CREATORS

株式会社 シリカジェン 取締役会長
株式会社 超越化研 代表取締役社長
超越技術発明者 水引アーティスト
岩宮 陽子さん

アートから化学技術開発へ

岩宮陽子さんは、紙や木などの素材を人体に無害で耐久性がある物に変え、しかも、防水や抗菌、放射線防御などさまざまな機能を持たせる上に、環境負荷も少ない… という魔法のような化学技術の開発者だ。お会いしてみると、科学者というイメージとはかけ離れたたおやかな女性で、昭和16年(1941)生まれと聞けば、その若々しさに驚く。
主婦であり、日本の伝統を現代に生かそうとするアーティストであった女性が、なぜこのような化学技術を開発できたのだろうか。そこには〝人の役に立ちたい〟という願いと、対象を〝理解しよう〟とする愛があった。

病弱だった子供時代

岩宮陽子さんは北海道で生まれた。画家だった父の仕事のため、その頃は北海道に住んでいたという。
「一歳半からは横浜に移りました。だから自分としては〝浜っ子〟という気持ちです」。
幼い頃は病弱だった。虚弱体質で、小さい頃からずっと、体育の授業に出たことがなかった。
「体操の時間はいつも、空を見たり、木々を眺めたり、地面の蟻などをじっと見ていました。何にでも興味のある子供で、そして、わりと〝しつこい〟んですよ。興味を持つと一つのことをずっと考えているんです。だから他人が見たら何を考えているのかよく分からない、扱いにくい子供だったのじゃないかと思います」。
「病弱な娘を持って両親も大変だったと思います。他の人が健康なことは本当に羨ましかったです。でも、子ども心に〝それでも私は生かされている〟と感じていました」。
幼な心に〝私は何かをするために生まれてきたのだ〟と、漠然とした使命感を持った。同時に彼女はこの幼少期に、物事を客観的に見わたすマクロな視点と、細部を凝視し続けるミクロの視点を得たのだろう。鳥の目と虫の目を併せ持ち、ずっと考え続ける――この習性は、後々彼女の人生を動かす力となってゆく。
4歳 母・兄・妹と

伝統のあるミッションスクールで女子校の横浜共立学園中等部・高等部を経て、日本大学理学部に進学。同級生の多くはエスカレーター式に系列の大学に進学した。当時、女性が理系の大学に進むこと自体が稀だった。しかし、やがて微熱が続き長期療養の後、「学問は健康であればいつでも出来る」と父は退学届けを出し、中退する事になった。その後の娘時代は、和裁・洋裁・茶道・花道・料理などさまざまなお稽古事をして過ごした。

  • 7歳 自宅で
  • 15歳 私立学校絵画展で優秀賞を受けた作品の前で
  • 20歳 成人式

嫁として妻として母として

22歳の時、結婚。恋に落ちたお相手は、早稲田大学を出た3歳年上の商社マン。やがて夫君は父の急逝により、建設業を嗣いだ。そして、嫁ぎ先は旧家で、築120年という日本家屋。自身を入れて8人という大家族だった。体の弱い世間知らずの陽子さん。旧家で大家族の嫁という立場には戸惑うことも多かった。
「熱が出たと実家に電話をすると、母と主治医とお手伝いさんが飛んで来る、というようなこともありましたが、毎日2升のご飯を炊いて、8つのお弁当をつくっていた時期もあったんですよ。そして子供を4人も生んだんです。それで、家族は12人になりました。喘息も持病で大変な時もありましたが、何とか自分で改善し、だんだんと寝込むことも減っていきました」。
大家族の嫁という、気をつかう立場と目の回るような忙しさ。その中で、虚弱だった体が次第に鍛えられていった。一方で、心の方も、お嬢様からの脱皮を迫られた。
「考え方も生活様式もまったく違う人の中で暮らしていくのですから、大変なんですよ。そこで、幸せになるのにはどうすればいいかなぁ……と考えたんです。クリスチャンスクールに通っていましたから、学校では『汝の敵を愛せよ』と教わったのですが、敵ではないけれど、新しい家族をいきなり愛することは難しく、まずは、その人の良いところを見つけよう、と思ったのです。姑のことも、『戦争中を生き抜いてきた心身のたくましさがある』などと自分にないところを見つけては、好きになろうとしました。そうして小さなことでも自分が明るく生きられる心の術を見つけていったんですね。嫁いでからは人間としての訓練の時期で、おかげ様で成長できたと思います。人を見ても、良いところ悪いところ、しっかりと見つめて考えるんです。するとその人の良いところを理解できるでしょう。私はわりと脳天気なところがあって、嫌いな人はいないんです」。

