COLUMN

8,「松坂」は学問の町

   「本居宣長四十四歳自画自賛像」

もし「松阪市ってどんなまち?」と問われたら、私の答えは決まっている。

《学問の町 松阪》

だ。
挿絵はこの連載第6話「硬派なエピキュリアン安守」でも登場した松坂の大店のご主人・殿村安守である。
鷹揚な大旦那。さすが松坂の豪商だ。
では、

「豪商の町」

でいいじゃないか。

  「犬夷評判記」の「安守像」(部分)

ちょっと待ってほしい。以前にもご紹介したが、この絵をもう一度ご覧頂こう。
安守の後ろには宣長の「故郷落花」の軸が掛かり、しっかりと「宣長」の署名が見えるようになっている。

これは、私は宣長門人だという表明である。

宣長の最晩年に書かれた『続紀歴朝詔詞解』と言う本がある。
難しい書名の本だが、内容は正史第二番目の『続日本紀』に載せられた天皇のお言葉(詔詞)注釈書である。手堅い考証と信念を持って貫かれた古代史研究の重要著作で、
「不改常典」の解釈、また聖武天皇が東大寺大仏の前で申された「三宝乃奴」など天皇制の根幹に関わる重要発言の載ることを考えると、『古事記伝』に匹敵するほど重要な著作といってもよかろう。この序文を書いたのも、安守なのである。素晴らしいことだ。
また、前回も書いたが安守は、ド偏屈で知られた滝澤馬琴に最も信頼された「読み巧者」でもある。

近世の歴史を眺めれば豪商はあちこちにいる。堺に酒田、大坂、大和の今井町、近江国には日野に近江八幡、五個荘、高島と全国数えれば切りはない。土蔵に金は唸り、屋敷は八つ棟造りというだけではない。独自の経営理念を持ち、高度な帳簿管理など経営学においても誇るべき文化ではあるが、その中で堺のわび茶、大坂の懐徳堂、そして松坂の鈴屋こと本居学は特筆に値すべきものがあると思う。

以前、鈴屋学会が盛んだった頃、懇親会は、鈴屋にほど近い松阪老舗の牛肉店と決まっていた。
主人の計らいで、食べきれないほどのすき焼きが振る舞われ、

「さすが松阪肉には《学問の香が漂う》」

と会員たちは舌鼓を打ち「松阪の一夜」を堪能した。今は昔の話である。もし、「肉の町」を標榜したいのなら、

「学問の香の漂う肉の町 松阪」

でもよかろう。

床の間の掛軸は、その日の来客をもてなすもので、主人の趣味教養が窺われるというか、表明する場でもある。座敷に入ればまず床を拝見する。今もこの美風は、茶道の世界に残っている。

この町が「学問の町」だったのは宣長の時代だけではない。
近代でも、この町は優れた学者を輩出してきた。初代・東京電機大学学長を務め、文化勲章をもらった丹羽保次郎博士に、戦後の農政を指導した農業経済学の東畑精一博士もまた文化勲章。立派なものだ。

丹羽博士といえば何といっても1928年、昭和天皇即位式の写真電送、つまりファクシミリだ。このNE式写真電送装置を開発した人である。
この町では、少し前までは思い出したかのように丹羽さんがタウン誌に載ったり、小さな展示会が開かれたしていた。

その博士がまだ子どもだった頃の話だ。
早くに父を亡くしていたがよほど優秀だったのだろう、担任は学校が引けた後に少年を、これまた諸事情があって魚町の本居宅に連れてきて補習を受けさせた。
勉強する部屋は通りに面した六畳の間で、小さい机に相対して少年は懇篤な教えを受けた。

・・・幼い私は翁のあの大きな業績を生んだ由緒ある四畳半の書斎が、すぐその上にあるとも知らず、その日その日の教えを受けていたのであります。なにか心温まる記憶が残っています。
外国を旅行するごとに、私はゲーテの旧居であるとか、ミレーのアトリエなどを訪れるのが楽しみでしたが、いつも思いをふるさとの鈴廼屋にはしらせるのでした。

「邂逅の記」『若き技術者に贈る』丹羽保次郎・昭和46年3月15日

 

