COLUMN

第二回 松坂城を造る

「松坂城経営の事」

悦:吉田悦之 ほ:堀口裕世

ほ:一番最初は、「松坂城経営の事」ですね。ちょっと長いので五つに分けて読みます。まずは初めの部分です。

松坂城は、天正年中(1574-1592)、蒲生飛騨守氏郷、松ヶ嶋城を引き移す。未だ全からず。
慶長年中(1597-1615)、古田兵部少輔重勝、再興造営す。
慶安年中(1649-1652)、石壁、屯口、要害など之を補い為されし由。

悦:題の「経営の事」ですが、本来、経営とは建物を建てるために土地を測量し、土台を築くことです。つまり「松坂城築城のこと」という意味ですね。

ほ:「会社経営」とかの「経営」ではないのですね。松坂城は、氏郷が松ヶ島の城を移築したが、未完成のままだった。これは氏郷が奥州会津に移ってしまったためですね。慶長年中に古田重勝が再興、造営する―― あれ?氏郷の次の城主がとんでいますね。たしか古田は三番目の城主でしたよね。

悦:後から出てきますが、二代城主となった服部一忠は、城主だった期間も短く、松坂城整備への貢献度はゼロだから、ということです。

『松坂権輿雑集』に付けられた「松坂図」『校本 松坂権輿雑集』(桜井祐吉編)に付けられた「松坂図」
画像提供「本のきもち」

開府以前のこの辺りは

ほ:氏郷が松ヶ島に来る前にさかのぼると、永禄12(1569)年に織田信長が伊勢に侵攻し、伊勢国司・北畠具教(とものり)の大河内城を攻め、40日に及ぶ激しい攻防戦の末に和睦、信長の次男・信雄が北畠具教の養子となったのですね。吉田さんのご先祖も大河内城で戦った武士だったのでしょう?

悦:戦ったと言うより、きっと逃げ回っていたか、兵糧攻めにあって腹を空かしてぼんやり座っていた口でしょう。攻める織田勢は、7万騎とも8万騎ともいわれています。しかも合戦で一旗揚げようと目をぎらつかせた奴らですからとても戦にはなりません。その攻める織田勢の中に14歳の蒲生氏郷の姿もありました。初陣だそうです。だから私は氏郷が大嫌いです。

ほ:500年になんなんとする怨みとはすさまじい…。ともかくも、時代は天正年間(1573~1592)に入り、その前半は織田信長の時代になりますね。信長は、天正元年、越前一乗谷の朝倉氏を滅ぼし、翌2年、伊勢国長島の一向一揆を鎮圧します。

悦:殺戮ですね。皆殺しです。

ほ:ご先祖の怨み骨髄に…ですね…え~と、この時、長島を逃れて松ヶ島辺りにやって来た人もいたみたいだということでした。

悦:当時は「松ヶ島」ではなく「細頸」と言っていたかもしれません。それはともかく、天正4年、隠居していた北畠具教が今の多気郡大台町にあった三瀬の館で謀殺されます。

ほ:三瀬の変といわれるものですね。

悦:その後もわずかな小競り合いはありましたが、やがて伊勢国司北畠氏は歴史の表舞台から消え去ります。そして、北畠氏の養子となった信雄は大河内城から田丸城へと居を移します。もともと北畠氏の城があった所ですが、大河内城を解体し、その材で三層の天守を作ったとか。

ほ:和睦のあかしとして養子になり、乗っ取るって、感じの悪いやり方ですね。田丸城は大河内城の廃材で築城したのですか…。田丸は、松阪からJR線で伊勢に向かう途中の度会郡玉城町です。田丸駅のそばに城跡の石垣が見えますね。ここは、朝日新聞の創業者・村山龍平さんの生まれた町で、茶人で俳諧もよくした金森得水ゆかりの茶室・玄甲庵もあります。徳川の時代になると、田丸は松坂と同じ紀州藩領となりますから、後の時代も関わりがありますね。