〝理解すること〟を基本姿勢として、陽子さんは身も心も強くなっていった。

「もともと、人の役に立ちたいんですね。子供の頃には体が弱くてそれができませんでしたから、よけいにそう思うのかもしれません。そして、そのために最大限の努力をするのが好きなんです。それに、子供の頃から、ただのんびりしているのは好きではなく、体調が許せば本を読んだり勉強をするのが好きでした」。

人のためになりたくて、努力をするのが好き――それまでは健康状態が許さなかったが、本当は動くのが大好きで働き者の陽子さんは、ここに至って本領を発揮。多忙な主婦業の傍らで、近所の娘さんたちに料理やお花を教えたり、近所のお母さんたちに頼まれて子どもたちに算数を教える塾を開いたりした。

ドアに似合うお正月飾りをアートに

転機は家の建て替えにあった。築120年の古い日本家屋から洋風な家になったのだ。そして年末になった。
「玄関がドアになったんです。そこに今までと同じお正月飾りは似合わないでしょう。でも、お正月飾りという伝統は守らなければーーと思いました。それで、洋風なドアに似合う飾りが欲しいと思ったのですが、当時はそういうものはなかった時代です。それで、水引に扇や松竹梅をあしらった小型のお正月飾りを考案しました。そういう創意工夫が大好きなんですね」。
その飾りを見て、ご主人がとても誉めたという。
「主人が特許を取るように勧めてくれたんです。それで、特許の申請に行きました。そのとき、今度は特許庁の窓口の人から、『これはとても素敵だからはやく売りなさい』と勧められたんですよ」。
そんな言葉に背を押されるように、1972年、会社を立ち上げた。陽子さん31歳の時である。

「日本の風習を新しい生活スタイルに合わせて守っていきたいと思いましたし、日本の美しい伝統を、きちんと次の世代につなぎたいという思いがありました。水引は1400年の歴史を持つ日本独自の文化ですので、これについて正しく知りたいと思い、図書館に通うなどして、日本の文化やしきたりなどを学びました。もともと学ぶことが大好きなので、これは楽しかったですね」。

画家であった父の血を引いて美的感覚に優れ、花道では池坊と古流の2つの流儀の師範免状を持っているなど、もともと日本文化にも造詣が深かった。そんな陽子さんの素養が発揮され、このお正月飾りは大きな評価を得た。家族総出でお正月飾りを作り、百貨店に置くと完売。同じお客様が翌年も来てくれた。お正月飾り以外にも装飾やのし袋などを販売するようになり、18年経って、子育てが一段落したこともあり、株式会社化し、起業して成功をおさめた主婦の先駆けとして、陽子さんは脚光を浴びた。
 しかし、彼女は、そこに留まらなかった。お正月の飾りやのし袋だけではなく、もっと芸術的な作品をつくるようになったのだ。第1回の「水引イメージアート展」を東京で開催したのは1996年。松や滝など日本的なものから、ゴッホの「ひまわり」まで、さまざまな三次元的造形を水引でつくり、展示した。個展は好評を得、陽子さんはアーティストとして世界で認められてゆく。

「色々な国の人から称賛していただいたんです。水引は200色以上もあって美しく、世界に誇れる伝統文化素材で、心を結び、愛を結ぶ素晴らしい物だと確信したんです。そして、20世紀末でしたから、21世紀には、世界中の人たちが日本文化の水引を自由な発想で使って頂けるようにアピールしようと決心しました」。
陽子さんは使命感を感じていた。

耐久性を求めて

 水引アートは称賛され、さまざまな賞を受け、作品も売れてゆくのだが、そこで陽子さんの中に一つの問題点が浮かぶ。〝水引の耐久性〟である。
「アートとして認められ、作品はとても高い値段で取引されるようになっていきましたが、そんなに高い値段で買ってもらった作品が、何年間、はじめと同じきれいな状態を保てるのかと不安を感じたのです。材料が紙ですから、ことに湿度には弱いのです。すぐに変形したり褪色したりしてしまっては買ってくださった方に申し訳ないでしょう・・・」。
きまじめで誠実な人柄が、耐久性の低いものを売ることに耐えられなかったのだ。
「顧客満足度が低いものを売るのは嫌なんです。それで、ずっと、水引の風合いを損なうことなく耐久性を得るにはどういう方法があるのかと調べ、考え続けていました。ある日、鶴見川の畔を歩いていたとき、木の船が水に浸っているのにその縁が濡れていないことに気付いたんです」。

