COLUMN

第10回 古田家の闇と光(前編)

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

「古田重勝出陣之事 その4」

悦:あけましておめでとうございます。

ほ:今年もよろしくお願いいたします。年末には大河ドラマに宣長さんが出ましたね。北村一輝さん演ずる宣長はいかがでしたか?

悦:出してもらえただけでも光栄と言いたいところですが、最終話は詰め込みすぎでしたね。そのために、宣長さんとの対面シーンも、何のために蔦重は松坂まで来たのかというのが、わかりにくかったかもしれません。ただ、江戸で本を売らせてくださいという交渉だけじゃなかったというところは、大いに評価します。でも対面場所も本居宣長旧宅の奥中の間と奥座敷、鈴屋が一緒になった不思議な場所でしたね。そうそう、ほさんもよくご存じの讃岐の方、、、

ほ:平賀源内さんですか?

悦:いやいや、今の方です。鋭いというか、素敵な批評眼をお持ちのかたですが、放映直後のメールに「賀茂真淵との松阪の一夜を思わせるような感じで」とありました。そうなんです、蔦重を宣長に、宣長を真淵に、時間を夜と改めたら、まさに宝暦13年5月25日、松坂日野町新上屋ですよ。真淵先生に拝謁する宣長「松坂の一夜」です。最後の方で、ちょっとにやけた表情の宣長、あの夜の真淵先生も定めし、という感じですね。

ほ:松坂はあまり出ませんでしたね。

悦:去年の私の初夢のように、鈴屋の前に立つ蔦重、次はどんな面白い絵を描くか、で終わってくれたらよかったかなと、未練がましく思ってますが、でも一年間、蔦重、蔦重で楽しませていただきました。

61歳(左)と72歳(右)の宣長像(
61歳(左)と72歳(右)の宣長像(いずれも部分 本居宣長記念館蔵)
北村さんの宣長は、髪や服装はそっくり。面差しも…?

間違いと知ってか知らずか…宣長さんは

悦:今回は、宣長所蔵本『松坂権輿雑集』に挟み込まれた紙についてです。

ほ:松阪市史では「付箋」となっていますが…。

悦:私が原本を見たのは37年前、記憶は定かではありませんが、写真版で見る限り、紙縒り綴じの紙のようです。このようなものを、「挟み込み」と言ったりします。

ほ:付箋と同じように、「宣長が書いたのだから重要」なのですね。

悦:もちろんそうですが…、まあ、読んでいきましょう。

ほ:はい。短く区切って読みますね。

■「鈴屋本」にのみ有る付箋(挟み込み)二枚
古田氏のこと
古田兵部少輔信勝、秀吉公につかへて段々立身し、後に(脇注:天正十八年以後なるべし)勢州松坂城にて三万四(異説:七)千石を領す。所々の戦に功あり。秀吉公薨じて後、東照神君に仕へ忠功有り。石田の乱に関ヶ原にて戦功に仍て、後に二万石の加増、其後、病死の後、子息大膳大夫重勝相続。元和五年(1619)(脇注:秋)に本高五万四千石にて石州濱田城(石見(いわみ)国・島根県浜田市)へ所替、その後病死。重勝子なし。甥・重恒を存生の内より養子とす。因りて重恒相続し元和六年より、従五位下兵部少輔となる。

ほ:あれれ、変ですね。

悦:古田重勝が信勝になっていますね。ただ、前々回に読んだ「古田兵部少輔重勝の事」にも、宣長本には「兵部少輔藤原重勝」の割注に、「一説に信勝」とあり、このような異説があったのですね。でも、世間通用の知識では、誤りですね。

ほ:異説といってもあながち誤りとはいえない、ってことかな。

悦:甚だしい場合は、誤りと言ったほうがよいでしょうね。では、ここを直してみるとどうなるか、ちょっとご覧ください。

古田氏のこと(悦 書き換え)

