《丸くなって座る》、ここに松阪の原動力がある、という話をしてみたい。
堀口さんの「ぷらっと松坂 不足案内」第2回は松阪牛、「すき焼き」の話だった。本稿もそこから話を始めよう。
写真は、昭和30年代、松阪のとある店の座敷である。
『松阪』松阪市編・昭和38年刊
外国の人たちが円卓を囲んでお箸を使い、「これって本当に牛肉っ?」と不思議そうに、スキヤキをを召し上がっている。とろけるような柔らかさは、牛肉の本場の人たちにカルチャーショックを与えた。
1950(昭和25)年、コラムニスト・高田保が松阪で講演をした。
「松阪の牛肉は有名である。私もそれをその地で味わったことがあるが、その晩の講演会の壇上で私は本心からいったものだ。
――牛肉をうまくすることも文化である。
この町の誇りは本居宣長だけではない」
(『第三ブラリひょうたん』創元文庫)
と述べた。この予言?は的中。宣長と牛肉は、戦後松阪の観光の二枚看板となっていく。
食事はみんなで丸くなって食べると美味しいものだが、丹誠込めた肉をもっと美味しく食べてもらおうと、松阪の牛肉店は知恵を絞り、磨き上げた「円卓」と仲居さんの手際の良さで味を一層引き立てた。
すき焼きの円卓を囲む人たちで、この町は賑わった。
さて「松阪牛」は明治以降だから「阜部(こざとへん)」の「阪」となる。
第1回目で、堀口さんは、
「松坂は明治時代に「松阪」に改められましたが、城の名前は今も「松坂城」とされています」(「ぷらっと松坂 不足案内」第1回)
と書くように、歴史にちょっと関心のある人たちは、「坂」と「阪」を使い分けて、明治以降が「松阪」で、それ以前は「松坂」だと言う。
例外もある。宣長の「伊勢国」という随筆には「松阪」と書かれている。
「漢字は借りものだ」
という考えでわざと表記を改めたとも考えられ無くもないが、きっと表記はあまり厳密ではなかったのだろう。
私が「松坂」と書くのは、もう少し意識的というか感傷的である。この町の「ベル・エポック」であった18世紀と、その前後の時代へのオマージュなのだ。
17世紀、新興都市・松坂は紀州藩の飛び地となり、やがて天守閣も大風とともに去り、肥沃なこの土地の産物は江戸へと運ばれ、江戸店持ち商人の町は空前の繁栄を遂げる。
18世紀、金が金を生む時代も昔語りとなり、名だたる商家も三代目。小資本は大資本に吸収されていくが、そんな時代になってようやく文化の花が開く。
「よき時代(Belle Epoque)」の到来である。
19世紀、やがて文化は爛熟し、社会は動乱期へと移っていく。
総じて、「松坂」と書かれた時代のこの町は元気だった。
その源は、やはり《丸くなって座る》、つまり「円居」であった。
武士に代わって町の主導権を握る町人たち。武家と町人の大きな違いは、侍が「主従」と言われる縦の関係に重きを置くのに対して、町人は横につながるというところにある。
この縦と横の関係というのがなかなか面白い。
例えば「国学」という学問がある。宣長は「学統」ということを重視する。私の学問は、難波の僧・契沖に始まり、賀茂真淵を経て、という学問の系譜を語ることで、自らの正統性を強調する。しかしそれが原因で、宣長の没後の門人という、不思議なものまで誕生するのだが、それは兎も角、一方で宣長は、縦関係をも否定するような、横の関係、例えば同じ研究テーマや関心を持つ人たちとのつながりを重視する。そしてこれが宣長の学問を飛躍的に発展させるのだが、この話は何れまた。
人が横につながると面白いことがおこる。
師弟や先輩と後輩という縦関係はどうも堅苦しいが、同級生や仲間となると話も弾む。
写真は「鈴屋円居の図」。黒い羽織が宣長で、風折れ烏帽子に狩衣という貴族のような衣を着るのは友人たち。僧侶もいる。正月の歌会風景であろうか。
「鈴屋円居の図」(本居宣長記念館所蔵)
「円居(まとい)」は、文字通り、輪になって座ること。サークルだ。もちろんリーダーはいるが、会の進行は持ち回りということが多い。
例えば茶道。わび茶の大元は千利休で、その流れを汲む宗匠が中心にグループ(社中)は構成される。だが、茶会では時に主客は転倒し、弟子は亭主となり、宗匠は客となる。基本理念は、「一座建立」である。
俳諧や和歌、香道、漢詩など実に様々の会、つまり円居がこの町では開かれていた。定例会もあれば、『古事記伝』が書き終わった祝賀の雅会のような臨時の会もある。