悦:その田丸城が天正8(1580)年に焼失しました。そこで信雄――もう北畠は滅んでいますから、織田を名乗っていたでしょう――は、新たに交通の要衝・細頸に城を築き、松ヶ島と名を改めました。

ほ:「松ヶ島」は、信雄の時代につけられた名前だったのですね。

悦:傍には海、そこに堀を巡らす水城です。その石垣の上には、五層の天守がそびえていました。

ほ:めまぐるしく動く時代で、とてもややこしいですね。1582(天正10)年6月、本能寺の変で、信長は明智光秀に討たれてしまいます。この時、近江の安土城にいた信長の家族をかくまったのが近江日野の蒲生賢秀とその子の忠三郎、後の氏郷でした。その功績により氏郷は、天正12(1584)年6月13日、近江国日野から松ヶ島城に所替えとなります。石高は12万石です。

悦:信長亡き後の勢力争いの舞台となったのがいわゆる「清州会議」ですね。三谷幸喜監督で映画にもなりましたが、この会議の日に発給された氏郷宛の安堵状が残っています。

 氏郷宛「安堵状」 本居宣長記念館蔵氏郷宛「安堵状」 本居宣長記念館蔵

悦:これが「蒲生氏郷安堵状」です。日付は、まさに清洲会議の日です。本能寺の変の論功行賞ですね。そこで氏郷が所領を拝領したということは、功績有りと認められたということです。

ほ:どこの領地をもらったのですか。まだ松ヶ島ではないですよね?

悦:この時はそれまでの所領に合わせて加増されただけです。取り敢えず、働きが認められた、そして少し落ち着いたときに転封(てんぽう・国替)が行われます。

ほ:すばやくご褒美を出したのですね。

悦:この書状は、小津茂右衛門家から松阪市に寄贈されたものです。市の文化財に指定されてからも、清洲会議のまさにその日に出されたなんて、ちょっと嘘くさいねという声もあったのですが、古文書学の権威・永島福太郎博士から、特に疑うべきところはない、というお墨付きを頂き、こちらも安堵したわけです。

ほ:蒲生家から、経緯は不明ですが小津家に着地した書状ですね。読めないけど花押が並んでいてなんとなく立派です。

悦:読んでみましょう。

「南郡佐久間分内を以一万石、全可有御知行状、如件、
天正十、六月廿七日、
羽柴筑前守秀吉(花押)、惟住五郎左右衛門尉長秀(花押)、池田勝三郎恒興(花押)、柴田修理亮勝家(花押)
蒲生忠三郎殿」

ほ:秀吉以下実力者が勢揃いですね。はじめの「南郡佐久間分」は所領地ですか?

悦:信長に追放された佐久間信盛の旧領、近江の南郡(野洲郡、粟田郡)ではないかといわれています。たかが一万石の安堵状ではありますが、どのように読み解くか、解釈はまだまだ議論がありますね。

ほ:それも一級資料の証なのでしょう。

悦:全くその通りです。

ほ:本能寺の変での対応が評価されたというところが大事なのですね。氏郷のことは、次の「蒲生飛騨守氏郷之事」で出てきます。ところで、いくつかの写本には、

「或書に云う。国司具教卿永禄(1558‐1570)ノ末ニ信長ノ軍勢ヲフセガンタメニ、マヅ殿舎ヲ飯高郡細頸ニツクリタマヒ、城郭ヲ大河内ニカマヘタマフト、コレ松カ島ノハジマリ也、同12(1569)年日置大膳亮之ヲ自焼ス」

ほ:と書入れがありますね。信長の侵攻に備え北畠具教は上多気(かみたげ・津市美杉町)の霧山城から、大河内城に居城を移し、家臣の日置大膳が防御のために細頸に殿舎(砦)を作った。これが松ヶ島のはじめということですね。ですが戦況不利となり、日置大膳は城を敵に取られてはならぬと、自ら焼き払い退城します。やがて兵火も収まり、その跡地に信雄が築城し、細頸改め松ヶ島としました、という流れでしょうか。