  丹羽保次郎『若き技術者に贈る』など

担任の高尾九兵衛先生は宣長の話をしなかったが、「場所の力」である。少年は鋭敏に何かを感じ取っていたのだ。
今も、松阪の小学生は4年生で「本居宣長」を学ぶ。学校によっては鈴屋の見学にもくる。子どもたちは、記念館の学芸員の説明を聞いている。聞いた話はやがて消えていくかもしれないが、鈴屋の畳の感触、薄暗さは、脳裏にまた体に刻まれるだろう。
ひょっとしたら、第二、第三の丹羽保次郎がその中から生まれてくるかも知れない。
これが《学問の町・松阪》の底力だ。
高尾先生は、宣長のことを知らなかったのかと誤解されるといけないのでちょっと付け加えておく。

九兵衛は宣長から五代目の方で、弟が本居宣長研究の基礎を築いた本居清造である。宣長学は、体に染みこんでいた。

文化勲章と言えば、歌人で万葉学の大家・佐佐木信綱博士も、その学問の最初は松阪である。
生まれ故郷の石薬師(三重県鈴鹿市)から、本居学の指導の為に招かれた佐々木弘綱が家族でこの町に移り住んだのは1877(明治10)年の年の暮れ、長男・信綱6歳の時である。
やがて信綱は、父に連れられ歌会に参加したり、本屋に行ったりすることで学問の基礎を築いていく。回想文を読むと信じがたいほどの英才教育、年表を見ると極めて早熟である。
父の指導する本居学派の歌会は、もちろん鈴屋で開かれた。
出席者が歌を詠み、添削や批評がある。また、日曜日ごとに「歌鎖(うたぐさり)」という一種のゲームが催された。
なんだゲームか、ではない。信綱の回想文(『作歌八十二年』)を見てみよう。

日曜日ごとに、稽古に来る人と一緒に、「歌鎖」をした。「歌鎖」とは、父が寛居塾(本居春庭の門人・足代弘訓門)にいた時、古歌を記憶するためにと、弘訓先生が塾生と一緒になさったもので、方式は、たとえば先生がまず、

いざこども 早く日本(やまと)へ 大伴の みつの松原 待ちこひぬらむ

という『万葉集』の山上憶良の歌をおっしゃる。
すると隣に座っている人は、四句の「み」が上にある歌を記憶の中から引き出してきて、例えば、

水の面に 照る月なみを かぞふれば こよひぞ秋の 最中なりける

という『拾遺和歌集』に載る源順(みなもとのしたごう)の歌を朗唱する。言えない時はお辞儀して次に送る。すると次の人が代わって知る歌を朗唱する。
この時は、「四句の頭」でという決めがあったのだろう。
和歌は近代短歌と違い、いかにたくさんの名歌を覚えているかが鍵である。そこで、このようなゲームで古歌をおぼえたのである。
またこの「歌鎖」には、誰でも知っている「百人一首」の歌はなるべく言わぬとか、同じ歌を同じ日には言わぬとのルールがあったのだそうだ。
その足代弘訓門で行っていた歌鎖を、8歳になるかならないころから信綱は大人に交じってやっていたのである。よほど歌に習熟している者でも難しいゲームだが、幼少のころから有名な古典和歌の暗唱を課せられて信綱には、そんなに難しいこともなく、しあわせであったと余裕の回想を残している。  (意訳)

これは明治12年、信綱8歳の時の話である。まだ古典和歌が、教養のベースにあった時代の話である。床の間の掛物はもちろんのこと、工芸品にも、ちょっとした日常会話の中にも和歌趣味が息づいていたのだ。それにしても、何とも壮絶なゲームである。
それを学者や本職の歌人ではない、町人や早熟な子どもが興じていたのだ。
これが松坂(阪)である。

1600年代も後半、松坂経済は最盛期を迎える。
そんな中、1687年には、古典研究家・北村季吟を京都から招き、『源氏物語』や『伊勢物語』などの講釈を1ヵ月余にわたって聴講する。
季吟と言えば、宣長も講釈で使用した『源氏物語湖月抄』や、後に岩波文庫でも採用された『枕草子春曙抄』など、主な日本古典に簡略ではあるが注を付け出版した人である。古典が庶民の間に普及するのはこの季吟のお蔭である。
写真は、この時の季吟の松坂滞在日記『伊勢紀行』を読み解いた小児科医・井上正和氏の本である。

