豪商の町を標榜する松阪、と言って今に豪商が軒を並べるわけではない。江戸時代、つまり「松坂」時代の話である。
その頃の松坂の町を闊歩していた人たちの顔といえば、皆さんはどんなものを思い浮かべられるだろう。
例えば三井高利夫妻像であるとか、また「鈴屋円居図」、本居宣長像など、この連載でも既にいくつか紹介しているが、おさらいのために一番よく知られた「宣長」の顔を載せておこう。
この自画像は、長女のひださんによれば、いくつか有る宣長像の中で一番よく似ているそうだ。
この評価については、何れまた考えてみたい。
この宣長像は、若い頃には遊びもしたが、28歳、京都から帰り医者を開業してからは、専心努力医業と学問を続けた顔である。
といって、そんなにストイックにも見えないのは、宣長の楽天的思考と、おちょぼ口かなと見える小さめの口の所為か。
口の小ささについては、ある歯科技工士が、これは入れ歯装着前の顔ですよと話されたが、それについては何れ触れることになるであろう。
「本居宣長六十一歳自画自賛像」(部分)本居宣長記念館
謹厳な顔の師匠の次はその弟子。いかにも松坂商人だと思う姿をご紹介しよう。
『犬夷評判記』の口絵(部分)個人蔵
出典:『本居宣長展』(三重県立美術館)
床の間を背にキセルを持ち座るのは殿村安守。号は篠。松坂中町の豪商で、宣長晩年の《高弟》にして、《エピキュリアン》だ。
片脇、また奥にも本箱が置かれ、悠揚迫らぬ姿。いかにもご大家の主人である。
床の掛軸をよく御覧いただきたい。上は切れているが、
「のふの花園も」と「ふる郷、宣長」
と判読できる。宣長の和歌のようだ。調べてみると、「故郷落花」の題で詠まれた、
散ぬれば 春のきのふの 花園も 同じ昔の 志賀のふる里
という歌である。わざわざ掛けるのは、私は宣長の門人ですという表明であろう。
安守の家の床の間では、郷土史家の桜井祐吉が伝えている話がある。
「松阪の上層の家々の慶事には座敷の掛軸は狩野派か土佐派又は唐画を用いたが、彼はそれに泥まず応挙のものなどを麗々と使用したとか、また慶事には台所に倹約無用などいふ貼紙を出したとかいふ逸話がある。しきたりや家風や慣行に対する無頓着は仲間内の指弾をうけて遂に故郷を出でて和歌山行を余儀なくされたといふことである」柱の聯(細い板)には、
「楽無極」
楽しみには極まりが無いという、いかにも安守らしい人生観の表明である。
もう一人、本を手にしている男は、魚の絵柄の着物で、安守縁者で戯作者の櫟亭琴魚と知れる。
前でもみ手をしてヘラヘラ笑っているのは、本屋の主人か。
実はこの絵には、左側にもう半面があり、そこには草子を読む遊女二人と彼女らを背に頭巾をかぶり眼鏡を掛ける老人が描かれる。
老人の手には本、口には笑みを浮かべている。曲亭馬琴だろう。読んでいるのは安守から届いた批評か。ヤレ見方が悪いの、読み損なっているとか、安守評のアラを見つけてほくそ笑んでいるのかもしれぬ。
なぜ私はそんな底意地の悪いことを思うのか。
次に引くのは、いささか長文だが『随筆滝澤馬琴』の一節である。なかなか面白い。作者は真山青果で、情報源は江戸文学者・藤井乙男の言葉だとある。
(伊勢の殿村篠斎は馬琴第一の愛読者で、馬琴の新著が出るたびに飛脚便にて真先に書籍を江戸から取寄せ、詳細なる批評を著者に書送るのが例になつてゐた。馬琴もそれを甚だ心待ちにして、失明後も、始終お路に書面を認めさせて批評を催促してゐた・・・篠斎の批評に対して一々反駁の態度を示したのは乃ち馬琴の馬琴たる所以で、いつもやかましく批評を督促しながら、それが来ると、ヤレ見方がわるいの、ソレ作者の本意がわからぬのと小言を並べ立てる。よくよく参つた時で、“近頃は御評大分御上達”といふやうな御挨拶。篠斎も再三の往復に草臥れて、“屈服屈服”と手短く切り上げようとすると、これはけしからぬ、一体屈服と云ふ文字は、心中には不服でも、相手の威力に圧迫されて已むを得ず服従する意味である。親友の間に屈服といふやうな事はあるべきでない。どこまでも来い。どこまでも御相手仕らうといふのであるから、大抵の者は引下がらざるを得ない」
「お路」は長男宗伯の嫁で、失明した義父を代筆、代読で助けた。
親しい友と呼べるのは日本中探しても僅か数名だという性格の難しい馬琴と親しく交わった安守は包容力がある人だというより、惚れ込んだ相手にはとことん入れ込む癖があった。「人に淫する」のである。惚れた相手のその一人が宣長であり、春庭、そして馬琴であった。
