COLUMN

10,宣長の〈パール・ネットワーク〉

このコラムも10回目を迎える。そろそろ方向付けをしたいのだが、そのテーマには、

〈宣長のネットワーク〉

を選ぼうと思う。
この連載の出発点は、「松坂」という場所である。人口は約一万人、この数には周辺の村は含まれない。地方都市である。

  ◇ 畔に憩う雉 豊かな生産力を誇った周辺の村々も、今は一部は宅地化し、多くは荒廃、雉や猿、鹿、猪の楽園となっている

この小さな町の特異な点は、江戸に店(たな)を持つ商家の多さと、武家の少なさである。
その江戸からは約430㎞、歩くと2週間ほど、文化と言えば京都だが、そこから150㎞、3日。松坂町は紀州藩に所属するので、殿様がいる和歌山からなら、ルートにもよるが4日。少しいびつだが、この三角形の中に「松坂」は位置する。幸いなことに、伊勢の神宮が僅か20㎞、急げば半日の距離と近く、多くの参宮客は、この町を通って神宮に向かう。

また、連載の主人公は「本居宣長(1730-1801)」だが、〈松坂〉と〈宣長〉、この二つが交わるところ、なぜこの町で、時代を先取りする学問を構築できたのかという疑問に逢着するのは必定である。

宣長が定期的に都や江戸に赴いていたならまだしも、28歳で医者を開業してから60歳までは、ほとんど松坂から動かない。僅かな例外が43歳の大和の吉野、飛鳥めぐりの旅だけである。なのにどうして、時代の最先端を往く古典研究者・賀茂真淵と会い、研究に必要な史料や本を手に入れることが出来たのか。また、日本各地に住まう学者たちと意見を戦わし、切磋琢磨することが出来たのか。
この疑問を解く鍵が〈ネットワーク〉である。それもただの〈ネットワーク〉ではなく、私は〈パールネットワーク〉呼びたいのだが、それを明らかにしていきたいと思う。

『玉勝間』を編集する

さて、今、本居宣長記念館では「宣長の目-『玉勝間』の世界-」展を開催している。

宣長は実は楽しみの多い人だが、その一つに〈編集〉がある。

『玉勝間』は、宣長晩年に「編集」された随筆集である。全14巻、1005項目。見逃せないのが各巻の巻頭言(歌)で、これが14あるので、全1019項目と数えよう。

書名は一般には「たまかつま」と読まれているが、宣長は「たまがつま」と濁って読んだはずである。書名の万葉仮名は「玉賀都万」と書かれ、添えられた歌にも濁点が付く。

一昔前、宣長に批判的な、だが斯界の権威と目された学者が、「暇つぶしにはもってこいの本だ」などと揶揄したこの随筆集を、なぜ多忙な宣長が書いたのか。
無学な学者の暇つぶしのために書いたのだろうか。
執筆の動機は、書名に添えられた歌、

言草の すゞろにたまる 玉がつま つみてこゝろを 野べの すさびに

また、歌に続く「初若菜」と命名される巻1の巻頭言、この二つに明らかだ。
それによると、宣長の机の周りには、日々の感慨、読書や見聞のメモなどがいつの間にか溜まってきた。まるで春の一日、野辺に遊んで帰る籠のようだ。面白いと摘んではみたが、持って帰って夕餉の菜となるわけでもない。しかしせっかく摘んだ草花、棄つるも惜しとまとめてみた、と言うのだ。
つまり「玉勝間」とは、玉で装飾されたような美しい籠のことである。

     ◇ 「宣長の目」展のポスター

歌を編集する

『玉勝間』における〈編集〉を見る前に、宣長がこよなく愛した「和歌」の〈編集〉についてみてみよう。
以前私は、「宣長詠草攷」という小論を『鈴屋学会報』15号に発表したことがある。
歌は、詠んで清書する、という単純なものではない。いくつもの段階を経て、今見るような形に整えられていく。宣長にとっての「歌」がどのように出来ていくのかを、詠草や歌稿をもとにたどってみたのである。
生成の過程を見ることは、宣長にとっての「詠む楽しみ」を数えることでもある。