悦:この「いくつかの写本」ですが、具教が細頸に館を造ったと書き加えているのは2本ですね。いずれの本にも本居宣長が関与しています。だからこの記事は尊重したいですね。

ほ:「宣長の書き入れだからきっと重要だろう」とは、さすがに“宣長ファースト”が徹底していますね。

悦:そりゃそうですよ。宣長という人は透徹した歴史の目を持っていますからね。
この後、織田信雄は清洲城に移り、松ヶ島城は家臣・津川義冬に委ねられますが、津川は信雄に殺されて、また40日に及ぶ松ヶ島城攻防戦――とこの城を巡る状況は二転三転します。それだけ重要な場所だったということです。この間のことは、山田勘蔵先生の『蒲生氏郷小伝』、「時代の先端を行く松ヶ島城主」をご覧下さい。そして、天正12(1584)年6月13日の氏郷入城へと移ってゆくのです。

氏郷のまちづくり

ほ:ややこしい時代を経て、ようやく氏郷がこの地に来ます。氏郷はすぐに新しい城の準備に着手しますが、新しいまちづくりを構想していたのでしょうか。

悦:ご明察の通りでしょう。単に戦に勝てばよいではなく、その後の平和な時代となってからまで見据えた構想を持っていたのでしょう。

ほ:宣長の「透徹した歴史を見る眼」とか、氏郷の「将来を見据える眼」とか、偉業を為すには、やはり見る眼が大事なのですね。

悦:そのためにも歴史に学ばねばならないのです。「細頸」は「細いくび」という地名の通り、もともと土地が狭いところですから、沿岸整備や河川改修を行わないと氏郷の構想に見合う大きな図面は引けませんね。それに、入城した翌天正13(1585)年11月29日、大地震がありました。震源は越前の白山付近と推定されていますが、伊勢湾沿岸でも被害が出たようで、それも移転の引き金になったかもしれませんね。

ほ:松ヶ島城は海のそばだから津波や液状化による被害もあったでしょうね。

悦:ただ、海が近いことと河口は水運ではメリットがありますね。

ほ:新しい松坂の地は、災害のリスクは避けられても物流面では問題が残るわけですね。

悦:本居宣長の指摘するこの町の欠点の一つ「船のかよはぬ」は、この松坂城移転から始まっているのです。

ほ:そういうあれこれを経て、天正18(1588)年、松坂城は一応出来ました。でも、「未全(未だ全からず)」。完成しなかったとあります。

悦:松坂開府前年の天正15(1587)年には、京都で北野大茶会が開かれます。また、戦も続いています。茶の湯はやらなきゃならぬ、戦には駆り出される、氏郷もてんてこ舞いですから、築城に専念できなかったでしょう。そうこうしているうちに、こんどは小田原の北条氏を攻めるというので出陣し、そのまま会津若松に移封されてしまいます。

ほ:氏郷は、天正12(1584)年6月に松ヶ島に入城し、同18(1590)年8月には会津に行ってしまいますから、領主だったのは6年余り。松坂城には2年しかいませんね。そのあと、先ほどの服部一忠で、でも、どうやら名前だけだった。続いて古田重勝とその弟の重治が三代、四代城主となりますが、本書では「古田兵部少輔重勝、再興造営す」と書かれています。