古田兵部少輔信勝、秀吉公に仕へて、天正7(1579)年、播磨国三木城攻めで討ち死にす。後を継いだ長男・重勝は段々立身し、後に文禄4年勢州松坂城にて三万四千石を領す。所々の戦に功あり。秀吉公薨じて後、東照神君に仕へ忠功有り。関ケ原の合戦後、二万石の加増、その後病死。子息・重恒未だ幼く、代わりて弟・重治大膳大夫重治相続す。元和5年(1619)秋に本高五万四千石にて石州濱田城へ所替え、元和9(1623)年、成人した甥の重恒に家督を譲り、隠居。

ほ:ずいぶん変わりましたね。

悦:分かりやすいでしょう。でも、分かりやすいからとか、間違いは直さないと、ということで、本文を書き改めることは、史料を紹介する時には、ご法度です。

ほ:でもどうしてこんな間違いを、宣長ともあろう人が記したのでしょうね。敢えて記したのでしょう。

悦:問題はそこにありますね。宣長は、この記事の誤りには気づいていたけれど、このような伝えもあるということで書いたのです。

ほ:なるほど…そうですか…。では次を読みますね。

松坂城跡に掲げられた幟 蒲生家・服部家・古田家・徳川家の紋が並ぶ

困った殿様がいたものだ

重恒愚昧にして、その上、人の交わりを嫌ひ、病気と称して数年引き籠もり、就中(なかんづく)十ヶ月余も家老近臣どもにも対面せず。さて、山田十右衛門成高といふ寵臣あり。もと石見の百姓の子なりしが、男色にて十四歳よりめしつかひ、段々出頭して後には千石まで与へたるが、終に此の十右衛門が計にあざむかれて、罪もなき家老共三人を城内にて殺し、二人はやうやうと逃れける。
かくて、兵部少輔公儀へ言上せられけるは、家老共一味にして、某を害すべき巧に候故、誅伐仕ると也。公儀にても疑はしく思し召す所に、かの逃れ出たる家老共、やがて兵部少輔作病と、十右衛門が悪事を訴へたり。然る内に兵部少輔は頓死せらる。一説には自害ともいへり。実子もなかりければ、領地没収せられ、家断絶す。山田十右衛門は磔(はりつけ)にかけられると也。

ほ:・・・

悦:言葉を失いましたか。重勝の子重恒は愚昧だった。しかも引き籠り。なんと10か月近く家臣らと会わぬこともあったといいます。文中では「作病」と言っていますが、仮病の事です。その重恒のお気に入りが山田十右衛門成高。もとは石見の百姓の倅だった。14歳の頃から衆道の相手として取り立てられ、あっ、ほさんは、衆道にお詳しいと漏れ聞こえておりますが。

芭蕉だって浮かれちゃう

ほ:詳しいというほどのことはありません。自分で調べたわけではなく、聞いただけです。男色は、日本文化を解く重要なカギの一つなのですよ。岡野弘彦先生と松岡正剛さんからのお話ですが、聞かせていただいたことを幸運に思っています。現在言うところのLGBTとかとは、ちょっと違う次元の話です。でも、話すと長くなりますが…?

悦:長くても構いませんよ。どういう話ですか?

ほ:では、お聞きしたことをお伝えしますね。最初は、岡野先生と二人で食事をしながら、芭蕉の『笈の小文』についてのお話を伺っていた時です。岡野先生は、國學院の名誉教授で、歌人で、皇室の御用係なども務められ、文化勲章も受けられておられます。三重県の美杉の若宮八幡宮に大正13(1924)年の七夕の日にお生まれになって、令和8年1月現在では、101歳。大悦さまも國學院大のご出身ですからよくご存じですね。

