COLUMN

10,星あう夜とつわものたちの物語

七夕を過ぎて、梅雨もそろそろ終わり。本格的な夏がきますね。
今では七夕は夏のイメージがありますが、季語としては秋です。今年、旧暦の7月7日は、太陽暦の8月22日にあたります。8月も下旬になると、残暑にうんざりしながらも、蝉の声がアブラゼミやクマゼミからツクツクボウシやヒグラシに変わったりして、なんとなく夏が後ろ姿になって来たのを感じます。七夕は、本来秋口の祭なのです。

七夕の星のごとくにあひ逢ひて別れかゆかむ秋の衢(ちまた)に
七夕の宵に生まれて情濃き われの命の ほそりゆく世ぞ

(岡野弘彦)

七夕や別れに永久とかりそめと
妻と寝て銀漢の尾に父母います

(鷹羽狩行)

星合の浜辺で

七夕の夜は、天の川をはさんで彦星と織姫星が近づき、年に一度の逢瀬をもつ〝星合〟の夜といわれます。
もう何年も前のことですが、歌人の岡野弘彦先生と俳人の鷹羽狩行先生のお供で参宮した際、鷹羽先生が「江戸時代の季寄せを見ていたら『星合の浜伊勢にあり』って書いてあったのだけど、どこか知ってるかい」とお尋ねになったことがありました。
調べてみると、松阪市星合町(以前は一志郡三雲町星合)のことで、室町時代の『伊勢紀行』などにもあり、昔から知られた地名だったことが分かりました。雲出川の河口に近い場所で、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)をご祭神とする波氐(はて)神社があり、また星合には北畠氏の一族の城もあったということなどを、後日お二人にご報告すると、岡野先生が「なんだか呼ばれているようだ。行ってみたい」とおっしゃって、岡野先生と二人、この場所を訪れました。
岡野先生は、民俗学者で歌人の折口信夫(釈迢空)の内弟子となり、國學院大学で教鞭を取られ、昭和天皇はじめ皇族方のお歌のご相談役や歌会始の選者をつとめられるなど東京を中心に活躍されて、当時は伊豆にお住まいでしたが、津市美杉の川上山若宮八幡宮の社家のお生まれです。この神社は雲出川の上流が境内を流れ、北畠氏と深い縁を持っています。そして、先生はお誕生日が大正13年7月7日なのです。
「雲出川・北畠・七夕と三題噺のようだね」と笑いながら、鵲橋や大伴家持の歌碑などを訪ね、「今は水田が広げられていて海は遠く離れているけれど、昔はもっと近くて〝星合の浜〟だったのだろう。海岸線と並行して街道が通っていたのだろうね。村のはずれの水辺に、秋の初めに木や竹で棚を造り、そこで村の聖なる乙女が機を織りながら、旅人である神・まれびとのおとずれを待つという風習があったんだ。ここはそういう場所だったのだろう。それに中国の乞巧奠(きこうでん)という行事が重なって、七夕になったんだよ」と教えてくださいました。

波氐(はて)神社
出口延経『神名帳考証』によれば御祭神は多奈波太姫(天棚機姫命と同一神)とのこと。近くに鵲橋もあり、毎年8月7日、この神社と鵲橋附近で、鵲小学校の子どもたちも参加して「鵲七夕まつり」が行われています。(写真提供 松阪市観光協会)

「鵲橋の碑」は鵲橋の脇にあります。(明治36年建立)
大伴家持の歌「鵲の王多(わた)せ類(る)はし耳(に)おく霜乃志ろき越(を)みれ盤(ば)夜曽更丹希流(よぞふけにける)」と彫られています。

その後、川辺を歩きました。先生はもう90歳を越えていらしたけれども大変お元気で、「あの山の向こうが美杉だね。生まれ育った地を流れていて、親しんでいる雲出川だけれど、河口近くに来たことはなかった」と、初めての地を懐かしむようにゆったりと逍遙されていました。そんな先生と一緒に川風に吹かれていると、まれびととともにいるような不思議な気持ちがしたものです。