悦:「再興、造営」ですから築城工事を引き継ぎ完成させたということですね。古田兄弟の頃に、お城も、また町も形が整ってきたようです。

ほ:古田兵部少輔重勝の読み方は「ふるた・ひょうぶ(の)しょう・しげかつ」でいいですか。

悦:それでよいと思います。「兵部」や「少輔」については役職名か官位のようですが、誰からいつ頂いたものか、よく分かりません。「兵部」は、室町時代の辞書『伊京集』には、「兵部、ヒャウブ、兵部大輔、兵部少輔、兵部卿已上三之唐名。兵部(ヘイホウ)」とあります。「唐名(からな)」といって、中国の官名です。有名なところでは、平清盛の「相国」は太政大臣の唐名ですし、徳川光圀の「黄門」は中納言の唐名です。一般の武将の場合は、軍事を司る兵部省にあやかって武士っぽい名乗りをしたのでしょう。一般には「古田兵部重勝」なんて言ったりしています。古田重勝のことは、あとで出てきますのでそちらで話しましょう。

城を修理したり壊したり

ほ:はい。武士の名前もややこしいですね。では次の「慶安年中(1649-1652)、石壁、屯口、要害など之を補い為されし由」ですが、「慶安」といえば、古田時代どころか、紀州徳川家の領地になった1619年からでもずいぶん時間がたっていますね。

悦:よく気づかれました。この「松坂城経営之事」は用心して読まないといけません。このあとに「一国一城之御制禁」が出ますが、これが発令されたのは1615年ですから、古田重治時代となります。つまり年代順には書かれてはいないのです。

ほ:褒められちゃいました。さて、「石壁、屯口、要害を補修したそうだ」ということですが、一応古田時代に完成していたけれど、さらに強固な造りにしたということでしょうか。また、この時の補修が具体的に松坂城のどの部分かわかっているのでしょうか。

悦:わかりません。「石壁」は石垣でしょうが、「屯口」とか「要害」がどこを指すのかもわかりません。既に「一国一城令」も出て、しかも紀州徳川領として安定していたのに。兵隊が屯(たむろ)する、つまり兵隊溜まりみたいなものや、実戦に備えるかのような新たな要害を造ることは、ちょっと考えにくい。きっと不十分なところを「修理をしたそうだ」ではないでしょうかね。

ほ:慶安年中(1649-1652)のことですから、貞享4(1687)年生まれの筆者・兼由は伝聞でしか知らないわけですものね。では次に進みます。なかなか進みませんね。さくさく行きましょう。

大手門側から見た松坂城の石垣大手門側から見た松坂城の石垣

台徳院殿公御治世の御時、一国一城の外ご制禁によりて、御本丸の御殿、御天守、御門、櫓、これを掃はるる由に語り伝ふ。

台徳院殿というのは二代将軍徳川秀忠(1579ー1632)のことですね。在位は1606年から23年。関ヶ原の合戦に遅れて父・家康に叱責されたりして頼りない感じですが、将軍職に就いてからは広島城を勝手に修理したと福島政則を改易するなど、41の大名を粛正しました。強権発動していますね。

悦:秀忠が出した「一国一城令」というのは、幕府が諸大名に対して、居城以外の城は破却するように命じたものですが、発令された慶長20(1615)年の時点では松坂城は古田の居城なので、何も問題はなかったはずです。古田はここしか城を持っていませんから。

ほ:混乱を招く記述の仕方ですね。昔の人には時系列という考えがなかったのかしら。

悦:しかし、紀州藩領となると状況は変わります。気になるのが紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣(1602‐1671)です。一説には、謀反の嫌疑で、長く江戸に留め置かれていたとか、由井正雪の乱に関わったなど兎角噂がある殿様なので、あるいは城の機能を作為的に低下させた、つまり「これを掃はるる」ということも、なかったとは言えないですね。ただ、ここに書くように本丸御殿や天守閣、門、櫓(やぐら)が取り壊されたという事実があったか否かはわかりません。

ほ:徳川頼宣は家康の十男で、元和5(1619)年に紀州藩の初代城主になりますね。謀反を起こすかもしれない危ない殿様だったのですか。それで、古田の時代ではなく頼宣の時に城の力を下げるような工事が行われたのかもしれない、と。幕府に忖度して、謀反の意思がないとアピールしたのかな。

悦:幕府の見方と、家臣の見方は当然違いますからね。頼宣のことは後の「国君御代々之御事」でもう一度考えましょう。

ほ:はい、松坂城址には初代藩主をお祀りした南龍神社がありました。勢州松坂会のメンバーでこの神社のことを調べている方がいますね。

天守閣が風で飛んだ!?