そこで、陽子さんの中に化学技術への興味が湧きあがった。しかし、陽子さんが求めるものにはなかなか出会わなかった。風合いや色を損なわず、耐久性がある。そしてそれは〝科学的に安全・安心な加工〟でなければならない。

陽子さんは作品を創りながら、その希望をかなえる物質を創り出そうと試行錯誤を重ねた。やがて神奈川大学・横浜市大・との共同研究を開始し、東工大にも通う。
「専門の先生がいるわけでも、恵まれた研究室があるわけでもなく、すべて手探りですから、時間がかかるんですよ」。
自身で〝しつこい〟という、一つのことを考え続ける性格が発揮されたのだろう。〝理解しよう〟と努め続けた。人間に対してだけでなく、化学に対しても愛を発揮したのだ。結婚によって彼女が本来持っていた強さや芸術的なセンスが開花したように、ここで彼女本来の〝理系女子〟としての才能が花開いた。そしてまた、生来の強さを発揮して、物怖じすることなく高名な学者たちに会いに行き、教えを請い、意見を求めたのだった。京大、北大、東北大、名古屋工大、・・・・等。
「塗料や樹脂のことを勉強するのと同時に、あらゆるつてをたどって教えてくれる方を探しました。そんな風に走り続ける中で、知識を持つ人や一緒に研究をしようという人たちに出会っていきました」。

偶然の出来事をきっかけに

 「あるとき〝セレンディピティー〟が起きたんです」。
1997年9月、陽子さんが研究室に戻ると、助手を務めていた新入社員二人がメモ用紙を乾かしていた。吊していたメモ用紙が風で落ち、ガラス溶液の入った容器の中に落ちたのだという。
「その紙を見ると半透明になっていて、乾くにつれて硬く強いものに変わっていったんです。『これだ!』ってひらめきました。それが石のように固くて水をはじく紙の開発につながっていったのです」
「超越紙」誕生の瞬間であった。

〝セレンディピティー〟は、思いがけない発見、求めずして思わぬ発見をする能力などを指す、イギリスの作家・ホレス ウォルポールの造語であるが、陽子さんの上に起きたこの幸運なハプニングを〝セレンディピティー〟と呼んだのは、ノーベル化学賞を受けた白川秀樹博士だった。
「〝セレンディピティー〟は、白川秀樹先生に頂いたお言葉です。白川先生には、2007年に、有機と無機の化学結合の超越技術に無限の可能性を示唆して頂きました。白川先生も、助手のミスから、先生が仮説を立てながら研究開発し続けていた導電膜ができているのを発見するという経験があったそうで、それと同じように、「超越紙」の発見を〝セレンディピティー〟と言っていただいたのです」

偶然のハプニングではあるが、そこに至る努力の積み重ねがなければ起こらない出来事である。長年化学畑で知識を積み重ねてきた学者とは違う彼女ならではのストレートな物の見方と、〝鳥の目と虫の目〟の共存が偶然を導いたとも言えそうだ。

〝セレンディピティー〟の起きた1997年は記念すべき一年となった。陽子さんは美術年鑑に載り、押しも押されもせぬアーティストとなり、事業面でも、「超越紙」が神奈川県の新事業オーディションで特別賞を得るなど大きな躍進を遂げたのだ。翌年にはアメリカ・ニューヨークのソーホーで第3回の「水引イメージアート展」を開くなど、一層の飛躍を果たす。アーティストと科学者としての両輪が大きく動き出したのだ。発明から3年後には、自社内の研究室から横浜市産業共同研究センター内に研究室を設置し、本格的に「超越技術」の研究開発を開始した。

この後、陽子さんの研究には、白川氏以外にも高名な科学者が次々に関わっていく。それは、決して偶然ではなく、「世の中に役立つものを」と心から願って研究を続ける努力の中で、彼女がどうしてもその人の力が必要だと考え、勇気をふるって門戸を叩いたことによる。その熱に打たれ、研究に大いなる可能性を見いだした化学者たちがそれに応えたのだ。

