COLUMN

5,春は初午さんの賑わいに乗って…
原田二郎翁とねじりおこし

初午大祭の継松寺(写真提供 松阪観光協会)
岡寺山継松寺 三重県松阪市中町1952
https://www.okadera.com/
令和5年3月4日(土)5日(日)二日間のご祈祷は、8:00~20:00の予定

松阪に春を呼ぶ

初午といえば、全国的には二月初めの午の日に催されるお稲荷さんのお祭ですが、松阪では3月初めの午の日(現在は土・日曜日)に行われる岡寺山 継松寺の観音さまの大祭です。
継松寺は、天平15年(743)に聖武天皇の勅願により行基が建てたという古刹。聖武天皇が、42歳の厄年にここのご本尊・如意輪観世音菩薩を宮中にお奉りして祈願した後、再び継松寺に安置したことから、日本で最初の厄除観音の霊場とされています。
遠方からもたくさんの人が参詣に来られますが、松阪では、厄年の中でも19歳を迎える娘さん達が晴れ着でお詣りするのが恒例で、毎年、参道には華やかな振り袖姿が多く見られます。厄をはじく「さるはじき」の玩具や「ねじりおこし」のお菓子が縁起物として露店に並ぶのも、昔ながらの初午さんの光景。厄年の人がハンカチなどを落としていくという風習もありました。厄も一緒に落とすといいます。子どもの頃、初午参りに出かけるときには、いつも母から「落とし物、拾たらあかんに」と注意されたものです。

かなしさを抱いた偉人

今から13年前、平成22年(2010)の3月、殿町にある原田二郎翁の旧宅が松阪市指定有形文化財になりました。こんなにも時代にさきがけて社会福祉の精神を持ち、優れた能力で社会的成功をおさめながら、その財産をすっぱりとすべて社会に還元した人は、世の偉人といわれる中にもあまりいないだろうと思うのですが、残念なことに彼のことは地元でもあまり知られていません。悲しみや孤独を乗り越え、並外れた計算能力を駆使して、弱い人々を救おうとした、本当に偉い人なのです。


原田二郎旧宅内部
床の間には二郎の短歌「ますらをの真心こめて一筋に思ひいる矢のとほらざらめや」の軸が――。

同心から銀行頭取へ

原田二郎は、嘉永2(1849)年、松阪の同心町(現・松阪市殿町)に生まれました。町名の通り、父の清一郎は紀州和歌山藩の松坂奉行所に勤める同心。質実剛健を旨とし、幼少期から「天下の富は私すべきではない」と諭されて育ったということです。松坂学問所では優秀によって藩から褒賞を受け、幕末の動乱の中、慶應元年(1865)、数え年17歳(以下年齢は数え年)で藩に奉職しますが、20歳のとき明治維新を迎え、勤王家・世古延世に随行して京都へ行き、廃藩置県の実施された明治4年(1871)に、東京に出て英語や洋学を学びます。このとき、次郎は、人力車などのレンタル業を行って、自分や仲間たちの学費や生活費を賄ったということです。
27歳で大蔵省に入ってから、二郎は異例の出世を遂げます。31歳で横濱第七十四国立銀行の頭取に就任し、この年に妻・節枝ときえを迎えます。翌年には、東港銀行の創設副頭取、東京貯蓄銀行頭取なども務め、銀行家として力量を発揮しますが、その翌年、33歳の二郎は役職を辞して帰郷します。〝反原田派〟というような人々による中傷が理由だったようです。
松坂での二郎は、海運会社に関わるなどはしていますが、農業をしたり、義太夫に凝ったり、罫紙28枚にも及ぶ「四十年間見積書」という細やかな蓄財の計算書を作るなどして、のんびりと暮らしました。39歳で再び東京に居を移してからも、体調を崩して療養が必要だったこともあり、中央財界の要職への誘いを断り、歌人・佐々木弘綱に師事して和歌に親むなど、静かな日々をおくりました。


原田二郎翁(写真提供 松阪歴史文化舎)

社会福祉財団を設立し全財産を寄付

明治32年(1899)、51歳で財界に復帰した二郎は、鴻池銀行(後の三和銀行)に入り、政治家・井上馨の要請により鴻池家の財政を立て直すための改革に辣腕を振るいます。並行して韓国銀行設立委員などを歴任し、桂内閣に公債償還基金制度を献策して容れられるなど、経済界で重みを増してゆく二郎でしたが、その最中さなか、明治37(1904)年には父を、翌年に母を、更にその翌年には妻を亡くします。子もなく孤独となった二郎は、その後も大隈内閣の成立に尽力するなど要職を重ねながら、戦争や天災で困窮する人々に何度も多額の寄付をしています。
64歳で再婚した妻・栄子とも6年後には永別し、この年、二郎は鴻池家の監督を大隈重信に譲り、翌年には全てを辞して、社会福祉の財団創設に向けて動きはじめます。大正9年(1920)、財産1020万円(現在の約150億円に相当)を全て寄付し、これを基金として原田積善会を設立しました。時の首相・原敬はらたかしは二郎の思いに感じ、申請から10日余りという異例の速さで許可を発したということです。

原田積善会

原田二郎旧宅

子どもや有意の若者に学問の機会を与え、弱者を救う社会のセーフティーネットをつくるために、日本学士院への寄付、病院や障害者施設の建設、学校給食の実施など、原田積善会活動は多岐にわたったものでした。約10年間、二郎はこの会の運営に当たり、昭和5(1930)年、82歳で永眠しました。
二郎は生前、資金を運用してその利益を福祉に用いるための試算「長期複利補給人員積算書」をつくりました。電卓もない時代に、3500年先までの計算をしています。そして、原田積善会はこの精神に添って資金運用がなされ、今も公益財団法人として東京都世田谷区に本部を置き、幅広い活動を続けています。

原田二郎の旧宅は、継松寺から数百メートルの距離です。親孝行で質実で、自身の〝本城〟として松坂を愛した二郎。彼も故郷にいたときは、初午には継松寺にお参りしたでしょう。ねじりおこしは二郎の幼少期にも売っていたのだろうか、現実主義で計算に秀でたこの人も、幼い頃には両親からねじりおこしを買ってもらったりしたのだろうか――と、ふと思います。
今年は、久しぶりにねじりおこしを食べたくなりました。
初午には松阪の町が華やぎます。春の兆しを楽しみながら、初午さんのお詣りを終えたら、ねじりおこしを買って、原田二郎旧宅まで脚をのばしてみませんか。

原田二郎旧宅は、二郎が生まれた頃に建てられた武家屋敷で、二階は二郎が銀行頭取を辞して帰郷した際に、書斎として造築したもの。2009年に原田積善会から松阪市に寄贈され、有形文化財に指定、復元整備が行われました。
現在は、松阪歴史文化舎により管理・運営され、一般公開されています。
所:松阪市殿町1290番地
お問い合わせ:松阪歴史文化舎
http://matsusaka-rekibun.com/

ぷらっと松阪 不足案内2023.02.15

プロフィール

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集