ほ:それはそうと、松坂城の天守は大風で飛んだと聞きましたが。

悦:それはどうやら事実です。1644(正保元)年7月29日に大風、たぶん台風でしょう、で毀れたと記録にあります。大事なところなのでちょっと読んでみますね。

「天守土台、平山城【八間四方、但地形ニ而拾間四方】【東南石垣高弐間西北石垣高三間】是ハ三重之天守申ノ七月廿九日大風ニ吹こほち土台計如此」

悦:史料名は『勢州飯高郡ノ内松坂城町絵図下帳』で、『松阪市史』史料篇(近世1政治)に載っています。「市史」ではこの文書の作成は正保4(1647)年頃かと推定しています。正保年間には全国の城の調査が行われているので、まず間違いないでしょう。

ほ:へ~、松坂城は三層の天守だったのですね。「土台ばかり」とは無残ですね。「申の七月二十九日」とありますが、正保元(1644)年が甲申年で、その7月29日となります。

悦:この史料には、かなり詳細に松坂城の様子が記録されています。またこの大風のことはやはり市史の「自然篇」にも出ていて、松坂城天守倒壊についても触れられています。

ほ:では、それまで天守閣はあったのですね。そういえば、勢州松坂会で、「伊勢国松坂古城之図」(正保ごろ成立)には、天守台に天守はなく、本丸には五つの櫓が描かれているという情報がありましたね。

「伊勢国松坂古城之図【正保城絵図】」『松坂市史』より「伊勢国松坂古城之図【正保城絵図】」『松坂市史』より
本丸には何もなく、櫓が5つある。
 現在の天守跡 天守閣はいつまであったのか…現在の天守跡 天守閣はいつまであったのか…

城のない町

悦:梶井基次郎という作家がいますね。「檸檬」という珠玉の短編を残しています。

ほ:京都の丸善には、今もレモンが置かれているそうですね。

悦:そこに置かれたスタンプを、私もノートに捺してきましたよ。それはともかく、彼は病気療養のために松阪でひと夏を過ごしています。1924年、大正13年です。

ほ:関東大震災が大正12年で、たしかこの年、小津安二郎が代用教員を辞めて上京してますね。

悦:そうです。安二郎と基次郎は、一年違いではありますが、同じ松阪の町を見ていることになります。話が横道に逸れましたが、梶井基次郎の「城のある町にて」はその松阪の心象スケッチともいうべき佳作です。

ほ:松坂城址には、その冒頭を刻した文学碑もありますね。

悦:ここではその話に深入りすることはしませんが、梶井に注文を加えるならば、はたして松阪は「城のある町」なのでしょうか。

ほ:松阪は「城のない町」だったというのですか?

悦:というのも、この天守が飛んで行った翌年から、松坂商人の江戸進出が本格化されていくのです。本居宣長の生まれた小津家もその一軒です。城下町として誕生し、天守倒壊の後、商人の町へと大転換を遂げるのです。

ほ:お城が風で飛んでしまったのはなんとも情けない話ですが、武力から経済力へ、松坂というまちを動かす力の象徴ととらえると、面白いですね。

月見櫓跡にある「城のある町にて」の石碑月見櫓跡にある「城のある町にて」の碑・隣の小さい木は檸檬!

壊れた天守をリサイクル?

