COLUMN

5,男の円居・女のサロン

江戸時代の松坂で、女性が集う場はあったのか。
機会がなかったわけではない。たとえば冠婚葬祭。余りに頻繁なので質素というか慎ましやかではあったがなにしろ回数が多い。客を迎えるのは嫁にとっては苦痛だが、貴重な文化継承、情報交換の場ではあった。
ただ、前回述べたような「文化の牽引力」としての「円居」とは、少し品下がる感じだ。
洗練された趣味や教養をもって女が集い、素晴らしい文化の創造者となったといえば、紫式部や清少納言の活躍した平安時代の宮廷だが、実はそれが江戸時代に、ほんの僅かな間、また限られた人たちの中ではあったが、そんな素晴らしい空間が現れたことがあった。「円居」というよりこれはサロンといった方がよいかもしれない。
場所は江戸である。だが松坂、また宣長ともまんざら無縁の話ではない。

1741年9月、紀州徳川家江戸中屋敷は華やいでいた。
藩主の長子・宗将(むねのぶ)が、伏見宮貞建親王の養女・富宮徳子を室に迎えたのである。富宮の周りを才色兼備の侍女達が取り巻いた。
その彼女たちがあげて物学びと詠歌の師と仰いだのが、気鋭の和学者・賀茂真淵であった。真淵は女性の門人を慈しみ、それぞれに「きよいこ(清子)」、「もみこ(紅子)」、「みほ子」などと雅名を与えて、花見や紅葉狩り、夏は隅田川に船を浮かべては楽を奏し、歌を詠み、盃を巡らせた。
雪の日には女友達での歌の贈答も忘れぬが、女姓達は火桶の傍らで歌を詠まれるが、寒さに震えながら待つ従者の侘びしさに同情する笑い話も残っている。

彼女たちのサロンでは、時に男女や身分の隔てもなく、人々は和やかに歌を贈答し、知的な会話を楽しんだのだ。その中で、若く美しく、そして和歌に和文にひときわ抜きん出ていたのが油谷倭文子(あぶらたに しずこ)であった。江戸京橋弓町の富商・伊勢屋の娘である。
この名字を聞き、あれっと思われた人はきっと松阪の人だろう。
油谷家が出たのは松坂近郊、上蛸路村。今も油谷姓は残るが、残念ながら、倭文子の出た家との関係はわからない。
写真は、今年正月の上蛸路風景。地名は、昔この辺りで蛸が捕れたことに因むというのだが、山間の静かな集落である。


正月の上蛸路(かみたこじ)

上蛸路村は中世からの歴史もあり、鋳物師の里として知られている。
伊勢神宮宇治橋の擬宝珠や、近郊の寺院の梵鐘などにも「蛸路村」の名が刻されている。倭文子の家は、この山里から商人として江戸に出て成功を収めたのである。
隣の下蛸路村の堀口家も、江戸で活躍した商家で、主人・光重は宣長の熱心な門人であった。茸狩りに宣長を招いたこともある。上蛸路の低い山の向こうは、宣長の奥墓のある山室山。妙楽寺がある。
妙楽寺の梵鐘にも、「大工職鋳物師、同国蛸路之住、常保河内藤原清次作、宝暦【十一辛巳】九月吉日」と、上蛸路の鋳物師の名前と制作年月日が記されている。なお、そこに刻まれた寄進者の中には、
「村田氏先祖代々光ヨ忍室元寿法尼」
の名も見える。元寿は本居宣長の外祖母。元寿は松坂新町村田孫兵衛豊商(元固)の妻。父は松坂西町一丁目の荒木太右衛門単誉信入。いとこには書家の是水(誰)、松坂の歌人荒木山三郎定道松亭がいる。
元寿尼も宣長にとっては重要な人だが、そうでなくても話が錯綜してきたので、ここでは、「松坂の話はみなどこかでつながる可能性がある」と言うところで切り上げておく。
狭い場所、世界の話なのだ。

