銀杏が美しい秋の城跡
松阪のまちに金木犀の香りが漂うようになりました。秋もたけなわです。
松阪の秋を代表する行事は、毎年11月3日に行われる「氏郷(うじさと)まつり」です。
さて、〝氏郷〟とは…?
松阪市は、城跡を中心に旧城下町が広がり、田畑を挟みながら郊外の町々へとつながっていく形になっていますが、434年前まで、お城の附近は、「四五百森(よいほのもり)」と呼ばれる森林や薮だったといいます。それを拓いて城を築いたのが、戦国武将・蒲生氏郷(1556-1595)です。
茶道や能、歌にも秀で、千利休から「文武二道の御大将」と賞され、「利休七哲」の一人にも数えられています。また、レオンの洗礼名を持つキリシタン大名でもあり、多彩な魅力をもつ人物だったようで、のちに利休が豊臣秀吉から切腹の命を下されたとき、利休の次男・少庵を匿うなど、義理にかたく侠気(おとこぎ)のあるエピソードが伝わっています。一夫多妻が通例であった戦国武将の中で、正室である信長の娘・冬姫以外に側室を持たなかった点でも、女性からの好感度が高いかもしれません。
天正12年(1584)、秀吉から12万石を賜り、海に近い松ヶ島城主となった氏郷は、数キロ離れた四五百森に城と城下町を築き、松坂と名付けたのです。開府は天正16年(1588)のことでした(松坂は明治時代に「松阪」に改められましたが、城の名前は今も「松坂城」とされています)。
氏郷はここを、商いが盛んで賑やかなまちにしたいと思ったようです。戦国時代ですから、城には大きく堀を巡らし、ことがあれば要塞となる寺を城下の外側に並べ、道は武者隠しのあるジグザグな形にするなど、城下町としての護りはもちろん固められていますが、海岸近くを通っていた伊勢街道をまちの中央に移し、その通り沿いに近江の日野や伊勢の大湊などから招いた商人を住まわせるなど、経済振興を図るまちづくりをしました。それは、都市計画というハード面だけではなく、「町中掟」を定め、信長の行った楽市楽座を更に進めた「十楽」を施行するなど、ソフト面でも、町人の力を伸ばすものでした。つまり氏郷は平和な世を求め、やがて実現するであろう次世代にビジョンを持っていたのでしょう。経済の力を知っていたということかもしれません。
当時、日野から来た商人たちの住んだ「日野町」や大湊からの「湊町」などは、今も同じ町名が続いていますし、寺の場所や道のつくりも、氏郷の頃と変わらず現在の松阪のまちに残されています。
氏郷は、松阪開府の2年後には会津黒川へ移封となり、会津若松と改め、鶴ケ城を築きます。徳川幕府によって世の中が安定し、城主が変わっても、氏郷の敷いた経済振興策は引き継がれていきました。江戸時代の松坂は、三井家、長谷川家、小津家など数多くの〝江戸店(えどだな)持ち商人〟を輩出する、〝豪商のまち〟となります。それには、古くから丹生の水銀によって豊かな商人群が近在にいたことや、松坂木綿の江戸での流行などさまざまな要因が重なっていますが、氏郷が敷いた最初のまちづくりの功績は大きなものです。松坂を治めたのは短い間でしたが、まちを発展に導いた明君として、氏郷は今も松阪の人々に愛されているのです。
「今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた」は梶井基次郎の『城のある町にて』の一節です。大正14年(1925)に発表された作品で、松阪を舞台にしています。城跡から見下ろせば、今も同じように松阪の町が一望できます。
11月3日は晴れの特異日。きっと今年も晴れるでしょう。秋晴れの一日を楽しみに、松阪へいらっしゃいませんか。
氏郷まつりが終われば、秋も終盤。晩秋の空気が松阪を包んでゆきます。
写真提供:松阪観光協会
開催日 | 令和4年11月3日(木)文化の日 |
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開催場所 | 松坂城跡および中心市街地 (JR・近鉄松阪駅のJR側よりすぐ) |
氏郷公や冬姫らに扮した市民の武者行列のほか、さまざまな出店やイベントブースなどが出されます。
<お問い合わせ>
松阪駅観光情報センター 0598-23-7771
松阪市観光交流課 0598-53-4406
二ノ丸、きたい丸、本丸、天守跡と渦巻き状に上がっていく美しい石垣が残り、桜、藤、銀杏など季節ごとにみどころがあります。
城趾内には、本居宣長記念館、郷土資料館など松阪の歴史や文化を知る施設のほか、「月見やぐら(カフェバー&ギャラリー)」で一息つくことも――。御城番屋敷、旧長谷川治郎兵衛家、豪商のまち松阪観光交流センターなどもすぐ近くにあります。
ぷらっと松阪 不足案内|2022.10.15
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集