COLUMN

12, 松阪自慢をする人は

学者は行動する

 学問の中には、紙と鉛筆があればよいという分野もある。
さしずめ古典研究なら、松を渡る風の音しか聞こえないような静かな書斎で、古人と対話するのだから、文机に本と硯か・・・
その傍らに、大好きな山桜を活けたら、宣長四十四歳像の完成だとなるのだが、残念!そう言うのを宣長は全否定する。

手っ取り早くは『玉勝間』をご覧頂きたい。
私は静かな住まいより賑やかな町の方がよい(巻13「静かなる山林を住みよしといふこと」)と明言し、

住むなら京都四条烏丸辺りが理想か(巻13「おのが京のやどりのこと)と宣い、

学問は師の説との戦いだ(巻2「師の説になづまざること」)とも言い切る。
常識的な「古典研究者」の枠に入る人ではない。

それにしても、四十四歳の宣長の姿は、静かである。
「明鏡止水」
曇りのない鏡と、静かにたたえた水のような心の平静さを言う言葉だが、

宣長には全くそぐわない。

「宣長のドラマは総てその心の中で起こっている」と、言うではないか。

                      「本居宣長四十四歳自画自賛像」(部分)

松坂は学問するのに最適な町だった?

 『古事記伝』は、『古事記』の注釈である。
「注釈」とは、水をかけて、固い地面をやわらかにするように、

難しい本文の意味を易しくすることだと言う。
宣長は伝手(つて)を頼って諸書を博捜し、旅人には各地の風俗習慣を問い、

その話す言葉にも注意を払いと、あらゆるものを総動員して古代文献に挑む。
片端から集めた資料は手際よく整理され、著作として再構築、つまり〈編集〉される。

 そのような作業に「松坂」はうってつけの町だった。
気候は温暖で、五月蠅い侍は居てもその数は知れている。
各地の情報はリアルタイムで入ってきて、何より

 《食べ物がうまい》
行動の束縛が少なく、美味しいものが食べられたら、自然と人は集まる。

すると情報も集まる。情報は人の背に負われて伝わるものだから。

松坂の食自慢は、倭姫命の時代から

当地の食事の豊かさの記述は、遡ること2000年前、倭姫命の巡行の記録にも登場する。
堀口裕世さんの「ぷらっと松阪 不足案内」8月は、

川の流れと構造線

だったが、そこで引かれた『倭姫命世記』は、天照大御神をお祀りするよき場所を探す、姫の長い旅の記録である。

垂仁天皇即位22年、命は飯野の高宮に遷られ4年間を過ごされた。

堀口さんが紹介されたのはその時のことである。

実はそこには、こんな話も載っている。
倭姫は、その地に住まう飯高(いいたか)の県造の祖・乙加豆知命(おとかづちのみこと)に、

「お前の国の名前は何というのか」とお尋ねになられた。

乙加豆知命は、

「意須比飯高国(おすひ・いいたかのこおり)」

と申しますとお答えし、天照大御神に神田と神戸を奉った。

すると倭姫は、

「飯高しとは、尊い名前である」

とお悦びなさった。とある。

 

「意須比」は「おすひ(い)」と訓み、飯高に係る枕詞である。
今の『倭姫命世記』の諸注釈書で「いすひ」と読むのは間違い。

ム、ム、ム、宣長たち近世国学者の研究の成果は活かされていない。

『古事記伝』巻11に、

「倭姫命世記に、意須比飯高国とあるのは、食器に物を盛ることを、よそふ(余曽布)ともおそふ(意曽布)とも言い、そこから、おそひたる飯の高しと云う意味で使われた枕詞である」

と書かれている。器によそった御飯がうずたかい、山盛りだと言う意味だ、と宣長は考えた。

『倭姫命世記』(本居信郷写本)

                    『倭姫命世紀』「意須比」(本居信郷写本)

宣長のやたら長い署名

古代から今の松阪一帯を「飯高(いいたか)郡」と言った。

その枕詞の「意須比(おすひ)」は、宣長のお気に入りだったようだ。
晩年には紀州徳川家から扶持米をもらうようになったが、それまでの宣長は一人の町医者である、

署名は「本居宣長」とか、号「春(舜)庵」などと書けば足りる。

ところがである。今でも名刺や芳名録の署名に色々な役職名を書く人もいるが、

宣長も一時期、妙に長い名乗りに凝ったことがあった。
次の署名は、何れも写本や校合本の奥書に記されたものである。

宝暦元年(22歳) 義兄死去で江戸に下向。帰宅後7月、家督相続。
12月上旬「伊勢意須比飯高住本居栄貞」(『大日本天下四海画図』袋題)
宝暦2年(23歳) 4月、医療修行のため上京
11月21日「神風伊勢意須比飯高/華風子本居栄貞」(『枕詞抄』※追記の可能性あり)
宝暦3年(24歳) 10月25日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『古今集序六義考』)
11月19日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『讃岐典侍日記』)
宝暦4年(25歳)  3月 2日「神風伊勢意須比飯高/本居栄貞」(『古今余材抄』)
宝暦5年(26歳) 3月末つ方 「神風伊勢意須比飯高/清春庵本居宣長」(『武者小路儀同三司謌』)
宝暦6年(27歳)  6月 2日「伊勢飯高/春庵本居宣長」(『春秋左氏伝』)
7月26日「神風伊勢意須比飯高/本居春庵清宣長」(『日本書紀』)
宝暦7年(28歳) 10月、帰郷。医者を開く。
5月 9日「神風伊勢意須比飯高/蕣庵本居宣長」(『万葉集』)
6月 8日「神風伊勢意須比飯高/清蕣庵」(『潅頂唯授一子之大事』)
宝暦14年(35歳) 正月、『古事記』研究に着手。
正月12日「神風伊勢意須比飯高/春庵本居宣長(花押)」(『古事記』)
明和2年2月晦日「神風伊勢意須比飯高郡/蕣庵本居宣長(花押)」(『紫家七論』)
『紫家七論』奥書署名