松岡正剛氏(左)・岡野弘彦氏(中央)と ほ 2005年ごろ

悦:ええ、岡野先生はよく存じ上げています。本居宣長記念館にも講演に来ていただきました。

ほ:『笈の小文』を読むと、伊勢で杜国と再会した芭蕉ははしゃいでいるでしょう。

悦:芭蕉と杜国の再会は 「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」と詠んだときですね。

ほ:そうです。幼名の“万菊丸”とか呼んじゃって、「二人してじゃれあって浮かれていますね」と申しましたら、先生が「この二人は男色の間がらだったのだろうと言われていてね、“杜国いびきの図”なんていうのもあって、私もそういう関係だったと思っていますよ。久しぶりに恋しい人に会ったら、それは芭蕉だって浮かれるよ」とおっしゃったのです。

悦:なるほど「菊」ですものね。「いびき」の絵は変ですね。隣でいびきをかいて寝ている杜国を見つめる芭蕉の優しい眼差し。芭蕉は、伊賀上野で武士だったころも主君の藤堂良忠と衆道関係だったと言われたりしていますね。

ほ:そうですね。芭蕉と杜国は師弟関係であり、男色関係でもあった。そこから、岡野先生の師であった折口信夫の話になりました。折口が男色であったことは有名でしょう。岡野先生が内弟子として家に入る前に内弟子だった加藤守雄さんが、折口に激しくしつこく関係を迫り続けられる場面もえがかれている『わが師 折口信夫』という本を出されたりしています。

師弟愛の究極は…?

悦:あの本は生々しい内容で話題になりましたね。

ほ:ええ、追いかける折口が執念を感じさせて、怖いのね…。あの本を出される前に、先輩の池田弥三郎さんと加藤さんが岡野先生のところにいらして「こんな本を出すが、いいか」と聞かれたそうです。「構いません」と返事をしたとおっしゃってました。その後、好奇の目で見られて、迷惑なさったのではないかと思いますが…。まぁ、そのことはさておき、その折口の理想の師弟関係を突き詰めていくと、男色の感覚に近いものになっていくというお話でした。師弟愛・友情・信頼関係…というようなものが極まると、恋愛関係のようになると、折口は考えていたというような内容で、“少年愛”という表現もされていましたね。男女の師弟関係でも、性愛を伴うかどうかは別にして、極まれば、その関係性は愛に近いものになるのではないかと思いました。

悦:昔はそういう側面を感じさせる師弟関係も多かったですが、今ではそのような関係は許されないでしょうね。

ほ:そうですね。でも、人間同士のかかわりは、そんなにぱっきりと分けられない部分もあるでしょう。本気であればあるほど、ね。岡野先生からは、親友でいらした丸谷才一さんに「加藤さんのように、折口先生に迫られたりしなかったの?」と聞かれたことがあってね…というお話も伺いました。「加藤さんへの恋に破れて心身ともに傷んでいた折口先生は、枯れておられたのか、僕に対してはずいぶんかわいがってくださったけれど、そういう誘いはなかった」とこたえたそうです。丸谷さんは重ねて「もし、迫られたらどうするつもりだった?」と聞かれたので、即座に「受けました」と答えたら、丸谷さんはずいぶんびっくりされたけれど、実際そういう気持ちだった、と言われました。「家に入るときから覚悟があったんだよ。折口先生のことは、その学問も生活も思想も、すべてが好きだったんだからね」と。

岡野弘彦氏の著作から

悦:覚悟ですか…、岡野先生らしいですね。私が読んだある本の中に、加藤守雄が『わが師 折口信夫』を書いた後で、ある折口門下のひとりが言ったひとこと、「抱かせて上げればいいではないか」を、山本健吉は「無理無体とも思えるこの評言が、あるいは加藤氏には一番痛かったのではないか」と言い、「「たましひ」の教育はそこまで行くと、折口氏は考えていたのかもしれぬ。古代の人間教育の真諦を、極限においてはそこまで考えていたのだろうか。「育」とは「羽含(はぐく)む」だから、スキンシップ、抱いて体温を移すことに外なるまい。してみると加藤氏は、せっかくの「たましひ」の伝授の機会を逸したことになるのか」と述べています。折口学というより、日本の伝統を見失った人には、無茶苦茶な話に聞こえるでしょうね。

