COLUMN

11, 川の流れと構造線

暦の秋

8月8日は立秋でした。
〝秋立つ〟とはいっても、暑さはまだまだおさまりそうにありません。
酷暑が続くと、涼を求めに川辺に行きたくなります。雲出川、阪内川、金剛川…… 松阪には幾筋もの川が流れていますが、歴史的に最も大きな流れをつくったのは櫛田川でしょう。
櫛田川の名称の由緒は深く、神宮ご鎮座の頃に遡ります。『倭姫命(やまとひめのみこと)世記』には、垂仁天皇の即位22年、倭姫命は飯野の高宮に遷られ、4年間をそこで過ごされたとあります。そのとき、「(倭姫命が大若子命に)『汝が国の名は何ぞ』と問ひ賜ふ。白さく、『百張蘓我の国、 五百枝刺す竹田の国』と白しき。其の処に御櫛落し給ひき。其の処を櫛田と号ひ給ひ、櫛田社を 定め賜ひき」――「竹田」という場所で櫛を落とされ、そこを「櫛田」と名付けられ、櫛田神社をお定めになった―― と。竹の枝のように、あるいは櫛の歯のように、細長い田がゆたかに並んでいる場所だったのでしょう。櫛田神社は、今も広々とした田園風景の中にお祀りされています。そこから、倭姫命は船に乗って魚見の方向に川を下って行かれます。これが櫛田川という川の名の由来にもなっています。
櫛田川沿いにある多気町の相可や丹生、松阪市の射和、中万などは、松阪開府のずっと以前から商業が栄え、豊かな商人たちが住んでいて、後の城下の繁栄にも大きく関わっていました。倭姫命も運んだというこの櫛田川の流れに沿って、富が流れ込んでいたのです。

櫛田川 多気郡多気町相可と松阪市射和町(旧飯野郡、後に飯南郡)の二郡を結ぶ「両郡橋」から川下を望む。
江戸時代には渡し場があり、明治21年(1888)橋が架けられた。

中央構造線と水銀

松阪には、中央構造線が通っています。
中央構造線は、九州から四国、紀伊半島を通って長野県の諏訪湖の付近まで、日本列島をざっくりと切り分ける断層。広範囲にわたりますが、実際にその境界面が表れている場所は少ない中、松阪には2カ所もその露頭があります。ひとつは、飯高町月出で、国指定天然記念物となっています。もう一カ所は、同じ飯高町の粟野・田引。こちらは、松阪市の天然記念物に指定されています。いずれも、見学することが可能ですが、そこに至る道に落石などの危険が伴うようです。
中央構造線の周囲には、昔から水銀の鉱脈が数多く発見されています。この水銀が、松阪の歴史を大きく動かしました。
水銀は、自然界では硫化水銀、「辰砂」「丹」といわれる鉱物の形で存在します。これは硫黄と水銀がマグマの中で結びついたものだそうですから、おそらく中央構造線がつくられる地殻変動が起きた際、この線に沿って、辰砂が出来る好条件が整ったのでしょう。
辰砂は赤い顔料となる主たる材料で、古代から赤い色は珍重されてきました。古墳などを丹で彩ったように、古代の人は赤い色に魔除けなど呪術的な力を感じていたようです。
この辰砂を砕き、加熱すると水銀が気化し、それを冷却したものが液体の水銀です。水銀は、不老長寿の妙薬と信じられていた時代があり、秦の始皇帝はこれを信じて飲んでいたとか――。ほかにも、防腐剤・火薬・鍍金などの材料としても、水銀は古代から重要な産物でした。

丹生の水銀は縄文から

この辺りの水銀鉱は、櫛田川のほとり・多気町丹生に集中していました。この鉱脈の歴史は古く、縄文時代にはすでに採掘されており、近くの遺跡からは辰砂で彩色を施した縄文土器なども発掘されています。奈良時代には、大量の水銀が採取されていたようで、奈良の大仏鋳造の際には、そのメッキに使用された水銀は多くが伊勢国産であったといわれますし、平安時代の終わりごろには、大量の水銀が伊勢国から後白河上皇に献上されています。また、丹生には日本で唯一の水銀座が組織され、それには神宮の祭主である大中臣氏や朝廷の中心になる摂関家も関わるなど、丹生の水銀は、日本の経済全体に大きな影響力を持つ規模であったのです。現在、坑道入口や精錬装置などが再現されていますが、水銀採取はいろいろな所から行われていたそうで、野原にぽこぽこと掘られた穴が今も残され、歴史の長さと採取量の多さをしのばせます。

