松阪市殿町の御城番屋敷。城址の石垣からつづく緩やかな坂道に沿って、大きな武家長屋が二つ並ぶ。石畳と緑の生垣、長く連なる瓦屋根が美しい。生垣越しに「金平さ~ん」と呼ぶと、「は~い」と軽やかな返事が聞こえた。のぞき込むと、庭に面した縁側に、愛猫の茶々姫を抱いた横濱金平さんが座っていた。
「このテーブルの面全体から音が出てるの」
と金平さん。
「このテーブルの上に横になって音楽を聴いているうちに眠っちゃう人、多いんだよね~」
と言いながら、背の高い、羽ばたく鳥のようなスピーカーを持って来た。その羽の部分を外して棒の先を天井板に当てると、天井からバッハが流れ出た。音が降るように体に伝わって、心地よい。
金平さんは、こんな不思議な木の音響装置をいろいろ作っている。
「『武士道』を読んでもすごいと思うし、〝我、太平洋の橋とならん〟なんていいじゃない。南部藩というのは、元来そういったフロンティア精神のあるところだったんだね」
進取の気性とともに、執着心がなくて面白いことが好きなのも、ご先祖譲り。
「曽祖父は地元の議会で議長を務め、祖父はイギリス留学もした鉄道の技師。昔は裕福だったけど、苦学する若い人たちのためにお金を使ったりして、家運はジェットコースターみたいに上下した。僕が小さい頃は貧しかったね」
「子供のころから、直感的にやりたいと思ったことだけをしてきた。気の向かないことは一切しないから、試験勉強なんてしたことなかったね。姉と妹がいるんだけど、ずっと二人から心配されていた。〝極楽とんぼ〟なんて言われてね。きっと今でも心配してるんだろうね」
自由奔放に育った金平さん。18歳になるとすぐに運転免許を取得。ピンク色のヒルマン・ミンクスという1956年式の車を6千円で購入し、これで登校して周囲を驚かせた。
「先生には叱られた。でも、生徒手帳を隅々まで読んでも、自家用車で通ったらダメなんて書いてなかったんだよ」
と笑う。若い頃は車が大好きでロードレース等にも出たという。
1970年の万博後の大阪。万博景気は過ぎてはいたが、日本全体が〝イケイケ〟だった時代だ。
「〝高島屋(当時のインテリア部門)に負けるな〟とか言って、みんなが張り切っていたんだよね」
そこで金平さんが先輩と共同で担当し爆発的に売り上げた商品は、「ライダーデスク」。小学生向けの学習机だ。
「激しい社会批判に晒されたんだけど、子供達にはすごくうけて、よく売れた。新建材と塩ビの塊みたいなデスクで、塩ビに印刷する木目までデザインしてしまうような人工的なものだった。今振り返ると、そういう、いわば環境に良くない仕事も沢山してきたし、僕自身が生意気でもあったね」
そして、30代で独立。大阪に事務所を開いた。
「営業に行かないから仕事もないし電話もかかってこなくてね、ずっと話さないから声が出にくくなったの。これはまずいなと思ってーー」
営業活動をしたのかと思いきや、金平さんは
「近所にあった朝日カルチャーセンターで、ピアニストと声楽家のご夫婦がカンツォーネ教室を開いてたから、習いに行った。楽しかったよ」
という。煎茶道に惹きこまれたのも大阪にいた頃だ。
そうこうしているうちに仕事も徐々に増え、クライアントの一つに三重県津市にある会社があった。この会社に通ううち、商品開発の担当役員として勤務することになり、単身赴任で三重に移り住んだ。ここで金平さんが手がけた商品は内装材。余技で一枚板のオーダーテーブルも扱った。高価だがよく売れたという。
「いろんな山を見て歩き、いろんな人に話を聞いて、自分で勉強もした。そのうち、木の声が聞こえてくるように思えたんだよね。この山の木は健康に育ってるなとか、この森は木がつらくて不満が一杯だとか、分かるようになった。そして、更に勉強を続けていくと、森をちゃんとしていくことが日本のさまざまな問題の解決につながることや、木が日本人のおかしくなってしまっている暮らしと心を直してくれるということが分かった。そして、それが自分のこれからのライフワークというかテーマだと考えた」
再び独立し、鈴鹿と松阪を拠点に、木によるインテリアや間伐材の使用法などに取り組んできた。
「人間には、いい音を聞くことが必要なんだよね。機械的でない音が。その音を追求して、やっと、一点に集めた音を大きな木の面から響かせる音響装置をつくることができた。これは今までの概念になかった発想と技術なんだけど、国際特許も取得できて、音の専門家の人たちに僕の考え方やつくったものをきちんと評価されるようになって、うれしい」
木から流れ出す音は、窮極の癒やしである。
「いつだって、過去の否定ではなく、新たな創造で未来をひらきたいんだよね」
金平さんは、軽やかに、楽しく生きる人だ。