ではどんな楽しみがあるのか。
まず一つ目は、もちろん「詠む」楽しみだ。
歌会や、毎日の暮らしの中で、あるいは慶賀や追悼の歌を所望されたら、詠む。
ここで歌会提出用の「詠草」や、作歌メモ(歌稿)が出来る。これを第一次メモと呼ぶ。
しばらく時間をおいて、その第一次メモを取り出して、手直ししたり配列を考えてみたりする。これが楽しいらしい。これが二つ目の楽しみである。そうやって第二次メモが出来る。
この段階で、並べてみてバランスが悪ければ、新たに歌を詠む必要もあるし、断腸の思いで捨てるものもある。
このようにして出来た歌を、好みの色紙や短冊、懐紙に書く。楽しみの三番目である。
更に、仲間と一緒に批評し合い、また出版するという楽しみもある。

今では自分の歌集を出すのは、素人歌人でも常識だが、江戸時代には、生前中に自分の歌集を出すなど、殆ど例がなかったそうだ。だが宣長には、そんなことは関係ない。
『鈴屋集』や『仰瞻鹵簿長歌(ぎょうせんろぼのちょうか)』、また刊行は没後になったが『枕の山』などが出版された。

桜の歌を編集する

深まる秋、宣長は寝覚の床で、大好きな桜の花咲く春を思い、歌を詠む。
翌朝、その歌を書いてみる。次の日もまた詠む。段々面白くなり、数も百、二百と増え、とうとう三百首を越えてしまった。
宣長は、これを並べ替えてみた。
今残る草稿(第二次メモ)には、和歌の上の合点(「印)や、不思議な線、「老」、「死」、「祝」の文字、圏点(○印)、数字が書かれている。どうやら編集を考えた時のもののようである。
直したり、また追加したりして、楽しみも極まってくるとだんだん物狂おしくもなってくる。ようやくまとまったのが『枕の山』、別名「桜花三百首」であった。
宣長の歌の中では珍しく高い評価を受けている。
もちろん歌のこのような楽しみ方は、今の俳句や短歌を愛好する人ならよくお分かりになるはずだ。

  ◇ 版本『枕の山』と草稿のコピー

編集は知識の使い回しでもある

 宣長は、読書や見聞のメモでも歌と同じように「編集」を繰り返していく。
著作執筆のために集められた膨大な資料や、歌会や講釈の時の覚え書き、詠んだ歌、聞いた話などを再編集する。ある程度まとめたら来訪者や、同じ興味関心を持つ人に見せることもある。そのようにして、磨いていく。
その中から、例えば、『古事記伝』などの執筆材料となるものも出てくる。
独立してまとめられる場合もある。
一つ例を挙げよう。
私たちの住む国には「日本」と言う名前がある。だが歴史を遡ると、その範囲は異なるが「秋津島」とか「倭」、「大和」などという呼び名があった。
よく知られていると思うが、『古事記』には「日本」と言う呼称は出てこない。
その8年後に編纂されたのは『日本書紀』、まさに「日本」の歴史書である。
国号や土地の名前は、そこに暮らす人々の「世界観」を投影している。『古事記』を研究するためにも、調べないといけない。
さりとて調べたことを全部書くわけにも行かない。肝心の「日本」が出てこないのだから。
反古の裏などに書いたメモは、再編集されて『国号考』と言う本に生まれ変わる。
「分割して統治せよ」ではないが、宣長は目標を明確化、細分化していくことに長けていた。『古事記伝』で書くべきことと、独立して論じる方がよいものをきちんと分けていた。『地名字音転用例』や『真暦考』など、いくつもの著作がこのようにして執筆されていった。

使い道のない材料を編集する

幾たび考えても、使い切れなかった話も多い。また、捨てがたい話もある。
『玉勝間』にはそんなものも集められている。
例えば歌集には載せにくい歌がある。三味線を詠んだ歌や、猿が木の実を持つ絵に寄せた歌。また、炬燵の歌、