平安後期の説話集『今昔物語』には、〝京と伊勢の国を行き来するみずがね商人〟の物語が出てきます。非常に裕福な商人で、盗人の多い鈴鹿の山を、わずかな少年たちだけを供に、たくさんの馬に荷物を積んで行き来していたので、周囲の人は盗賊に狙われるだろうと心配していました。あるとき、当然というべきか、強盗団に襲われます。すると、大きな蜂の群れが飛んできて盗賊たちをやっつけたので、彼は強盗たちの貯めた財宝も得ることが出来、一層裕福になりました。その商人は日ごろから酒を醸して蜂を養っていたので、いざというときには助けに来たのです。蜂すらも恩を忘れはしない――という、不思議な話です。
本文には、「伊勢の国は、極き父母が物をも奪取り、親き踈きをも云はず、貴きも賤きも簡ばず、互に隙を量て魂を暗まして、弱き者の持たる物をば憚らず奪取て、己が貯と為る所也」と、ひどい書き様をされているのはいかがなものかとは思いますが、当時の人々に、「豊かな水銀商人」といえば「伊勢の国」というイメージが浸透していたのがよく分かります。また同じ『今昔物語』には、伊勢の飯高の男が、朝廷に奉るための水銀掘りの労役に行かされ、落盤に遭って閉じ込められたけれども、日ごろの信仰のおかげで助けられた、というお話も載っています。平安びとにとって、水銀といえば伊勢の国=丹生の産物という図式が常識だったのです。

空海は〝山師〟だった?

水銀鉱とセットのように、中央構造線上に散らばるのが、弘法大師・空海の伝説と、水銀の女神・丹生都比売命(にうつひめのみこと)をお祀りする神社です。空海は、鉱山技師とも言えるほど鉱物についての知識も深く、修験道と密教の煉丹術についても熟知していました。各地に、空海が杖を突き立てた地面から泉や温泉や鉱物が出た、というようなお話が残ります。空海はそういう知識と人脈を持っていたのでしょう。その空海と、代々水銀に関わる技術を持ち、朱を追って中央構造線上を旅した丹生一族の動向は、空海の即身成仏に水銀がどう関わっていたのかまでを絡めて、歴史ファンならずとも興味が沸く物語でしょう。
丹生のまちにも、「丹生の御大師さん」と親しまれる丹生山神宮寺成就院と、その敷地内に丹生の神社があります。神宮寺は、宝亀5年(774)に空海の師・勤操大徳によって開山され、弘仁4年(813)の空海の来訪時に七堂伽藍が整備されたという古い由緒を持つお寺で、「女人高野」として古くから多くの信仰を集めました。現在、神社が丹生神社、丹生中神社、丹生都姫神社と3社になっているのは、長く続いた神仏習合の時代と明治の神仏分離を経た複雑な歴史によるのでしょう。
静かな田園風景の中に、立派な山門や大師堂へと続く石段とその横にある回廊、睡蓮の咲く池など、往時の賑わいが感じられる景観が見事です。丹生のまちは、水銀による豊かな家々が多かっただけでなく、和歌山別街道が通り、熊野と伊勢を繋ぐ要衝としても、御大師さんの門前町としても栄えていたのです。

写真左 丹生大師 山門
写真右 丹生大師 睡蓮の茂る池越しに伽藍を見る

伊勢白粉は水銀から

櫛田川下流の射和を中心に、水銀を材料に「軽粉」という伊勢白粉が作られるようになり、それは、室町から鎌倉時代に最盛期を迎えました。鉛を原料としたものや質の悪い水銀をつかった白粉とは違う高級品として、神宮の御師たちが伊勢国の名産品として全国に運び、有名になったのです。これは、周辺の人々に大きな富をもたらしました。水銀を肌に塗るなんて…と、現代人は恐怖を感じますが、当時、細やかな粉は白くキラキラと輝いて、魅惑的だったのでしょう。
江戸時代に入る頃には、丹生の水銀の採取量は下がっていくのですが、それでも軽粉の生産は続いていましたし、そのころには、丹生や射和や中万などの商人は、充分な財産を蓄え、城下の商人もろとも、江戸幕府の経済振興策に乗って江戸に進出し、松阪木綿を中心としたさまざまな商品を扱い、金融業などにも商いの幅を拡げていきました。
丹生の豪商の一つに永井家があります。屋号を梅屋といい、金融業などを手広く商い、北畠家や織田家とも取引のあった大商人なのですが、この家の娘・殊法が松阪の三井高俊に嫁ぎ、江戸時代初頭の元和8年(1622)、三井高利を生みます。松阪商人を代表する越後屋を開き、発展させた人です。松坂城下の商人たちの発展も、周辺にあった大きな財力や人脈を持った商人たちに依るところも大きかったでしょう。

櫛田川は、川の中に巨石があったり、大きく蛇行していたり、景観も変化があって楽しいですし、人の暮らしと深く関わって、古代からいくつもの物語を生んできました。澄んだ水は水量も多く、魚も豊富。鮎釣りの川としても親しまれています。子どもの頃、櫛田川沿いに鮎専門の料理屋さんがいくつかあり、夏になると涼と美味を求めて家族で行ったのが思い出されます。
川風に吹かれながら食べる鮎は格別。久しぶりに、鮎、食べに行きましょうか。

写真左 射和の町並み
写真右 中万の町並み

ぷらっと松阪 不足案内2023.08.15

プロフィール

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集