ほ:その通りだと思います。でね、それから何年かを経て、岡野先生と、私の師である松岡正剛さんとお引き合わせすることができたのです。松岡さんは、一昨年他界なさいましたが、幅広い分野にわたって活躍された天才編集者で、ことにその日本文化論は素晴らしく、私は宣長に続く現代の国学者ととらえています。大悦さまにもお会いいただきました…最初は20年以上前ですね。

平安貴族も男色を嗜んでました

悦:大学生だった頃、自由が丘のアパートで慶応義塾大の鈴木さんという先輩と松岡さん編集の『遊』の話をしたことを懐かしく思い出します。その憧れの方が、ほ さんと一緒に来られたときは驚きましたよ。

ほ:で、まぁ、そのお二人が、初対面のときではなかったと思うのですが、松岡さんが丸谷さんと同じようなことを聞かれたのです。そうしたら岡野先生は「折口先生は、私が家に入った頃には、私に対してそういうことはなかったのです。その頃は、どこかで助かったというような気持ちがなかったわけではないが、今となっては、それが寂しくもあるのです」と、おっしゃいました。岡野先生は80代でいらしたと思います。ああ、寂しく感じてらっしゃるんだ…と、胸を打たれる思いがしましたよ。そのあと、お二人で男色の話をなさいました。

悦:少年愛と言えば、稲垣足穂など、松岡ワールドの一領域ですね。

ほ:それがね、ちょっと違う方向。“衆道”という言葉に近い方です。初めに、折口が書きかけた「死者の書 続編(草稿)」について話されました。これは、悪左府として知られる藤原頼長らしき公卿が、高野山にづかづかと入っていって美少年を略奪してくるのと、空海が中国からもたらした密教に、十字架を用いる宗教が集合しているという気配を感じさせる断片で、これからどんな物語が始まるのかとどきどきさせて、それっきり終わっちゃうのです。読みだすと続きがないのが悔しくなってくるような冒頭部分なのですが、この頼長の日記「台記」には、男色の話がたくさん出てくるでしょう。

悦:ええ、結構な人数の公家と関係を持っているようですね。

ほ:おそらく、この「続編」を書くのには折口は『台記』を研究したでしょう。岡野先生も詳しくお読みになったようでした。そのうえで、男色の関係を持った家臣は主を裏切らないというようなことや、頼長は平安後期の公卿ですが、それ以前の平安の高貴な男性たちも男色の関係を政治に使っていただろうというようなお話になりました。

恋のお相手は男?女?

悦:平安時代は、娘を天皇家に嫁がせて次の天皇を生ませることが大きな意味を持ったということはよく知られていますが、男性同士の性の関係もあったのですね。

ほ:ええ。平安貴族は、性というものに対して現代人とはかなり違うとらえ方をしていたようですね。
そのあと、お二人の話は、武士の時代の衆道へと続きました。そこで、男同士の契りというものが、強固な主従関係を結ぶ紐帯として捉えられるようになったり、男女の間柄よりも強いという考えに至ったということでした。忠義と衆道が絡み合うのですね。で、『葉隠』にあるようなのも、江戸の武士の男色の一つの完成形ですね…というような話になり、松岡さんが、傍らにいた私に、「『葉隠』にある“恋”は、男同士の恋なんだよ。女には恋をしないというのが『葉隠』の立場だよ」とおっしゃいました。きっと私がぽけっとした顔をしていたからでしょう。
後日、松岡さん主催の連塾でも、折口との関係については同じようなお話があったと記憶しています。

