COLUMN

7,櫻の木の下には

満開の山桜

「満開の山桜」

 この文章が皆さんの目に触れる頃、松阪の桜はもう満開をすぎているだろうか。
3月20日、ふと思い立って吉野山に行ってきた。
国道166号、高見峠から奈良県に入り、天誅組、また日本オオカミの最後の場所となった鷲家を通り、吉野山下千本の駐車場まで、休憩10分を挟みちょうど二時間の行程である。ほぼ同じルートを宣長当時は三日で歩いた。
途中、飯南、飯高辺りのしだれ桜などは既に満開だ。下千本駐車場の桜も咲いている。

下千本駐車場の桜

「下千本の染井吉野」

 ひと昔前まで、本居宣長といえば「桜」だった。
本居宣長の生涯、その最初は、やはり満開の吉野山の桜が相応しいだろう。
享保14年の春、松坂の木綿商・小津三四右衛門定利は吉野山に遊び、吉野水分神社(子守明神)に参拝した。社頭で定利は、どうか男の子を授けて下さいと祈る。
やがて願いは叶えられ、翌15年5月7日(1730年6月21日)夜の子の刻、宣長は誕生した。
宣長の「日記」はこの参拝記事から始まる。
もう少し正確に言うと、「日記」と書かれた表紙をめくると、その裏には次のように書かれている。

 「嘗て父定利、子無きを嘆きて嗣を和州吉野山子守明神に祈り、誓ひて曰く、若し男子を 生みてその子十三歳に至らば、即ち自ら供ひて其の子を使はして参詣せしめんと。願望 虚しからず、室家(妻)妊めること有りて男児を産む。然れども誓うところを遂げずして父早く逝きぬ。児(宣長)十三歳に至りて亡父の宿誓に随て彼の神祠に参詣し賽謝しぬ」(原漢文)

「子無きを嘆き」とあるので、結婚して長い間子どもが授からなかったと思ってしまうが、先妻が病没して、勝と再婚したのはその前年であり、「子無きを嘆き」は文飾と考えてよい。その父が亡くなったのは宣長11歳の時、享年46であった。

吉野水分神社

吉野水分神社の鳥居

吉野水分神社の社殿
(実は子守社は、三つ並ぶ本社に向かって左奥にある)

 さて私は、「満開の吉野山の桜が相応しい」と書いたが、定利が吉野に行ったのが春だとはどこにも書かれていない。書かれてはいないが、当時松坂から三日、四日をかけて吉野山に行くのは、大峰山に参るか花見であろう。
大峰山参り(山上参り)は季節は7月。この地方の男子はふつう13歳頃に済ませる。吉野水分神社は、大峰山山上ヶ岳への入り口に位置するので、宣長のお礼参りもその序でであった。何れにしても、行者講に入るような熱心な人ならはともかく、厳しい修行の旅であるから、生涯にそう何度も行くところではない。36歳の定利では考えにくい。 もう一つの可能性だが、吉野といえば花見である。私はこの可能性が高いと思う。
宣長が生まれたのは次の年の5月。「程もなく、母なりし人、たゞならずなり給ひしかば」という『菅笠日記』の記述を合わせると、参詣して間もなく、「ただならず」つまり懐胎と考えると流れとしては自然であろう。
また花見のついでの授子祈願だが、やはり『菅笠日記』に、「後厄」を終えたお礼参りに花見がてら来たことを釈明し、

 「そも花のたよりは、すこし心あさきやうなれど、こと(異)事のついでならんよりは、さりとも神も、おぼしゆるして、うけ引給ふらんと、猶たのもしくこそ」

と釈明している。何か都合よく解釈しているようだが、確かに桜は吉野の蔵王権現の神木であるから理由が立たぬ事ではない。

本文第1ページは生誕の記事から始まるので、つまり表紙裏は生まれる前の話ということになるが、この一文はいったい何時書いたのだろう。とても大事なことだが、不思議なことに多田道夫先生(和歌山大学教授・故人)以外、この問題を取り上げた人はいないようだ。

何れにしても、 《宣長の日記は生まれる前のことから始まる》
本居宣長について知ろうとするならば、先ずこの事実を避けて通るわけにはいかない。というか、宣長にとってこの事はとても重要なことだった。
以前、「本居宣長年譜」を記念館のホームページに載せたことがある。私の怠慢で34歳までという中途半端なものだが、その誕生の日を見て頂きたい。
「本居宣長年譜」(本居宣長記念館ホームページ)

自分は、父が吉野水分神社に祈願して生まれたという母が繰り返し語った思い出は、「日記」の表紙裏、三十代後半頃の「本居氏系図」、『菅笠日記』(43歳)、『家のむかし物語』(69歳)、『寛政十一年若山行日記』(70歳)と生涯にわたって繰り返して想起される。その根底には、「自分はなぜ生まれてきたのか」という問いかけがあったことは言うまでもない。