「2002年には、やはりノーベル賞を受賞された江崎玲於奈先生に、超越技術発展による21世紀における可能性を御教授いただきました。また、2011年には京都大学名誉教授の作花済夫先生に超越技術の環境・人体への安全性と・放射線防御技術としての有効性の実証実験をしていただきました。高エネルギー加速器研究機構名誉教授の川合將義氏には、2015年以降放射線関連でご縁をいただきました。そして、2018年5月の東京大学物性研・山室修教授の「ガラス転移と関連分野の最先端研究会」にて「超越ガラス技術」の口頭発表をした。同年、東京大学名誉教授の柴山充弘氏、翌年からは同大学の廣井善二教授も加わられ、「光触媒機能を有する最先端コート液剤開発」を共同で研究できました。同大学物性研究所技術専門職員の浜根大輔氏 、総合科学研究機構中性子科学センターの理学博士阿久津和弘氏には、柴山・廣井両先生のご指示で分析データーのご協力をいただきました」。
そうして、高い耐水性と適度な強度を付与する、安価で簡便 なシリカコーティング「超越コーティング」技術の開発に成功したのである。

2020年12月、廣井教授が執筆された論文が米国化学会の研究雑誌「Industrial &Engineering Chemistry Research」に掲載され、シリカ皮膜が形成される機構を説明する模式図が表紙を飾った。そこには岩宮陽子さんの名が、川合將義、柴山充弘、浜根大輔、廣井善二の各氏とともに筆頭に挙げられている。「超越コーティングを施した紙はプラスチックのように使え、廃棄後に環境負荷を与えないため、海洋汚染などのプラスチックごみ問題解決に寄与することが期待される」と紹介された。また、この論文は東京大学物性研究所のHPでも紹介された。
超越コーティング — 紙をプラスチックの代わりに使う —(東京大学物性研究所HP)

可能性は無限大

彼女が発見したのは、シリカ(二酸化ケイ素)を基にした独自の化学反応だが、それは化学に一定の知識を持つ人が見れば、思いがけないほど単純な形をしているのだという。そして、それは分子結合によるコーテイング技術であるという点で、今までの化学の常識を打ち破る〝新たな化学〟である。現在、脱プラスティックを目指して紙や木をコーティングする材料は種々つくられているが、そのほとんどが一部に合成樹脂を含む製品で、本来の意味で〝地球環境に優しい〟とは言えない。だが、「超越コーティング」はケイ素という天然の無機素材を原料としている。また、それら今までのコーティング剤の多くが、紙や木の繊維を〝塗装する〟あるいは〝接着する〟方法で耐久性を高めているのに対し、「超越技術」は、〝超越液剤を塗工する事で、紙の繊維元素と化学反応結合を起こして繊維自体の組成が変化する〟ことで耐久性を高める。さらに、その繊維間の隙間は残ることで、素材の柔らかさや風合いを保つことができ、また、それによって「水ははじくけれど空気は通す」というような操作も可能となる。

さらに、この技術はエコ対応材料として紙にとどまらず、布、木材、金属、高機能繊維・石、などの素材にも多様な機能を発揮するまでになった。「超越紙」から、素材を選ばず汎用できる「超越技術」に発展させたのだ。もちろん人体・環境への安全性も備えている。それは「化学のパラダイム転換」と言われるほどの画期的なものなのだ。

この技術は、この先〝脱プラスティック〟を越え、多くの方面で人間社会の役に立つようになるだろう。たとえば、2011年に、陽子さんが「少しでも、原発被害を受けている方の役に立ちたい」と、いてもたってもいられぬ気持ちで福島に出向いたことをきっかけに生まれた「放射線防護服」。また、エアコンのフィルターなどに使えばウィルス除去の効果が期待出来る。医療の分野では紙や布を湿気や汚れから守るという最初の目標を大きく越え、多様な範囲での使用が考えられ、その効果も高い。そしてまた、その使用は、他の製品に比べて手軽でコストも低いという。〝思いがけないほど単純な化学反応〟の発見が、魔法のようにさまざまな形で人を助け、環境への負荷を削減するのである。

〝賞ラッシュ〟を経て、未来へ―― 

「超越紙」の作成に成功したころから、陽子さんは〝受賞ラッシュ〟と言えるほど、さまざま賞を受けている。1996年には(社)ニュービジネス協議会のアントレプレナー大賞レディース賞、2000年に日本発明協会「発明大賞・粟村功賞」、神奈川発明展「横浜市長賞」、2001年には科学技術振興功績者として「文部科学大臣賞」、……2005年、日経ウーマン「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2005」、2006年日経ビジネス「日本イノベーター大賞 優秀賞」、2007年「黄綬褒章」、2008年「特許庁長官賞」と続く。ここでは書ききれない程多数だ。

■平成13年度「文部科学大臣賞」受賞(2001年)

白川秀樹博士と
当時の文部科学大臣 町村信孝氏と

■「世界優秀女性起業家賞」受章 (アメリカ・ザ スター グループ 2004年)

