかの定めや掟にも同じような文言がありましたから、当時の流行というか、当時の掟の標準装備的な項目なのかもしれませんね。続いては⑤<一、殿町之内、見せ棚を出し商売之儀停止令む事>ですが、殿町に店を出して商いをさせてはいけないというのは、武家と商家はきっちり分けておこうということでしょうか。殿町には種村慮斎ら家中の面々が次々家を建てたと、前の章の付箋にありましたね。
悦:そういうことでしょうね。…そういえば、東京から御城番に引っ越してきて勢州松坂会に参加した山崎範子さんが「殿町にお店が少ないのは、もしかしてこの掟を守ってるからですか」と言っていましたね。
ほ:御城番屋敷の中では、ここを所有、経営している苗秀社が屋敷内での商売を禁じていますが、実際に今も松阪内でこの掟が生きていたら愉快でしょうね。「殿町の家々では今もひそかに守ってます」とか言って…。
悦:それ以前に、ほとんどの人が「町中掟」など知らないでしょう。ただ、武士の住む町として続いてきた歴史が、今の殿町住民の意識に影響を与えている可能性はありますね。
生け垣が続く殿町の街並み。今も商店は少ない。
御城番屋敷 この中では商いは禁止されている。ほ:さて。⑥<一、しち物之札、月日の限りは書き付け次第に為す可。并、鼠喰われ、ぬれ質、われ物、火事之義は、置き主の損たるべし。但し、盗人に取られ候事に於いて、歴然は本銭を以て一倍を蔵方より之を辨ずべし。うしなひ申す質物は、本銭を以て一倍を蔵方より之を弁ずべし。右のうせ物、後日に出しは、勿論、蔵方へ取るべし。あけ越しも、一倍にて之を辨ずべし。札の書き違え之有るは、その違いの程、蔵方より之を出すべし。但し、その日はせ過ぐるに於いては、違乱を相止どむべきこと。>どうしてこんなに質屋に関する決まりだけ細やかなんでしょうか。
悦:質屋が、当時、人々の暮らしの中でいかに重要であったかを表わしてますね。私たちが読んでいる『松坂権輿雑集』の一番最後、巻11に「旧府法度之事」という項目があります。織田信雄が旧府、つまり松ヶ島時代天正8年閏3月朔日に質屋、ここでは蔵方と言います、に出した法度です。質屋は生活に密着している分、トラブルも多かったのでしょう。
ほ:このもとになる法度が松ヶ島にあったのですね。質屋さんは今の銀行のようなものですか。
悦:そんなものだと思います。利用頻度も高く、また質屋(蔵方)の多くは実力者で、きっとうるさくあれこれ言ったでしょうから、そのあたりへの配慮もあったかもしれません。
ほ:返済期日が来るまでは質札に書いてある通りにする。鼠喰われや濡れや火事などで破損した場合は置き主の損。盗まれたことが明確な場合は、本銭の一倍を蔵方が弁償する。“一倍”は “二倍”ということでしたね。盗難でも、失った場合でも蔵方が二倍の金額を出すということ?
悦:そうでしょう。『国史大辞典』には、質入れの大原則として「…債務もまた滅失したが、盗難火災以外で紛失した時は二倍…」とあります。
ほ:で、失ったものが出てきたら蔵方が取る。「あけ越し」というのがどういうことなのか分かりませんが、その場合も二倍を蔵方が弁償するとあります。
悦:「あけ越し」は、先の「旧府法度之事」では、「上越候とも苦しからず候」とあります。以前、お仕事で質屋に取材した山﨑さんに聞いたら、年を越すことかなあと言われました。業界用語かもしれませんね。
ほ:「上げ越し」「明け越し」などいろいろ考えましたが分かりませんね。貸した側が倍で弁償するのだから、借り手の不利益になることなのでしょうね。そして続きは、札の書き違えがある場合は蔵方がその差額を出すけれど、期日が早くに過ぎているときは間違いとはしない、ってことですね。でも、盗難や紛失などで倍の金額を出していたら、蔵方は相当な損になりませんか。
悦:あなたは、品物の実際の値打ちと、それを抵当に貸す金額が同等に近いと思っていますね。貸すのは品物の価値に対してかなり少額なので、二倍といっても大した額にはならないのだと思いますよ。幸か不幸か私は質屋を利用したことがないけれど、そんな心配をしているくらいだから、あなたも質屋に物を入れてお金を借りた経験はないでしょう。一度、経験のために質屋に行ってみてはどうですか。
ほ:そうですね。行ってみようかな。どんなものを持って行くのがいいでしょう。アクセサリーとかバッグでしょうか。でもあまりブランドものとか持っていないから…
悦:着物があるじゃないですか。それはともかくも、質屋さんは、客をパッと見ただけで、ちゃんと利息を払う人か、これは流してしまう人か見分けると言いますから、そんな体験利用では軽くあしらわれることでしょう。さ、次に行きますよ。⑦<一、盗物之義、其の旨趣を知らず、如何様のもの買い取るといふとも、買い主之を存ぜずはその科在るべからず。万一、彼、盗人を引き付けるにおいては、右の本銭返し付くべき事>。盗品を買ってしまっても知らなかったのなら罪とはしない。万一泥棒を捕まえたら、その金額を返すようにということです。