                             『紫家七論』奥書署名

 「意須比飯高郡」に伊勢国、その枕詞「神風の」も付ける。満艦飾である。
使用は在京中に多い。長い肩書きはステータスの証かもしれないが、

宣長の場合、中根道幸さんも指摘するように、

私は「伊勢人」、「松坂」の住人だという自意識の現れであろうことは明らかだ。
京の町、下宿の机の前で一人で自分の存在を確認しているのだろう。

長く書きたい、いっぱい書かないと自分の影が薄くなると感じる、そういう時期が宣長にもあったのだ。

 突拍子もない連想だと笑われるかもしれないが、

まさに同時期、奇想の画家・曽我蕭白の署名も長い。

「群仙図屏風」(文化庁蔵)の右隻には、
「従四位下 曽我兵庫頭暉祐朝臣 十世孫 蛇足軒蕭白, 左近次郎 曽我暉雄 行年三十五歳筆(花押)」
とある。どうやら従四位下だった人の十代目の孫でと言うことのようだが、

よく分からぬほど長い。

さて「蕭白35歳」という年令から、この「群仙図」が明和元年の作だということが分かる。

つまり宣長の『紫家七論』署名の前年である。
といって宣長と蕭白、二人の間に何か関係を見出そうというのではない。

明和元年、蕭白は伊勢松坂を再訪し、柳屋に入り込みやりたい放題だったのだろう、

散々な噂を振りまき、その代わりにといっては何だが、「雪山童子図」(岡寺山継松寺蔵)を遺していった。
宣長もきっとこの奇怪な画家の噂は耳にし、きっと町のどこかではすれ違っていたはずである。

「群仙図屏風」署名

                               「群仙図屏風」署名

 

「蕭白と言ふ画師来ル、是も柳屋へ入込ミしか余り異形のふるまい故いかふはやらず」

  『宝暦咄し』森壷仙

蕭白もまた、食い物に釣られてこの地を訪うた一人ということになる。

松坂自慢

松坂に生まれ、この町で生涯の大半を過ごした本居宣長が、

最晩年に「伊勢国」という文章を残したことは既に触れた。

伊勢国、とりわけ松坂の地の素晴らしさと、若干の不満も含め、

この土地への感謝の念を込めた「国誉め」である。

宣長がこれを書く20年ほど前、やはり松坂の篠川恒斎は『松坂権輿雑集』に跋文を添えた。

この文章もまた、松坂への風土を称える文章である。

 恒斎の文章紹介の前に、まず、『松坂権輿雑集』について説明しておこう。
この本は、松坂の歴史の基本文献である。

 過去には単行本も出て、また『南紀徳川史』にも載せるが、現在は『松阪市史』史料篇・第9巻でみるのが便利だ。
全11巻だが、写本では全3冊にまとめられることが多い。

 今、松阪の旧市街地を歩くと町を歩くと、町名や小路の名前を書いた木の標柱が立っているのに気づくだろう。

その脇に、町名のいわれなどが書かれているが、その多くはこの本から採っている。

「松阪の街角に立つ標柱」

                                            「松阪の街角・観音小路に立つ標柱」

 島川安太郎の『松阪の町の歴史』(1965年)という本はなかなか便利な本だが、

やはり旧市街地にかかわる記載はこの『権輿雑集』の引き写しである。

『本居宣長全集』の補注もまた同じである。
標柱を立てた市や、また島川氏だけを引くのは不公平なので書き添えるが、

服部中庸『松坂風俗記』に私が注を付けた時(2011年)も、補注の多くは『権輿雑集』に依存した。

『松坂権輿雑集』の著者は久世兼由。

紀州藩の役人、松坂殿町同心町に住む松坂町奉行組同心である。

松坂町のことを一番よく知りうる役柄である。
「輿」は「與」と間違う人が多い。要注意。

読みは「よ」だが、担ぎ上げるという意味である。お神輿(みこし)だ。

今は「世論」と書くことが多いが、世間一般の意見という意味のヨロンは「輿論」と書いた。
「権輿(けんよ)」は、物事の始まりを意味する。

つまり、松坂の始まりからの色々な話を集めた本である。

宝暦2(1752)年の序が付く。

先にも触れたが、この年の4月、宣長(23歳)は医療修行のため上京、松坂を離れた。

なにしろ便利な本なので、写本が多く、またかなり大きな異同もあるが、

篠川恒斎(ささがわこうさい)の跋文はその一本に付いている。

この跋文で恒斎は「松坂自慢」をするのだが、

一読、宣長も真似たかと思うほど、「伊勢国」と視点は重なっている。

篠川恒斎と本居宣長。

この町に住み、知り尽くした二人の知性が、揃って松坂自慢をする。

では今、松阪市民でこれほどの我が町「松阪」を誇ることが出来る人はいるだろうか。

この話は次回に続く。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.09.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数