改めて安守のプロフィールを見ておこう。
松坂中町の人。安永8年(1779)~弘化4年(1847)7月1日。享年69歳。
寛政6年(1794)16歳で宣長(65歳)に入門した。翌年、江戸店持ちの木綿商と両替商で営む殿村家の本家を嗣ぐ。本姓は大神。通称は佐五平。号は三枝園、篠斎。やはり宣長の門人であった常久は、同い年の異母弟である。宣長初期の門人・殿村道応と寿元は曾祖父母。一族には『古事記伝』をこつこつ抜き書きしていった浄玄や、戯作者・櫟亭琴魚がいる。
宣長の晩年の弟子として講釈や歌会に参加し、『古事記頒題歌集』の編集で師を助け、『歴朝詔詞解』の序文を執筆。また失明した春庭と松坂本居家の後見役を立派に務めた。
また、戯作者・曲亭馬琴の優れた読者として、その信頼篤く、『南総里見八犬伝』と『朝夷巡島記』を批評した『犬夷評判記』や、馬琴との「評答集」は文芸批評の先駆的なものとして評価されている。
筆跡にも強い自己主張がある。古道具屋で安守の字を見つけるのは存外簡単だ。
そんな偏屈な安守を、輪を掛けて偏屈な馬琴が紹介した書簡が残っている。
「(安守は)近頃隠居いたし佐六と改名いたし、紀州和歌山へ退隠いたしかの地に罷在り、号をも篠斎と改候」
安守が隠居して和歌山に住んだという。
「全体本居宣長弟子にて、和学者に御座候へ共、性として和漢の小説をよみ、本をこのみ多く蔵弄いたし候故」
宣長門人ではあるが、それだけではない。日本や中国の小説をよく読み、しかも蔵書家である。
「見巧者にて評判も此ものゝ評よろしく御座候」
安守は、「見巧者」だ。
「見巧者」とは、芝居などを見慣れた人のことを言うが、安守は小説と人を見る眼を兼ね備えていたので、ぴったりの言葉である。さすが馬琴だ。だがそれでは終わらない。
「さりながら一癖ある男子にて、とかく人をほめてのみおかぬ癖ありて槍を出したがり 候」
「一癖有る男」、ここでは誉め言葉と取っておこう。見巧者で独自な視点を持っていて良いところも見逃さないが、ただそれでは終わらない。一言有る。
「才物に御座候、歌も上手にてよきうた折々聞え候也」
総じて才能ある人で、また歌も巧みで見せてくれる中には佳吟も折々交じっている。
安守の「愛」の表現は実にユニークで、例えば宣長の場合、鴨川井特という絵師を京都から招き最晩年の師の姿を描かせ、宣長の養子・大平に師の学問系譜「恩頼図」を作成させたりする。そのお蔭で、宣長像はより立体的、生き生きとしたものとなった。
安守については、鴨川井特の「宣長七十二歳像」や「恩頼図」でまた触れることもあるだろう。
この安守について、「本居学の臭気が漂う」とほざいた奴がいる。やはり松坂の豪商の小津久足だ。
今年の正月、その久足の伝記が出版された。一読三嘆。豪商の町松坂を語る上で必読書で、松坂の宣長について考える上で示唆に富む。
著者の菱岡憲司さんは新進気鋭の研究者。まさに後生畏るべしだ。
古くさいことをほじくり返しているような「歴史研究」に於いても、研究は日進月歩なのである。
ところで話は、前回の油谷倭文子にもどるが、賀茂真淵の秘蔵っ子の倭文子の家は、江戸店持ち伊勢商人。出は松坂近郊の上蛸路村で、今も油谷姓の家は残る。稀少な名字なので、倭文子の家と何か関わる所もあるかと思われるが、最早その伝承も途絶えているというお話をした。覚えておられるだろうか。
さて、これがHPに載ってしばらくして、地元の篤実な方から、真生寺の過去帳に記載されている女性ではないかと連絡をいただいた。複写を拝見し、命日などを確認したが間違いないようだ。天台宗真盛派・真生寺は、「上蛸路の正月風景」として先月の記事に写真を載せたお寺である。ああ倭文子は、江戸深川の本誓寺だけでなく、父祖の地である上蛸路でも、両親と手厚く弔われていたのだと私は安堵した。
このHPが契機となり、これからは真生寺とその檀家の間では、美しく才豊かであった倭文子の名前は語り継がれるであろう。
調べて、書いて、発信することが繰り返されて、「歴史」は新しいページを紡いでゆく。
カチっと松坂 本居宣長の町|2023.03.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数