悦:“恋”は男同士の間にだけあると…

ほ:『葉隠』では、ですね。別な本では、江戸時代の恋は色里にだけあるもので、まともな男は無粋な“地女”に恋はしないのだ、と書いてあってびっくりしましたが、まぁ、一般の女性に対しての恋心ももちろんあったでしょう、とは思います。

悦:日本では、男色は寺院社会で始まったと聞きますが、それが公家に伝わり、武家にも広がる間に少しずつ変容していったのですね。

ほ:そうみたいです。僧たちの間で男色が広まった背景には、もちろん戒律の問題があったでしょうけれども、女性との性的関係が悟りの邪魔になるという考えがあったからだ、と私が見た本にはありました。男性との性交渉はOK だったみたい。で、頼長には当然ながら妻も妾もたくさんあったけれど、日記を見ると、学問に励んでいる期間は女性には触らず男性と性的な関係を持っているので、女性とちぎるのは学問によろしくないと頼長も思っていたのでしょう、ということでした。僧侶の男色の相手は多くは稚児と呼ばれる少年で、その華奢な美ははかなく無常であるので、女色よりもよしとされたというような側面もあるようです。そういう考えが、武士の時代になると更に進んで、男女の契りよりも男同士の契りの方が高尚だというような方向へ進んで行ったのだと思います。

悦:なるほど、「権輿雑集」に戻って考えると、衆道の契りは、男女のそれよりも強い、これは重恒を理解するうえでも大事なことかもしれません。

松岡正剛氏の著作から

特別なことじゃなかったのさ

ほ:いえいえ、逆らうようで恐縮ですが、ちょっとお待ちを――。
それは、武士の世界では、男同士の契りを男女のそれよりも高い位置に置いておいた方が、ある意味都合がよかった、というだけのことでしょう。佐伯順子さんという方の本を見ていましたら、井原西鶴の『好色一代男』などでも「色道ふたつ」とあって、女色と男性との関係が普通に挙げられているのだそうです。
つまり当時の文化の中では、男色は「フツー」の事だったんですね。僧侶や公家の間で行われていた男色が、武士や町人にも広まって、歌舞伎役者の若者が色を売る「陰間」なんて言うのも出てきて、そのための茶屋なんかもできる。一方では『葉隠』のように、男色を礼賛するような方向に進んで行った例もあったのですね。大人の男性と少年との関係から、マッチョ同士の恋へと広がり、精神的にも強い絆を持つと考えられた。そこにはある種のナルシシズムもありますね。
なので、ここでは、折口のように女性を恋心の対象にも性愛の対象にもし得ない男性だけでなく、岡野先生のように普通に女性を愛する男性であっても、そういう文化の中で育てば、男性を恋の対象ととらえるようになる、ということの方を重要視すべきだと思うのです。

悦:ん~、まぁ、人間は自分が育った社会の文化にはあらがえないというか、気づかないですからね。

ほ:はい。大悦さまとこの「権輿雑集」を読み始めて、つまり昔の人の事績をたどる作業の中で、私が一番大きく学んだのは、松坂の歴史のあれこれよりも、周囲からの刷り込みの結果であっても、人はそれを人間の本質だととらえてしまいがちだということでした。忠義とか、母性とか…ね。恋愛とか性についても、同じだと思うのです。
岡野先生は多分、帰依するかのように折口を敬愛してらしたから、それを受け入れられると思ったけれど、他の男性にとっては「無理無体」でしょう。なぜかというと、彼らは明治以後に育った人たちだからですね。そういう男性たちも、江戸時代のように男色が普通であるという文化の中で育っていたら、あるいは周囲に男色の人がいる中で育ったら、衆道に嫌悪感を持たない場合が多かったと思うのです。個人差はあるにしても、ね。
男色は、近現代に入っても書生文化というか学校の寮などにはその伝統が残っていましたよね。だから、この重恒の場合、相手が男性だったことをことさらに考えなくていいだろうと、私は思うのです。重恒が引っ掛かったのがたちの悪い女だったとしても、似たような結果になったでしょう。男色・衆道が当時は普通のもので、決して異常とは受け止められていなかったのですから、そこを特に大きく考える必要はないと思いますね。
人間嫌いの殿様の寵愛も度が過ぎて、小姓がとうとう千石取りにまで出世し、横暴は目に余るようになる。その非道を戒めたであろう家老たち3人が城内で殺され、2人は命からがら逃げた、ということですね。