北畠のつわものたち

星合の城はもう跡形もなく、北畠氏をしのぶよすがは探せませんでしたが、北畠氏の痕跡は今も松阪の各所に残されています。織田信長が攻め入るまで、この一帯は広く伊勢国司である北畠氏が治めていたのです。多気(たげ・現在の津市美杉)を拠点として、阿坂城(白米城)、松ヶ島城、枳(からたち)城、大河内城など、松阪にもたくさんの城がありました。
北畠氏は村上天皇を先祖とする〝村上源氏〟で、村上天皇から12代目が北畠親房(1293-1354)です。鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の争いがあり、足利尊氏が室町幕府を立てるという波乱の時代に、親房は後白河天皇の側近・南朝の重鎮として活躍しました。公家であり武士でもあり、「大日本(おおやまと)は神の国なり」ではじまる『神皇正統記』の筆者としても知られています。和歌・管弦・宋学・歴史など多方面に通じ、卓越した記憶力を備えていたようで、神代から歴代の天皇ごとにその事跡を記した『神皇正統記』を、ほとんど資料のない筑波・小田城の陣中で、急いで書いたといわれています。
親房は、外宮の神職である度会家行から伊勢神道を学び、天皇家の先祖を祀る神宮の重要性と同時に、地理的な要因や、南朝に協力してくれる勢力の存在などから伊勢国に着目したようです。「太平記」等で、楠木正成らと共にさまざまな合戦で活躍を見せる長男・顕家は戦死してしまいますが、1338年(南朝暦・延元3年、北朝暦・暦応元年)、三男の顕能(あきよし)が伊勢国司となります。
その後、後醍醐天皇の崩御があり、親房が亡くなり、顕能は南朝軍の総帥として戦に臨みます。南北朝の戦いで北畠氏の本城であった田丸城が落ちて拠点を美杉に移したり、観応の擾乱(1350年)に乗じて南朝側が京に攻め込むなど、一進一退を繰り返しつつ戦いを続け、一方で伊勢国の武士たちを従え、基盤を固めていきます。星合の地に城を築いたのは、5代国司・政郷(6代・材親とも)の三男・頼房でした。伊勢の地で勢力を拡大していた時代でしょう。
岡野先生には、北畠親房や楠木正成などの物語を何度か聞かせていただきましたが、それはいつもどきどきするような波乱の展開でした。中世というとんでもなく混乱に満ち、戦いに明け暮れた時代の人々の、強い心と運命の過酷さは、現代にのんびり生きる私には驚くべきものでした。武士たちは知略を巡らし、心を押し殺して実戦に挑まねばならなかったのですが、その中で、北畠親房やその息子たちは、苦境に屈せず、その志を貫こうとしたあっぱれなもののふたちだったということをつよく感じました。

阿坂城趾と大河内城趾に立てられた碑 共に厳しい戦いの場でした。(写真提供 松阪市観光協会)

信長の伊勢国への侵攻は、永禄10年(1567)からはじまり、翌年には北勢を制します。北畠家は8代目の国司・具教(とものり)から9代・具房の時代でした。永禄12年には大河内城での激しい戦いがあり、家督を信長の長男・信雄に譲る条件で降伏し、その後、北畠氏は滅亡に至ります。
かなしい結末ではありますが、北畠顕能が初めて伊勢国司となってから230年もの間、北畠氏は伊勢国司だったのです。松阪にいると今でもたまに、「私は北畠に縁があるので信長は嫌いだ」といわれる方に出会いますが、その長さを思えば、もっともなことだと感じます。

阿坂城跡より松阪港方面を望む(写真提供 松阪市観光協会)

雲出川と絡み合うように、美杉に向かって名松線が通っています。岡野先生は「名松線の開通したとき(1929年)をよく覚えているよ。小さい頃、あれに乗って松阪に来るのが楽しみだった」と、話してくださったことがあります。今年の七夕で、岡野先生は満99歳を迎えられました。お元気で、今は東京にお住まいです。名松線や北畠氏のゆかりの地などを、またご一緒に巡る機会があれば――と願っています。

ぷらっと松阪 不足案内2023.07.15

プロフィール

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集