21名の受賞者の内、日本人は岩宮さんだけだった
陽子さんの人生は物語のように、驚くほど躍動的だ。また、その上品で柔らかなたたずまいと、妻、母、旧家の嫁、アーティスト、経営者、研究者といういくつもの役割を併せ持つエネルギッシュなありようとのギャップも、驚かずにはいられない。「超越コーティング」の研究はもちろん、アートの制作も、会社経営も、すべて予期せず関わることになった、はじめて出会う分野のことなのに、その度、彼女は大きくジャンプしてそのはじめての壁を乗り越えてきた。幼い頃、病弱で人のために力を尽くすことに憧れていた少女が、そのひたむきさと誠実さ、聡明さで困難を乗り越え、あり得ないほどの成果を残してきたのである。

そしてまた、そこには、彼女自身の努力の他にも、いつもさまざまな人の助けがあった。陽子さんの根底には、たくさんの愛があるのが感じられる。それは、〝人の役に立ちたい〟という幼い頃からの切実な願いであり、対象を〝理解しよう〟という基本的な姿勢である。そして、それは、夫や子供、家族に対してだけではなく、自身の作品や、研究や、関わっている人々すべてに及んでいるようにみえる。「嫌いな人はいないの」というその愛に反応して、出会った人は皆、陽子さんの背を押すために何かしたいと思ってしまうのだろう。

この文章を作成途中の2022年5月13日、一つのニュースがもたらされた。東大物性研究所のHPに、「超越コーティング」に関する記事がプレスリリースされたのである。
陽子さんと、総合科学研究機構中性子科学センターの阿久津和宏氏、有馬寛氏、柴山充弘氏、東京大学物性研究所の浜根大輔氏、廣井善二教授によって発表されたのは、<環境負荷の少ない「超越コーティング」において、酸化チタンナノ粒子が自発的に作られ、温和で持続的な光触媒効果を示すことを発見したこと>、<コーティング皮膜は基材表面に強く固定され、さらに光触媒効果による優れた汚れ防止効果・抗菌作用によって基材は長期間に渡って保護されることを確認したこと>、<「超越コーティング」は紙をプラスチックの代用品とするだけでなく、ガラス、セラミック、プラスチックなどの素材に適用することにより優れた高機能保護膜として働き、材料の可能性を大きく広げることが期待されること>などだった。
超越コーティング:防汚・抗菌効果を示す高機能保護膜(東京大学物性研究所HP)
                           
「超越コーティング」の技術開発はすばらしい成功を見せている。しかし、陽子さんはまた、ここで留まることを拒否する。
「この研究は、必ず世界の役に立つと確信しています。もっともっと、研究を重ね、精進したいと思います」
彼女は今、またも大きく飛躍しようとしている。期待とともに見つめ続けたい。

(聞き手・文 堀口裕世)

共生可能な社会をつくる〝超越技術〟

(株)シリカジェン代表取締役社長 芦田秀

株式会社シリカジェン代表取締役の芦田秀と申します。当社は岩宮陽子会長が発明した「超越技術」を、同氏が代表を務める(株)超越化研と共に事業展開し、地球と人類の共生に役立つことを目的として2021年11月に設立致しました。
岩宮氏の超越技術を、ネーブルジャパン様が「音響素材」Sound Woodsの木材にコーティングしていただいたことがきっかけで、ネーブルジャパン様には当社の重要な株主となっていただいております。

当社代表の私、芦田秀は東京の広告代理店に勤めておりましたが、ネーブルジャパン様からのご紹介で2019年に岩宮氏と出会い、宇宙に船出予定の日本人キャプテンが宇宙空間に持ってゆくお土産に超越技術を付与するというお仕事をご一緒させて頂きました。
その際、超越技術が、製品・製造工程ともに地球にやさしく人体にも安全な独自のガラス技術であることを実感し、地球と人類の共存共栄の必要性が叫ばれる今、まさに世に広め、世に役立てるべき技術であると確信するに至りました。
それから約3年余り、岩宮氏は超越技術を絶え間なく進化させ、今では超越技術に関する論文が複数、東京大学や鶴見大学から日英語で発表され、世界各国の企業からも注目されるに至っています。

超越技術は紙や木、布地、ガラス、セラミック、金属などの基材に独自のガラス薄膜を生成させることにより基材を高機能化させるもので、プラスチック代替、合成繊維代替、有機材料代替、抗菌‣除菌機能付与、等が可能になります。私たちはこの超越技術を発展・事業展開することにより、地球と人類が共生可能な社会を目指してゆく所存です。
このコラムをお読みいただいた皆様のご理解と応援を宜しくお願い致します。