松坂城趾の藤棚
樹齢300年以上の古木で、明治23年(1890)に愛知県鍋田村から移植されたということです。
(写真提供 松阪観光協会)
春から初夏に季節が移ろうとする頃、城跡の藤が気になり始めます。そろそろ咲いたかな…と、城跡の石段を上り藤棚に行ってみたりします。風に揺れる満開の藤の花は妖艶。薄紫の花房の重なりも、甘い香りも、見る者をうっとりさせる、藤は魅力的な花です。
藤棚のある二ノ丸から松阪の町を見下ろすと、すぐ足元に御城番屋敷が見えます。大きな二つの長い屋根を真四角に刈り込まれた生垣がぐるりと取り囲む特徴的な景観です。
ここには、武士の意地を通して録を離れ、再び仕官した侍たちの物語が伝えられています。
二ノ丸から見た御城番屋敷(国指定重要文化財)
御城番屋敷は、幕末の文久3年(1863)に建てられた大きな二棟の長屋で、江戸時代には城内の三の丸といわれた辺りにあります。ここに住んだのは、「横須賀組」と呼ばれた侍たち。先祖は、遠江国横須賀にいた武士集団で、徳川家康がまだ三河の一武将であった時代から家康に仕え、天下統一まで幾多の戦いを経た勇士たち。天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは大手柄を立てて家康から感謝状と御朱印を賜り、大坂冬の陣では12名の仲間を亡くすなど、家康と苦楽を共にしました。徳川の世となって、世間が落ち着くと、彼らは家康直属の旗本与力という身分のまま、横須賀城の城主となった安藤帯刀の応援部隊となります。家康が隠居して駿府城に移ると、横須賀城と駿府城の両方の御城番役を受け持ち、禄高は一人百石から百五十石であったそうです。
元和2年(1616)に家康が亡くなり、御三家制度が創設されて、徳川頼宣が紀州和歌山藩主となると、「横須賀組」の中で36名が紀州・田辺に遣わされます。家康恩顧ということもあり、紀州藩主直属の家来という身分で、安藤家の領地となった田辺に勤務となりました。四百坪の屋敷に住み、二百石の禄高の知行地を持つという厚遇で、家老と同じように扱われる特別待遇でした。
時を経て、幕末を迎えた安政2年(1855)、安藤家から「横須賀組・田辺与力」へ「十七条の通達」が出されました。これは、知行地を取り上げて御蔵米で禄を支給し、同時にさまざまな特権も取り上げて、安藤家の家来になれという内容で、「横須賀組」の面目を打ち砕く内容でした。安藤家にもさまざまな理由があったのでしょうが、武士たちのプライドは、それを受け入れることを許しません。彼らは協議して、これを拒否。一年間、押し問答が続いた後、安藤家は「押し込め」という処分を下します。屋敷から外に出ることを禁ずる罰です。やがて、安藤家からではなく紀州藩から、「今後は安藤家の下知に従え」とい命令を受けた「横須賀組」は、翌日、禁足の令を破って全員が集まり、暇(いとま)願いの文書を出します。武士の意地を守るために、禄を離れ、浪々の身となることを選んだのです。浪人した「横須賀組・田辺与力」は22人。家族や家来もあったのですから、たいへんな決断です。そして彼らはちりぢりになりました。罪を背負った浪人ですから、名前を変えるなどさまざまな苦労をしたということです。この出来事は「田辺与力騒動」と呼ばれました。
しかし、不屈の武士たちはこの不当な扱いを黙って受け入れはしませんでした。紀州藩の中では「横須賀組・田辺与力」に同情的な意見も多かったと言います。彼らは、苦労しつつも、紀州徳川家の菩提寺の住職・海弁和尚等の力を借りて、再仕官への活動を重ねました。他の藩ではなく、紀州和歌山藩への帰参を目指す活動です。文久3年(1863)、紀州藩から「以下役十人扶持で召し抱えるがどうか」との打診が来ますが、これは足軽の身分で士分ではないため、彼らはこれには答えず、京都に居る一橋慶喜に武士復帰の嘆願書を持って行きます。これによって幕府にも動きがあったようで、同時期に安藤飛騨守が幕府から隠居を命じられたことなどもあり、海弁和尚を通じて藩からの呼び出しがありました。各地に散在していた面々が再び和歌山に集まると、和歌山城で、切り米四十石で士分に復帰できる沙汰を受けたのです。以前の二百石に比べれば、禄高は低いものの士分であり、彼らはそれに応じました。浪人の期間は、6年7ヶ月に及びました。そして、8ヶ月後、松阪御城番勤務の辞令を受けたのです。「横須賀組」は20人に減っていましたが、戦国時代以来の固い絆と武士の意地を守って、松阪の地へ来ました。その際に建てられたのが御城番屋敷です。〝帰り新参〟の武士たちを迎える心づくしだったのだろうと思います。
しかし、時は幕末。松阪へ来て5年ほどで、大政奉還・明治維新を迎えます。版籍奉還とともに、彼らは武士としての職を失います。このとき、家禄の奉還に応じて得た公債や現金を持ち寄って、「横須賀組」は「苗秀社」を結社します。これは、生活の道を拓くためのものではありますが、自分たちの歴史を重んじ、後々まで結束を誓うという基本理念を持っていました。彼らは、共同で買った山林や田畑の耕作に励み、月に6度は武道演習も怠らなかったといいます。
戦闘に秀でた武士の子孫である誇りと、長らく苦楽を共にしてきた団結力に、浪々時の苦労による世渡りの知恵も重なって、「苗秀社」の経営は成功し、平成28年に合資会社として改組され現在に至ります。御城番屋敷は今もこの子孫の人々によって運営管理され、賃貸物件としても使用されています。
江戸時代中期には、1万人の人口の内、武士は7パーセントほどしか居なかったという町人のまち・松坂ですが、その中で、城下町らしい武士の物語を残す御城番屋敷。玄関から侍が出て来そうな気がします。初夏は生垣や庭の緑が一層鮮やか。城から行くと、突き当たりに三重県立工業高校の「赤壁」と親しまれている古い校舎もあり、散策が楽しい一画です。
近隣には、おいしいお店もちらほら――。薫風を楽しみながら、ぷらっと歩きませんか。
御城番屋敷は、質実剛健な武士の暮らしを感じさせる造り。
玄関の式台などに武家屋敷らしさがただよいます。
鴨居には、万延元年(1860)の「横須賀組」の血判状のレプリカが掛けられています。
御城寄りの一軒の内部が見学可能となっていますが、他は一般の方の住居ですのでご注意ください。
周囲には南龍神社や土蔵(三重県指定文化財)なども――。
ぷらっと松阪 不足案内|2023.04.15
編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集