生誕から生涯にわたって書き続けられた「日記」、44歳と61歳の二回の自画像製作、葬儀の手順、墓の設計、命日の決め方に及ぶ『遺言書』、いやそれだけではない。「物のあはれを知る」説や、『古事記』を読むことで「日本人の心」を探し求めたこと、薬箱をぶら下げ往診することまで、宣長の思索や行動のすべての謎を解く鍵はここにある。
この事実を直視せず、

 「宣長が語るのは決して己ではない、日本という御国である」

という『宣長学講義』などは、拗けた貧弱な読み方、いや「読む」というより恣意的な策略に満ちた言いぐさといわざるを得ない。宣長に倣い、鏡に映る自らの顔をじっと眺めるところからやり直した方がよい。

 徒し言はさておき、この問いかけを宣長は生涯持ち続けるのだが、そこに複雑に関わってくるのが「桜」である。
晩年の宣長は、「なぜ私はこんなに桜に心を支配されるのか。私は桜の親でもないのに」と歌に詠み、奥墓には「山桜の随分花の宜しき」を植えさせ、自分で付けた諡は「秋津彦瑞桜根大人」、そして桜の根の下に千代の住処を見つけることができたと喜ぶ。
宣長は桜が好きだった。狂おしくなるほど好きだった。狭い庭にも幾種もの桜を植え、また町の各所に桜を見つけて、楽しんだ。

 「花はさくら、桜は、山桜の、葉赤く照りて、細きが、まばらに交じりて、花繁く咲たるは、又たぐふべき物もなく、浮世のものとも思はれず」

(『玉勝間』「花のさだめ」)

では、若い頃から好きだったかというとそうも言えない。ざっくり言うと43歳で吉野に行くその前後から、急速に桜に傾倒していった。
私は、宣長の明和の9年間、つまり34歳から43歳は大きな転換点だったと考えている。
この時期、宣長は「変身」する。
賀茂真淵の厳しい指導、その師に隠すように開始した『古事記伝』執筆。
「係り結びの法則」の発見や『字音仮字用格』などの国語学上の重要発見、
師・真淵との別れ、また谷川士清との深まる親交。
家庭生活に於いては次男、長女がこの時期に誕生し、絶えず宣長の後ろ盾となってくれた母かつが亡くなった。
その中で、宣長は「神」の存在を確信し、自分の学問の方向、あるいは果たさねばならない役割を決定していく。そんな中で桜への思いも深まっていったのである。
父が子どもを授けて欲しいと祈願した事実は、宣長の中で大事に温められ、やっと開花したのである。
宣長と桜の話は、まだまだ続く。

戦後の復興も一段落し、人々の生活が落ち着きを取り戻す中で町は整備され、各所に染井吉野が植えられた。松阪公園もたくさんの桜が咲き誇り、宣長まつりも賑やかに繰り広げられた。だが染井吉野の寿命は短い。木は老木となり、次々に伐採され、また城は国史跡「松坂城跡」として整備が進んでいった。そこには桜を植えようという発想はない。
だが、町を歩くと思いがけぬ場所に美しい枝垂れ桜などがあったりする。
また少し郊外に出て山々を眺めれば、木々の間に立派な山桜を、何本も何本も見つけることができるだろう。

「かげろふの もゆる春日に 立ち出て ふりさけみれば あしひきの 山の尾上は
きのふけふ 雲も霞も 色そひて にほふ桜の 花盛り・・・」

宣長の長歌「桜花の歌」の最初だが、暖かな春の陽気に誘われて外に出て遠くを眺めてみると、山々の雲や霞も今日は桜色となっている。
それまでは周りの木々の間に埋もれていた桜が、満開になると深い緑の中に浮かび上がる。

 「松も何も、青やかに茂りたるこなたに咲るは、色はえて、ことに見ゆ」
「花のさだめ」

こんなに山桜があったのかと、見るたびに驚く。
宣長の奥墓がある山室山を通る第二環状線、桂瀬から山室町、上鮹路周辺、あるいは伊勢自動車道松阪インター付近の山々をベルファーム辺りから眺めるのもお奨めだ。

 また毎年聞かれるのだが、本居宣長奥墓の桜は、記念館周辺の桜から二週間から三週間遅れて咲く。状況については、本居宣長記念館のHPをご覧頂きたい。
いつも言うことだが、奥墓の桜はできれば双眼鏡(遠鏡)を持っていくことをお奨めする。
宣長の学問と同じで、だんだん遠ざかり、もはや肉眼で見ることは困難となっている。
だが、遠山の木々や桜を遠眼鏡で眺めるのも、また楽しいものである。
ちょうど『古今集』を「遠鏡」で読むようなもので、細やかなところまでよく見え、きっと発見も多い筈だ。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.04.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数