ほ:はい。ここは特に問題を感じません。続いて⑧<一、町中へ理不尽のさいそく停止せしめ訖ぬ。但し、奉行へ相理り、以て糾明の上催促入るべきこと>これもそんなに問題ないですよね。理不尽な催促はしてはいけないけど、奉行に説明して、状況を解明してから催促するのなら良しとすると…、いたってまともです。奉行がいて、その奉行たちにむけて、町人たちに○○させろとか、させないようにしろとか命じる形になってるのですね。
悦:最後に名前の書いてある人たちが氏郷の命じた奉行でしょう。その職能や権限は時代によって変化しますが。
ほ:次に進みます。⑨ <一、当町の内、奉公人の宿停止せしめ訖ぬ。但し、五日、十日の間は各別の事>ここは、疑問です。この「奉公人」は、てっきり商家の奉公人を指していて「あら、住み込みってだめなの」と思いましたが、網野さんの本には「大名の家臣を指す」とありました。前回出てきたように、氏郷の家臣たちは殿町に家を建てていたのですから、これはほかの武将の家臣ということでしょうか。
悦:わかりません。網野さんは、秀吉の庇護の下に入った博多に対して秀吉が与えた掟書を挙げ、その中の「一、於津内諸給人家迄持儀、不可有之事」は、「博多津において、秀吉あるいは大名の家臣が家をもつことを禁じた規定と解せられる」として、松坂のこの「奉公人」も同じ意味を持つと書かれています。しかし松坂は城下町ですから、網野さんの松坂理解は疑問が残ります。また、五日、十日は構わないとあるので、蒲生以外の主君に仕える者の長期滞在への禁令としておきましょう。
ほ:はい、そういうことに。次は⑩です。 <一、松ヶ島に於いて百姓の外、町人相残り居住の義、一切停止令む事>。松ヶ島にいた町人は、松坂に強制移住させられたのですね。松ヶ島の人たちは、科人とかが流れ込んでいるあぶない町に移るのは嫌だったでしょうね。
悦:住めば都。住んでいた場所が一番というのもありますが、都が遷ればそこに住む人も移っていくのは、飛鳥、藤原の時代から繰り返されてきました。役所だけでなく蔵方や神社仏閣も動くのですから、武家の出入りの人はもちろん、職人、商人など百姓以外は、言わなくても移り住むでしょうね。
ほ:そういうものなのですか…。次の⑪<一、火事之義、付け火に於いては、亭主に其の科懸けるべからず。自火に至は、その身一人、追放つべし。但し、時の躰に依りて軽重在るべきこと>。
悦:ここは、まぁ、わかりますね。放火された場合は亭主の罪は問わず、失火の場合は、亭主一人を追放にすると、やはり連座制を禁止しています。
ほ:はい。続いて⑫<一、町中に於いて、誰によらず、刀を抜き、猥りの輩之有るは、理非に及ばず、町人として取り籠め、註進すべし。普請のこと免除せしめ訖。但し町中の義申し付くべき事。>です。抜刀して暴れるものは町人自身につかまえさせろと――。「理非に及ばず…」は、「四の五の言ってないで」と強めな感じですね。信長が本能寺で「是非に及ばず」と言ったという逸話を思い起こさせますが。
悦:「是非に及ばず」は狂言あたりの文句で、ちょっと違うように思いますが、まあそれは良いとして、「普請のこと免除せしめおわんぬ」の意味は、お城や道などの「普請の労役を免除にした」ということでしょうか?そして続く但し書きの「町中の儀…」は、だけど「町の何らかの義務は申し付けるからやりなさいよ」ということですかね。
ほ:そうでしょうね。で<右の旨、町人中へ申し聞かすべきもの也>とあって、<羽柴飛騨守 在判>です。
悦:町野主水佐殿、北川平左衛門殿、外池甚五左衛門殿は先にも出てきましたが、氏郷の任命した奉行でしょう。氏郷はほとんど松坂にはいられなかったのですから、彼らがまちづくりに力をふるったのでしょうね。
ほ:さて、これでひとまず氏郷の町中掟を読み終えました。新たなまちをつくるために「とりあえず」のキャッチ―な掟を発したのは分かりました。また、「十楽」ということばを使ったり、連座制を停止したり、「公界」「無縁」の要素を盛り込んではいますが、そのまちづくりの主眼は経済発展にあることも分かりました。初めはちんぷんかんぷんでしたが、少しわかるととても興味深い章で、中世の人の世界観・人生観や社会の構造も、現代はもちろん、江戸時代ともまったく違うのですね。
悦:仰せの通りです。人の心も社会構造も、私が親しむ江戸時代中期、またそれ以降と、全く違いますね。読んでみたら、やはり難しかった。
ほ:分からない言葉もありますし、読み違えもあるでしょうけれど、まだまだ勢州松坂会でも読み続けますから、少しずつ分かってくることもあるでしょう。次回は服部采女正一忠や古田兵部少輔重勝についてです。氏郷から離れ、松坂が出来上がってゆく時代ですね。次の殿さまはどんな人かな。
『松坂権輿雑集』を読んでみた|2025.08.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集