「古事記伝書き終へぬる歓びの円居して」(宣長「古事記伝終業慶賀歌」詞書)だ。
学問色の濃い『源氏物語』や、漢籍の『春秋左氏伝』の読書会では、歌を詠んだり俳諧を楽しむような調子には行かず、指導者の存在が重くなっては来る。しかしそこにも「円居」の精神とも云うべきもの、師弟であるよりもまず同じ趣味を持つ仲間という気分が横溢していた。
そろそろ木枯らしが吹き温暖な伊勢の地も寒くなる季節だが、師走のある日、宣長とその仲間は、「寒くなってきたね」と言いながら雅談に興じていた。一人が宣長に問うた。和歌は雅なもので「埋み火」の歌は多いが、では「こたつ」は歌になるか。普通、炬燵は冬の季語で俳諧の世界だが、さすが宣長、たちどころに一首の歌を詠んだ。
蒸し衾(むしぶすま) なごやが下の 埋火に 足さしのべて 寝(ぬ)らくしよしも
皆は感心し、笑いながら話は別のことに転じていった。
この宣長の歌は、『万葉集』巻4の、京職藤原太夫が大伴郎女(いらつめ)に贈ったちょっとエロチックな歌を本歌とする。
蒸し衾 なごやが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも
暖かい布団にくるまって寝ても、あなたと一緒じゃないので寒いですよという世界を、暖かい布団の下に埋火を入れて、炬燵とし、和やかに皆で脚を差し入れて眠ったら、どんなにか気持ちがよいことか、と転じたのである。連中が笑えたのは、もちろん『万葉集』の本歌を知っていたからだ。
なんだ、性もないと思われるかもしれないが、これも、いやこれこそが古典の楽しみ方であろう。生活の中にまで浸透しているのである。一人笑いをしながら読むのより、こちらの方が学問に近いかもしれない。いや学問に近かろうが遠かろうが、関係ない。楽しいのが一番である。
本居宣長の学問は、こんな円居の知的で暖かい雰囲気の中で育くまれていったのである。
よい町、時代であったと思う。
この時は、どこか家の座敷で集まったのだろうが、円居でよく使われたのは、お寺であった。
松坂は、人口約1万人という町の規模の割に大きなお寺が多かった。
近鉄やJRで大阪、名古屋方面から松阪に来てまず眼に入るのが岡寺山継松寺、養泉寺、清光寺など寺の甍。松坂には大きな寺が多い。そこには塔頭、つまり脇寺があり檀家の世話や取り次ぎをする。そこは遊行の画家や俳諧師、歌人などの宿所ともなり、また円居の会場ともなっていたのだが、さて宣長の生まれた次の年、1731(享保16)年、樹敬寺の塔頭・嶺松院で歌会が発足した。集まったのは商家の主人や僧侶など10名。内、宣長の縁戚者(私の家は松坂では有力商人の一軒だった、と宣長自身が言っている)が4名。この会が、後には嶺松院歌会と呼ばれ、78年間も続いていくことになる。
長寿だけが取り柄ではない。内実が伴っている。この会が、宣長を学者として育てたのだと言っても過言ではない。
先走って言うが、京都での医術修行を終えて、また本場の和歌も習って意気揚々と故郷に錦を飾ったか、その辺りは解らないが、取り敢えず松坂に帰った宣長は、半年後、この歌会に初めて出席する。29歳の時である。
会に集う地元和歌の大先輩たちを前に、歌を詠むにはまず『源氏物語』を知らねばならぬ等と説いたのだろう。宣長は『源氏』にはいささか自負する所もあったか、会員を相手に、宣長の『源氏物語』講釈が開始される。これが40年に及ぶ宣長の古典講釈の最初である。
この様に、共通の話題を持つ人たちが、例えば嶺松院歌会なら月二回、午後の時間を過ごすことで、そこから実にいろいろなものが生まれてくる。
春や秋は桜や紅葉を眺めながら歌を詠もうとエクスカーション。詠んで互いの歌を選評するだけではつまらぬと「新古歌合」という一種のゲーム。楽しみながらレベルアップしていく。この様な中から新しい物や流れが生まれてくるのである。
和歌から『源氏物語』読書会へ、「円居」は言えば宴である。そこに集まる人たちは一期一会とその時間を大切にし楽しむのだが、その中でより高見を目指し、時には都から師を招き切磋琢磨する。そうして各個人の心や、目標を見失わなかったところが、「松坂」の円居であった。
カチっと松坂 本居宣長の町|2022.12.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数