COLUMN

4,松坂の平和 

寒い冬の日、宣長たちが炬燵を話題に盛り上がったという所から、文化の推進力として輪になって語り合う場「円居」について前回は話した。
18世紀の末、宣長たちの頃の地球は寒冷期であった。そのことも関係したのかフランスでは革命が起こり、日本では浅間山の噴火や天明の大飢饉が続く。
そんな中でも松坂は比較的平穏だったようだ。

宣長は、伊勢国は気候は温暖だし食べるものは豊富で美味しいと自慢する。
今の三重県人も、食を自慢する。

2020年、奈良県コンベンションセンターと言う素晴らしい場所が出来た。
「円居」「集まる場所」は新しい文化の創出につながる。
そこを会場に、2022年12月、国連世界観光機関UNWTOの第7回ガストロノミーツーリズム世界フォーラムが開催された。
ガストロノミーツーリズムとは、聞き慣れぬ言葉だが、主催者の案内文には、

「その土地の気候風土が生んだ食材・習慣・伝統・歴史などから育まれた食を楽しみ、その土地の食文化に触れることを目的とした旅行」

とある。国内外の、上は観光大臣や国会議員に県知事、有名レストランのシェフ、観光関係者に研究者、さらには私のような有象無象も大勢も集った。


会場入り口風景


フォーラムロゴ

食と観光がテーマではあるが、このフォーラムは、三つ星レストラン廻りのような《美食の旅》推進のお祭りではない。食と観光を食料生産や流通などのバリューチェーン(価値連鎖)の中に位置づけようというダイナミックな試みである。
食材自慢の三重県や、観光都市として抜群の知名度を誇る京都でもなく、奈良というのが素晴らしい。地政学的にも素晴らしい選択か。

会場では食品ロス問題や、若者や女性の活躍の場の提供、持続可能であることなどが様々な課題が論じられた。
家の中では料理は女性が作り、外で活躍するシェフは多くが男性だとか、これは日本の発酵文化の専門家からの報告として、パンデミック下での生活様式の変化が思いがけない好影響を及ぼしたことなど、それぞれの問題は深刻だが、人が集まり、言語が飛び交うなかで、知恵も涌く。


箱一杯の伊勢海老やサザエが参宮客を迎える。「御師邸内図」(部分・本居宣長記念館蔵)

発言者と同時通訳の連射される言葉に戸惑いながら、私は本居宣長やその時代のことを考えていた。

江戸時代がすこぶるエコな時代であったことは言われて久しい。
三井高利の母・殊法は、同家では《商いの祖》と崇められるが、とにかく物を棄てない人であったというのは有名な話。
江戸では、盆の送りで海に流された大量の野菜で一山当てた人がいた。
曼珠沙華は救荒作物として植えられたのだという説もある。
食品ロスなどあろうはずもない。

さて宣長、23歳から5年半に及ぶ京都生活では、祇園界隈で愉快に遊び、豆腐や「生け簀」料理と『在京日記』は賑やかだが、帰京後は一転して遊興、外食記事が消えてしまう。花見や月見などエクスカーションは楽しむが、平素は外では食事はしない。

当時の松坂には料亭や飯屋がなかったわけではない。
宣長の門人・三井高蔭は三日に上げず青楼で食事をしているし、当時の随筆『宝暦咄し』ではうどん屋も多かったことが記される。

ところが宣長の記録からは外食記事は消える。
友達と一杯飲みに行くなど絶対にない。
ただ冠婚葬祭のおよばれはある。ごく稀だが、寒い日に往診に行った田舎屋で蕎麦掻きをごちそうになった位か。

宣長の日常や食事観については、また何れ取り上げたいが、その食卓に上がった諸国門人からの贈り物、例えば出雲の十六島(うっぷるい)海苔は、来訪した出雲大社の千家俊信の荷物の中に入れられていたのだろう。
美濃大垣の大矢重門から長良川の焼き鮎が、甲州の辻保順からブドウが、尾張の門人からは宮重大根となると、宅急便もなく地産地消を余儀なくされた時代、どのような手段で松坂の鈴屋に運ばれたのだろう。

つまり、物流の問題である。

また、食品ロスなどあろうはずもないと豪語したが、月に何匹もの鯛をもらうこともある。寒中見舞いならまだよいが、寛政8(1796)年には4月5日に南志摩から2匹、以後5月12日までに合計5匹もらった。当時の4月5月といえば初夏である。また寒中見舞いとなると卵も何十個と届く。よその家の台所の心配をしてもしょうがないが、冷蔵庫やフライパンもない時代、本居家ではどうやって保存し調理したのか。

有名シェフの、私の出発点はお袋の味だという話を聞いた。
母の子どもへの感化や女性の役割ということでは、三井高利、本居宣長、この本町出身の二人が思い浮かぶ。

日本文化史上に果たした二人の役割は、食事どころの話ではない。パラダイム転換である。
三井越後屋の成功の一つの要因は、新しい購買層としての女性の発見であろう。また紫式部を幻視するほどの『源氏物語』好き宣長は、「物のあはれを知る」で知られる女性の感性、それが日本の文化の根幹となっていると捉えた。

松坂の繁栄をもたらした「木綿」。「松坂嶋」は女性の努力とセンスによって上物として市場に広まった。
「嶋毛(木)綿は松坂の女業なり」『松坂権輿雑集』
この言葉に象徴されるように女が家庭だけでなく地域経済を支えた。


松阪木綿手織りセンター

また紀州藩の飛び地という武士の論理が通用しにくい土地柄であったことも、女性には好都合であったか。

フォーラム会場で談笑する女性たちを見て、《集まる場》のことを考えた。
最初の話に戻るが、江戸期の女たちには「円居」、つまり同じ趣味を持つ仲間と集まる場所はあったのだろうか。
茶道や香道も、当時は男性の専有物だった。和歌会も、慶賀の会では女性も参加するが、普段は男ばかりである。

江戸の下町、長屋では共同井戸を囲んでの井戸端会議もあったであろう。

では松坂の町では女性たちが集う機会があったか。
彼女たちがそのような《場》を手に入れるのは、遙かに後年のことではなかったか。

《女性の居場所》、史料は乏しいのだが、三井高利や本居宣長を生んだ《松坂》を考える上では、これは大事な視座であろう。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.01.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数