12月22日は冬至。夜が一番長い日です。易では、冬に入って陰がきわまり、冬至に至って、はじめて陽が生じることから、「一陽来復」ともいわれます。冬至を過ぎるとさらに厳しい寒さの季節を迎えるのですが、そんな中でも、昼は一日ごとに着実に長くなり、やがて必ず春が兆します。人の世の波をくぐっていくうちに、「一陽来復」は、希望と同時に大きな諦念を含んだ特別な言葉だと感じるようになりました。逆境にある人間を励ましてくれる言葉ですが、その底には無常観が広がっているでしょう。
寒く長い夜は、しみじみとした映画に浸りたいものです。できれば、あと味のからりと明るい……となれば、小津安二郎の作品はいかがでしょうか。亡くなって久しい今でも、クロサワと並んで世界的に評価の高い映画監督です。最近は、映画やドラマを1・5倍速や2倍速で見る人が多いそうですが、それでは小津作品は味わえません。「淑女は何を忘れたか」「晩春」「麦秋」「東京物語」「お早よう」など、多数ある作品のどれも、ぎょっ!とのけぞるような事件は起こらず、ちょっとした表情の変化や風景から心情が伝わり、人の悲しみや温かさが胸に沁みてくるような作品です。
小津作品を見たことがないという人も多い昨今。かくいう私も、初めて小津作品を見たのは、生誕100年を記念してさまざまな企画が盛んだった2003年ごろでした。明治36年(1903)に生まれ、昭和38年(1963)に亡くなった小津安二郎は、誕生日も命日も12月12日。来年は生誕120年、没後60年を数えます。
9歳の安二郎少年
(「小津安二郎松阪記念館」パンフレットより)
深川生まれの小津安二郎ですが、実は松阪っ子。9歳から19歳までを松阪で暮らしています。安二郎の父は、松阪の豪商である小津与右衛門家の分家・小津新七家の6代目で、安二郎が生まれた頃は、深川にある海産物・肥料問屋の支配人でした。母も三重の人です。「子どもの教育は田舎の方が良い」という父の考えから、母と子どもたちは故郷に帰り、父は東京と松阪を行き来しました。〝江戸店持ち松坂商人〟の家の文化がまだ残る中で育ったのです。
安二郎少年が書いた父への手紙
「小津安二郎松阪記念館」の展示から
飯南郡松阪町垣鼻(現・松阪市愛宕町)の家から、松阪第二尋常小学校へ通う安二郎少年は、絵が上手で成績優秀。豊かにのびのびと育ったようです。当時、この実家から400メートルほどの距離に「神楽座」という映画館があり、少年は映画のとりこになりました。後に「もし、この小屋がなかったら、僕は映画監督になっていなかったと思うんです」と述懐するほど、彼の映画人生の出発点となった映画館でした。
大正5年(1916)、安二郎は三重県立第四中学校(現宇治山田高校)に入学します。中学時代は、厳しい校風の中、学業に追われつつ、柔道や野球やボートなどスポーツに励みますが、心の大半を占めていたのはやはり、映画。あちこちの映画館に頻繁に出かけ、パンフレットを取り寄せるなど積極的に映画を知ろうとしています。パール・ホワイトというアメリカの女優さんがお気に入りで、英語のファンレターを出していたとか……
この頃の日記が一部残されていますが、城跡で友人と遊んだり、図書館(現在は「松阪市立歴史民俗博物館」となり、「小津安二郎松阪記念館」が併設されています)で昼寝をしたことなどが記され、ところどころに「かまふ(からかう)」「ちごた(違った)」「しなした(なさった)」など、松阪弁が使われているのがほほえましく感じられます。
兄(前列左端)や友人たちと安二郎(前列右端)
「小津安二郎松阪記念館」の展示から
大正10年(7921)、安二郎は中学を卒業しますが、上級学校の入試に失敗。一年浪人しても再び不合格となってしまいます。これは映画の道に進みたいための計画的な失敗だという見方もでていますが、このとき、いきさつは諸説あるものの、18歳の安二郎は宮前村(現松阪市飯高町宮前)にある小学校の代用教員になるのです。この山里での暮らしは一年という短いものでしたが、安二郎は子どもたちに鮮烈な記憶を残したようです。ローマ字や野球を教えたり、思いついた「うそ話」を語ったり、マンドリンを弾いたり、一緒に山に登ったり…… 子どもたちと心を通い合わせ、慕われました。後に、このときの教え子たちが中心になって「小津安二郎資料室」が開設され、現在も公開されています。
一年後、一家で深川に移り、安二郎は松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入社。第二次世界大戦(1939ー1945)の暗い時代を経て、安二郎は、世界的な映画監督になっていきます。
松阪で過ごした少年から青年への日々、安二郎は、さまざまな人や出来事に触れ、映画に惹かれ、生涯を通じて深く付き合った親友たちとも出会っています。それは、後の作品にも反映されていて、映画には日記に記されたエピソードと似た場面がいくつもあるようです。詳らかにされていませんが、初めての恋心にもこのまちで出会い、密かに映画の一場面に入れられているのかも知れません。また、小津作品には同窓会の場面がたびたび出てきますが、彼は多忙な合間を縫って、よく同窓会に顔を出していたそうです。昭和34年(1959)に友人に出したはがきには「無常迅速。もう一度中学生になり度いなあ」「会い度い 会い度い」と記されています。
中学のクラス会で
「小津安二郎松阪記念館」の展示から
安二郎にとって、松阪は懐かしい故郷でした。小津映画といえば、伝統とモダンが共存する独特な美意識がよく論じられますが、都会の洗練と、松阪ののんびりとした質実さが混じり合う中で成長した人なのだと考えれば、頷けるように思います。古風でありながら永遠に新しい、普遍的な感覚が底流にあるのでしょう。
松阪は小津安二郎の青春のまち。まだ何者でもなかった安二郎の、あこがれや夢や思春期ならではの鬱屈や、大切な人々との時間の端々が、まだ、そこここに散らばって、きらめいているような気がします。
「一陽来復」の思いを込めて、古くて新しい映画を――。
「松阪市立歴史民俗資料館」(1階)から「小津安二郎松阪記念館」(2階)への階段踊り場には、映画館の看板が再現されています。
「小津安二郎松阪記念館」の展示から
所在地 | 三重県松阪市殿町1539 (松阪市立歴史民俗資料館2階) |
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電話 | 0598-23-2381 |
「松阪市立歴史民俗資料館」
所在地 | 〒515-1502 松阪市飯高町宮前704−2 松阪市役所飯高地域振興局 飯高老人福祉センター内 |
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電話 | 0598-46-1315 (飯高老人福祉センター) |
※飯高老人福祉センターの改修工事に伴い、「小津安二郎資料室」は令和5年1月末日(予定)までの間、下記に移転しています。個人宅での展示のため、臨時休館等にご注意ください。 | |
移転先 | 松阪市飯高町宮前603-5 飯高オーヅ会初代会長 柳瀬才治様宅(岡本美夜様) |
ぷらっと松阪 不足案内|2022.12.15
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集