悦:くわばら、くわばら。

ほ:しかも、幕府には嘘の報告を上げた…よくあるお家騒動ですが、幕府も一連の騒動を疑います。結局、その場から逃げた者の訴えで、重恒の病とそれに付け込んだ山田成高の悪行が露見。重恒は急死、もちろん自害でしょうね、成高は磔、お家は断絶となりました。

悦:一説に、藩政を放棄した重恒には子供がない。このままでは改易になってしまうと危機感を募らせた江戸家老たちが、主に無断で一族の孫を重恒の養子にしようとしたのが発覚して騒動に及んだとありますが、いずれにしてもここで古田家は絶えたのです。突然の藩の消滅に浜田の町は大混乱、松坂から移り住んだばかりの人は慌てて伊勢国に逃げて帰ったという話も伝わります。「古田崩れ」と言い、それは恐ろしいことだった、という体験談も残ります。

ほ:古田崩れ…はぁ、すごいことですね。平和で落ち着いた時代になったと思ったらお家騒動で、浜田の人たちは難儀したことでしょう。お正月早々、男色について長々話してしまいました。くわばら…?まぁ、大悦さまには釈迦に説法な長口上でございました。

悦:いえいえ、岡野先生の覚悟はさすがだと、改めて感服しました。

日本の男の本来は…

ほ:岡野先生にはずいぶんたくさんのことを教えていただきました。なかでも古代の日本女性の在り方を聞かせていただいたときには、目が開くというか、希望を感じました。

悦:岡野先生の日本女性観をお聞かせください。

ほ:女性論というか、男性論かな…。古代の日本は、母権制が遅くまで続いたので、母と娘が男を選んだそうです。誰の子どもかは、女親の方がはっきり分かるからで、当時は、男親が誰かはあまり重視しなかっただろうと…。

悦:分かるものなのですか。

ほ:その名残りが平安時代の通い婚であり、江戸時代になっても女性の財産権が認められていたということなどにあるそうです。「女が男を選び取るんだよ。あなたも日本の女なら、しっかりこれというのを選んでつかみ取って来なさいよ」と笑い話におっしゃっていました。それでね、そういう岡野先生のお話を踏まえて考えると、例えば、「明治になって恋愛という概念が輸入されるまで、日本の男は女性に恋をしなかった」とか「日本の女は子を産む性という以上の意味を持たなかった」みたいな言説は、表層だけを取り上げてて、心浅いことではないかなぁ…と思ってしまうのです。
万葉集や平安の女性文学や恋の歌もそうですし、日本の仏教をみても、女性がそのままで成仏できるという教えは、インドにも中国にもないのだけど、日本は女のみならず「山川草木悉皆成仏」ですよね。底流に女を、あるいは命あるものすべてを大事にする心が伝わっていたのでしょう。そんな男性たちが、女は生殖の道具にすぎないと、芯から思うほど単純だったとは思えないのです。よっぽど女性に対して僻んだ考えを持ってる男以外は…ね。日本の男は、優しくて強い、いい男が本来の姿だと信じたい、と思っています。

悦:滅び去った日本の美徳ですね。衆道や男色も、近代になると、先ほどおっしゃった「寮」とか、あと、「友情」という形で何とか生き長らえますが、それも、過去の話です。

ほ:さて、次回は古田家の光の方ですね。

悦:そうです。一つの家系には、必ず、困った人も優れた人もいるものですよ。

ほ:楽しみにしております。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2026.01.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集