「北村季吟『伊勢紀行』と黎明期の松坂文化-貞享四年松坂滞在日記-」
港の人・平成25年11月16日

季吟先生、どうやら松坂を田舎町と軽んじていたようだ。
この気難しい先生の心をいかに和ませるか。
今なら松阪自慢の食文化でおもてなしとなるだろうが、やがては幕府の和歌所に招かれる程の大学者である、そんなもてなしなど飽き飽きしてあくびが出る。
そこで松坂の旦那衆は、まず、静かな中町慶聚院小路に庵を用意する。やがてその家は陶淵明の故事に因んで「常関」と命名された。また花など目を楽しませる工夫をする。
さらに培った教養を総動員して、『源氏物語』に『伊勢物語』、『古今集』、『新古今集』と古典に典拠をもとめ抜かりはない。また近隣の名所での歌の贈答や、季吟の乗る駕籠の中には蛍を放つという『伊勢物語』世界ばりの趣向でと知恵を絞り師をもてなす。
努力は報われ、季吟もやがて全力で松坂の人士と向き合うようになる。
その季吟の心を開いた最高レベルの接待がこの『伊勢紀行』には記録されている。

松阪には今も江戸時代の道幅を残したままの小路(しょうじ)が残る。
この慶聚院小路の中程に、北村季吟滞在の為に松阪の旦那衆が用意した庵「常関」があった。

やがて貞享・元禄の大繁栄期も終わるが、文雅の勢いは止まる所を知らない。
そのような町の空気の中、1730(享保15)年でが、国学者・本居宣長を育み、やがて彼が40年間にわたって古典講釈や和歌会を続けることで、この町の人々の教養は、驚くほど洗練され深まっていった。
遙か後年の大正年間の話だが、少年時代をこの町で過ごした映画監督の小津安二郎が、謡に熱心だった親戚の長井家の感化を受けたのではないかという説もある。
あり得ない話ではない。

再び話は信綱少年に戻る。
父に連れられ本屋に寄ったと書いたが、その時、本屋・柏屋の老主人から聞いた賀茂真淵と本居宣長の一夜の出会いの話をもとに書かれたのが「松坂の一夜」。
やがて、この話は教科書にも載り、多くの子どもたちに深い感銘を与えた。
まだ読んでない方のために、掻い摘んでお話ししておこう。

松坂で医者を続けながら宣長には心に秘めた思いがあった。『古事記』の解読である。この本は、我が国現存最古の歴史書であるにもかかわらず、評価も高くはなかった。
だが宣長は、日本人の心を知るには『古事記』を解読する必要があると考えた。
だがそのためにはよき指導者についてもう一度学ぶ必要がある。そして考え抜いて撰んだのが賀茂真淵であった。当時江戸に住んでいた真淵だが、いつかきっと会えると宣長は待ち続け、師の心を一瞬で射止めるべく作戦を練った。
チャンスが到来したのが1763(宝暦13)年5月25日であった。
伊勢参宮の帰途、松坂の旅籠・新上屋に宿った真淵を宣長は訪ねた。
師との対面がかなった宣長が、家に帰っていく場面を引いてみよう。現在の文章に比べ言い回しは古いが、美しい文章である。

夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門のみな閉ざされ果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍(たが)をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳蔵の仲介で名簿(みやうぶ)をさゝげ、うけひごと(誓詞)をしるして、県居(あがたい・賀茂真淵)の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此(これ)は答へた。門人とはいへ、その相会うたことは纔(わず)かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
今を去る百五十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が国学史の上に、不滅の光を放つて居るのである。

  『【増訂】賀茂真淵と本居宣長』佐佐木信綱・湯川弘文社・昭和10年1月10日

佐佐木信綱は、歌人として「心の花」を主催した。
また、その附言には、

余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ・・・

と書かれている。
この物語は、佐佐木信綱作詞、下総皖一作曲の「松阪の一夜」という歌となり、春に開催される「宣長さん吟剣詩舞道大会」などの幕開けなどで今も歌い続けられている。情感溢れる、しみじみとしたよい曲である。

学問や芸術を好む人が立派だというのではないが、教養が感覚や趣味を洗練させ、幅や深みが増すことは間違いない。
松阪は、やはり

「学問の町 松阪」

を掲げるべきであると思う。

「松坂の一夜」詳細はこちら 本居宣長記念館HP

本居宣長旧宅・店の間から奥座敷を望む。
この店の間は、宣長が薬の調合に使用した。遙か後年、丹羽少年はここで補習を受けた。
また奥座敷は、宣長の講釈に使用された。一階は上がることが出来る。
ぜひ畳の上に静かに坐し、目を閉じて、宣長や丹羽少年の頃を偲んで頂きたい。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.05.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数