倭文子は1733年の生まれ。早くから真淵の下で学び、雅やかなこの名前も真淵の命名である。


「倭文(子)」の署名

15歳で大名家に行儀見習に行き、18歳で家に戻り、間もなく母と上州伊香保温泉に遊ぶ。その時の紀行文「伊香保の道ゆきぶり」は、師の添削はあるものの流麗な和文として今も高く評価されている。また、やはり真淵の高弟であった加藤宇万伎とのロマンスもあった。美人薄命というが、わずか二十歳でこの世を去る。早すぎる死に、家族はもとより真淵や他の門弟たちも悲嘆にくれたという。墓は江戸深川本誓寺。宣長の父、また多くの伊勢商人が眠る寺である。墓碑は真淵が書いたが、関東大震災や東京大空襲で酷くいたんでいるという。
『文布(あやぬの)』は、同門の村田春道編。倭文子の作品に、真淵の追悼歌などを集める。序文は上田秋成。再販もされた。広く読まれたのだろう。
写真の版本には、文字の訂正や真淵の追悼文が二つ挟み込まれるなど、再刊に関わった人が手元に置いていた本の可能性がある。


『文布』表紙

さて、才媛・倭子と真淵門下で仲良くしたみほ子は、やがて七代藩主となった宗将(むねのぶ)の寵愛を受け、重倫を生み、御部屋八重の方と呼ばれ、また重倫が八代藩主となってからは清信院と呼ばれることになる。その孫が、十代藩主徳川治宝(はるとみ)である。
松坂で医者をしながら『古事記伝』を執筆していた宣長に、突然、紀州藩から仕官の話が来たのが1792年、63歳の年末であった。
その二年後、宣長は和歌山に赴き、藩主治宝の御前で講義を行うことになる。

この宣長の和歌山来訪を心待ちにしていたのが清信院様であった。
お住いの吹上御殿に宣長を招き、孫の姫君と共に、宣長の『源氏物語』講釈を拝聴する。
老人は寒かろうと、宣長の左右と背後の三方に大きな鬼面火鉢が用意されたという。この年宣長65歳。清信院様は77歳である。
また、講釈の際も手は畳に付かなくともよい、鈴屋衣の着用を許す、眼鏡も御免という厚遇であった。料理は二汁七菜、干菓子に餅菓子、お土産は和歌浦の松で造った短冊箱と、まさに至れり尽くせりである。


清信院様でのおもてなしを報告した大平の手紙


清信院様から拝領の短冊箱
(保存のため、現在は非公開)

それにも増して宣長を喜ばせたのが、師・賀茂真淵の思い出話であった。
親しく真淵先生と交わり、その講釈を聞き、指導を受けたことは清信院様にとっては若き日の美しく楽しい思い出であった。一方、僅か一夜だけの出会いではあったが故に、師への感謝の思いが研究の進展と共に深まっていった宣長。
二人の話は尽きることがなかった。
その後も再び招かれ、さらに『伊勢物語』についてのご下問のあったことも、質疑応答大好きの宣長を喜ばせた。

宣長を招いたのは、ひょっとしたら治宝侯からの御祖母様へのプレゼントだったのかもしれないが、善行はやがて自分に戻ってくるものだ。
清信院様と姫君は、宣長の『源氏物語』講釈に満足し、「宣長の『源氏』講釈は最高よ」と殿に伝えた、そんなことはないだろうが、やがて殿の耳に入り、藩主も、また重臣たちも、今度は『源氏物語』と、その講釈を聞き、素晴らしさに歎息するのである。

紀州徳川家の富宮様のサロンに集った女性たちと真淵の交流は、ほぼ半世紀の時を隔て、宣長を和歌山へと呼び寄せたのである。
端倪すべからざるは、女性の力である。

おまけの話だが、富宮様が紀州徳川家に入られた影響は、子どもだった宣長にまで及んだ。祖父が付けてくれた「富之助」の名前は、憚り多いと「弥四郎」と改めさせられたのである。
「八月俗名ヲ弥四郎ト改ム。【富之字憚ル所有ルニ因リテ也、紀州富ノ宮御方】」(「宣長日記」原漢文)
この年、宣長11歳。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.02.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数