場所の力を活かす。今回はこの話である。
本居宣長の成功の要因の一つは、ここにある。
松坂は田舎町である。江戸に行くには、歩けば約2週間、430キロの旅だ。京都は近い、といっても120キロで3日。大坂ならば160キロで4日の距離。今なら最速で、東京まで3時間30分。京都、大阪は2時間弱だが、何れにしても地方都市、田舎である。
だが本当に新しいものは、このような「周縁」から起こるものである。
江戸と京都、和歌山を加えて、三角形を描いてみる。その真ん中が松坂である。
江戸と京都はわかるが、なぜ和歌山か。
松坂は紀州徳川家の支配地であり、藩主のいる和歌山までは紀伊半島を縦断して約4日かかる。まあ大坂と似たものだが、上手くいけば橋本から紀ノ川を船で下ることが出来る。
「江戸店持ち商人」と言う言葉がある。仕事はもっぱら江戸だが、住むのは松坂という商人を指す。宣長の言葉を借りれば、「江戸の商いは手代に任せ、主人は松坂で優雅に暮らし」(「伊勢国」)と言う具合。小津家も長谷川家も長井家も、主人や家族は松坂にいる。
唯一例外は三井家だが、京都に本宅を移した後も松坂に二家族を残して、藩との関係は維持された。
同じ「伊勢国」で宣長はこんなことも言っている。
「女性はこの町の豊かさを象徴するかのように姿も装いもよく、店で売っている呉服や小間物も、周辺の町に比べても上々の品。京都の流行の最先端が入ってくるからだ」
そんな町である。ただの田舎町ではない。江戸で流行りの俳諧や、江戸絵(浮世絵)などは軽くあしらわれ、教養と言えば和歌に『源氏物語』、床の間に掛けるなら土佐派の優美な大和絵か、流行の最先端、円山応挙や四条派であった。現今評判を呼ぶ曽我蕭白などはゲテモノ扱い。つまり、江戸で稼いだお金は京都で使う。そして殿様のいる和歌山。この三角形の真ん中から主人は睨みをきかすのである。
そうそう、もう一つ大事な場所がある。伊勢の神宮だ。松坂からは内宮まで24キロ。日帰り圏内である。参宮客はこの町で、もう一息と安堵する。小うるさい侍やお節介な御師もいないので、全国津々浦々の人が集まり話も弾む、情報も集まる。
大事なのは何れの土地からも、適度な距離があったということだ。
前回もお話したように、宣長は松坂の本町の木綿商の家に生まれた。三井家の隣である。江戸店持ち商人としては三井に先行し、繁栄もした。しかし商いほど面白いものはないといわれた時代も終わり、小資本が大資本に吸収されていく中で店は衰退し、父は心労も重なったのだろう、宣長が11歳の時に江戸で死去する。
この時の妻・勝の決断は早かった。
本町の屋敷は人に貸し、裏隣の魚町の隠居宅に一家は移る。長男・宣長には手習いや謡など充分な教養を身につけさせる。そして元服の翌年、16才になった宣長を江戸に送り出す。もちろん商いの修行が目的であったろう。
松坂を出立する前、宣長は『伊勢州飯高郡 松坂勝覧』と言う本を書く。
B6サイズで本文18頁という片々たる小冊子だが、処女作だ。その内容の充実振りは目を見張る。
まず、町の歴史と、本稿の冒頭でも書いた主要都市への距離を書く。時間の流れ、空間の広がりの中での位置の把握である。城代など支配者の事が書かれ、次は主要神社仏閣の紹介だが、これも無味乾燥なものではなく、所在地、境内社や塔頭、縁起、大事な祭礼など内容は充実している。その後「松坂町分」があって、最後は近在の名所紹介である。『勝覧』、観光案内と言うだけあって、たとえば阿坂浄眼寺は白米城という激戦の地だが、そこに現れた戦死者の亡魂を弔うため座禅石が出来たとか、横滝寺からの松坂の眺望は抜群だ。あるいは今は土日になれば女性のハイカーに占領される堀坂山だが、当時は山頂は女人禁制であったなど、実に内容豊富。今のガイドブックの到底及ぶところではない。
この後、松坂大橋の架け替えや、近くの浜に鯨が上がったなどいう「年代記」というちょっとしたメモがある。
『松坂勝覧』「松坂町分」
さて、「勝覧」で私が注目するのが「松坂町分」でる。これは竪の列(なら)び、横の列びに分けて各町名を挙げるもので、もちろん範となった「京都」の例などあるのだが、出来映えが素晴らしい。丁寧に見ていくと、松坂の町の構造が見えてくる。地図が文字で表されている。
これは簡単そうだが、よほど町のことを知り抜いていないと出来ない作業だ。たった16歳でこんなものを作ったのである。
『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』、『うひ山ぶみ』などたくさんの本を書いた宣長の最初の本が、松坂の地誌であったことは注目に値する。
実はこの本は、宣長が最晩年に書いた「伊勢国」と言う文章と対を為すものと考えている。この文は、随筆『玉勝間』に載る短いものだが、伊勢国や松坂をよくとらえていて、特に「松坂は、ことによき里にて」に始まる一文は、現在でもしばしば引用される。
つまり宣長は、松坂に始まり、松坂に終わったと言ってよかろう。
自分の住む土地、フィールドをていねいに観察する所から始まり、その地の利を存分に活かし、国誉めというオマージュで終わる。
土地の力を存分に活用する、これが宣長の力の源泉の一つであろう。
カチっと松坂 本居宣長の町|2022.11.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数