水路沿いに約300本の並木が続く河津桜ロード(松阪市笠松町)。
ソメイヨシノや山桜より一足早く爛漫をむかえます。(写真提供 松阪観光協会)
春になり、もう桜が咲くだろうかとふくらんできた蕾を見上げるのは、心弾むひとときです。やがて爛漫を迎え、ほどなく花吹雪となって消えます。〝春愁〟などといいますが、春の憂いにとらえられがちなのはそんな時季でしょうか。
風さそふ 花のゆくへは 知らねども 惜しむ心は 身にとまりけり
西行の花を惜しむ心は重かったのでしょう。
水に浮かぶ花びらを花筏とよびます。小さな花びらの舟に乗せて、憂う心も流してしまえればいいのですが――。
日本人は、古くから、魂を船に乗せて送るというイメージを持っていたようです。今でもお盆の精霊舟などにそのなごりが見られますが、松阪市宝塚町にある宝塚1号墳から発掘された船形(ふねがた)はにわは、その古い証しです。
宝塚1号墳は、全長111メートルの前方後円墳。北側のくびれ附近に、祭祀を行う四角い出島のような〝造り出し〟があり、その周囲にたくさんのはにわが見つかりました。船形はにわもその一つで、長さが1・4メートルという大きなもの。丸木をくりぬいて造った船底に舷側板を付けた〝準構造船〟といわれる形をしていて、たくさんの装飾が付けられています。船形のはにわは、全国で40ほど発掘されているそうですが、その中の最大規模であり、装飾のある船形はにわは他にはないそうです。この船に、古墳の主である王の魂が乗り、この世からどこか異世界・魂の帰るべき国へ行くと、古代の人々は考えたのでしょう。
船形はにわ(松阪市教育委員会所蔵)
ほぼ完全な形で復元されています。
(松阪市のHP より)
宝塚1号墳に再現されている祭祀場の〝造り出し〟。
家形や盾形などさまざまなはにわが再現され、出土した位置に置かれています。
船形はにわはこの入口付近に置かれていました。
宝塚1号墳は、5世紀はじめごろ造られた、この地方の王の墓陵だと考えられています。堺市にある巨大な前方後円墳・第16代仁德天皇陵といわれる大山(だいせん)古墳も、造られたのは5世紀前期から中期で、ほぼ同じ時代です。
仁德天皇は、大雀命(おおさざきのみこと)として、『古事記』『日本書紀』に多くの逸話を残しています。物語が神々の伝承から人の歴史へと移ろっていく時代を背景に、力強くエネルギッシュでありながら茫茫とした、不思議なお話が続いていて惹かれます。その『古事記』の中、仁德天皇の御代に、気になる船の記述があるのです。
河内国(今の大阪府)、兔寸河(とのきがわ)のほとりに一本の大樹があり、その影は、朝日が当たれば淡路島に達し、夕日が射せば河内国の高安山を越えるほどの高さであったといいます。この木を伐って、船を造りました。「枯野(からの)」となづけ、朝夕に淡路島まで天皇に奉る水を汲みに行ったのです。大きくて速く進む船だったのでしょう。やがてこの船が古くなり、壊れたのでその木で塩を焼き、焼け残った部分を琴にしたところ、さやさやと七里に響く美しい音がした、とあります。
大樹と、古代の人の長いつきあいがしのばれる話ですが、「枯野」は、宝塚1号墳から出土した船形はにわのような、準構造船だったのでしょう。そして、琴を膝に載せて弾いているはにわを見たことがありますが、「枯野」は、そのような琴になったのでしょう。素朴でかわいいはにわの弾く琴の音が、ぽろんぽろんと聞こえてくるようです。
宝塚1号墳の頂上部
宝塚古墳は、宝塚1号墳と2号墳から成り、公園として整備されています。(写真提供 松阪観光協会)
宝塚古墳は、松阪の市街地を見下ろす小高い丘にあります。古代の記憶が、この地にひっそりと眠っています。春の陽射しを楽しみながら、古墳のある丘に登ってみませんか。
ゆるやかな傾斜の小径を辿っていくと、目の前に大きく空が広がり、はるかに海も見えます。古代の海岸線は、もう少し近いところにあったでしょう。
王の魂を載せた船は、海を行ったのでしょうか、空を渡っていったのでしょうか。
花の行方も、魂の行方も、現代の人にはわかりません。どこか、遥かに遠いかなたには違いありません。
宝塚古墳から出土した、船形はにわを初めとするさまざまなはにわは、松阪市文化財センターの「はにわ館」で見ることができます。
緑ゆたかな鈴の森公園の一角にあり、大正時代の倉庫を改修したギャラリーが併設されています。松阪市外五曲町1番地。
https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/bunkazai-center/
ぷらっと松阪 不足案内|2023.03.15
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集