蒸し衾(むしぶすま) なごやが下の 埋火に 足さしのべて 寝(ぬ)らくしよしも

この炬燵の歌は、連載「3 集まる 場所」で既に紹介済みである。これも出典は『玉勝間』巻3である。
今回の展示では、「めがねの長歌」という歌稿が出ている。どうやらまだ未完成である。

  ◇ めがねの長歌

 この歌は、この歌稿以外にも何かの隅に書かれていた気もするが、歌集や『玉勝間』などの随筆にも出ていないのではないか。完成していても、せいぜいが『玉勝間』に載るような題材である。
では載ってもいないのに、なぜ展示されているのか。
これは、「古よりも後世のまされる事」(『玉勝間』巻14)の延長としてである。その最初に、

古よりも、後世のまされること、万の物にも、事にもおほし

とあるところから、「めがねの長歌(歌稿)」の、

かかる物 有ともきかぬ 古(いにしへ)の としふる(老たる)人は いかにして ふ  みはよみけむ 物はかきけむ もじ(文字)の関・・・

へと連想を働かせたのだろう。

斎王のなみだ

先達て6月3日、松阪市の隣明和町斎宮で「第四十回 斎王まつり」が開かれた。
斎王役の女性が十二単をまとい葱華輦(そうかれん)に乗り、沿道に集まった人に素敵な笑顔を振りまいていた。

目にはみて 手にはとられぬ 月のうちの 桂の如き 君にぞありける

(『伊勢物語』73段)

夜は「月明かりの群行」が行われ、新聞には「幻想的な夜の闇に、再び平安絵巻が浮かび上がった」と紹介された。
斎王は、天皇の名代として斎宮に遣わされた「手にはとられぬ」未婚の皇女である。

『伊勢物語』の在原業平とのロマンスや『源氏物語』賢木巻など華やかな話題もやがて消え、世の乱れた中世には、哀れなことも出てきた。
斎王が都に帰る退下は、伊勢に赴く群行にくらべ、寂しいものだが、『玉勝間』巻10に引く『白川顕広王記』に載る長寛3年(1165)12月の好子内親王の場合は、散々である。
御輿は引き破れ、まるで薪を結び合わせたような有様。お付きの者は乱闘の末に殺され、食べるものも無く、とうとう斎王はお泣きになった(「斎王御泣涕〈トイヘリ〉云々」)という。
これを引き宣長は、「衰へたりし世の有さま、あさましなどいはむは、世の常なり」と評する。哀れな話である。
この内容もだが、一層興味を引くのは、伊勢の田舎町に住む宣長が、いったいどうやって神祇伯(神祇官の長官)・白川顕広王の日記を見たのかということである。
これが〈ネットワーク〉の力なのだ

 このように、『玉勝間』1019項目(1005+巻頭言14項目)からは、信じられない位濃密な宣長のネットワークを垣間見ることが出来るのである。

「宣長の目-『玉勝間』の世界」展

さて記念館の展示室に話を戻す。
『玉勝間』の展示にはいくつかのやり方がある。過去には、下書きや、執筆する際の材料、関連資料がわんさと展示したこともあった。今回も、巻2「五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事」の証拠資料であるアルファベットで五十音図を書いた「阿蘭陀国音韻」なども展示されているが、企画者の主眼は、「宣長の入門書」としての『玉勝間』のようである。
そう、代表的な著作からは洩れてしまったもの、その中には宣長の独り言のようなものも含まれていて、そこから、その主人の実態が窺えると言うことはあるものだ。
その意味では、よくできた「宣長入門」の展示と言えるだろう。

  ◇ 展示室の様子 奥には、「若い頃にもっときちんと字を習っていたらよかったのだが」と独りごつ宣長の書「一無庵」扁額も見える。

 この顰(ひそ)みに倣って、しばらく『玉勝間』を切り口に、〈宣長のパールネットワーク〉へと分け入っていくこととしよう。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.07.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数