悦:先に触れた南龍公頼宣で囁かれる不穏な噂もですが、もう一つ、城にまつわる気になる記事が、『松坂権輿雑集』第三の「本町」のところで出てきます。鈴本甚右衛門、豪商・伊豆藏の項です。

ほ:勢州松坂会の幹事の西村欣也さんは伊豆蔵の末裔ですってね。びっくりです。おかげで、今では伊豆蔵というとなんだか知り合いのような親近感です。

悦:そこにこんな話が出ています。寛永12(1635)年から翌年にかけて伊豆蔵が豪邸を建てたので国君、つまり紀州藩主が「どれ見に参ろうか」と思し召し、まず先遣隊として代官の長野九左衛門清定が下見に訪れた。長野が帰ったその夜のこと、にわかに火事が起こり、さしも豪邸もあわれ灰燼に帰したとあります。さらに、「正保元申(1644)年」ですから9年後ですね、天守閣が大風で飛んだ直後の「八月十七日、国君御宿城之刻、先年夥しく作事仕り候処、不慮の仕合、不便に思し召され材木下し置き為されし段、三浦長門守某に仰せ渡され」とあるのです。松坂滞在中の藩主は、「気の毒なことだ」と材を下賜するように家老・三浦長門守に命ぜられたというのです。このときの藩主は初代・頼宣ですね。

ほ:天守閣が倒壊した直後に藩主は松坂にいたのですね。紀州徳川家の殿さまは、ちょくちょく松坂に来ていたのでしょうか?そして、伊豆蔵に下賜してやろうという材は、もしかして天守の廃材ですか? 気の毒だし、ちょうど天守閣も壊れてしまったから、これを使ったらいいでしょう、という感じかな。

悦:天守以外にも各地で大きな被害が出たので、被災地を視察に来られたのかもしれません。廃材の再利用の可能性もあるでしょうが…でも、わかりませんね。

ほ:当時の伊豆蔵の力とか、藩主とのかかわりの深さなどがしのばれますね。

潮田長助ってだれ?

ほ:さて、次を読みます。

『勢陽軍記』に曰く、元亀元年(1570)、潮田長助、四五百の森に城を築く。大乱の時は築かず、而して今此を築くは「跡辺」とて、人々笑いしと云々。一説に曰く、潮田長助は曽原天花寺越中守縁者にて、右越中守に力を勠せ、四五百森に新城を築き立て籠もる。曽原落城の由を聞き、長助四五百森を明け渡しけると云々

聞いたことのない人が登場しました。しかも、また時代が遡りますね。潮田長助は「うしおだ ちょうすけ」と読みますか?

悦:「ちょうすけ」では、松阪の人はうどん屋さんを連想するから「おさすけ」と読んでおきましょう。『勢陽軍記』という北畠氏の攻防を記録した本に潮田長助が、四五百の森に城を築いたのは大乱、つまり織田勢による南勢侵攻が終息してからであったので、皆は「跡辺(あとべ)」、後の祭りと笑ったそうだということですね。

ほ:元亀元年(1570)ですから、蒲生氏郷が松阪城を築いた天正年中(1574-1592)の直前ということになります。「跡辺」は戦国ジョークですか?四五百の森にそんな城があったというのも初耳です。

悦:続いてこんな話も記録されています。長助は曽原城の天花寺(てんげじ)越中守の一族で、「勠」(ろく・りょく)、つまり力を合わせて四五百の森に城を築いたが、曽原城落城と聞いてその城を明け渡したというのです。曽原城は、今の三雲地域振興局辺りにあった城です。城と言っても堀を巡らし天守がそびえるというようなものではなく、砦ですね。黒澤明の「隠し砦の三悪人」を観て想像してみて下さい。

ほ:大阪城や犬山城、安土城などのイメージとは違う“城”なんですね。津市上多気にあった北畠の霧山城や大河内城も同じようなものですか。

悦:規模の違い、また山の上か平野かの異なりはありますが、織田信長以降の城とは随分違います。むしろ佐賀県の吉野ヶ里遺跡が少し進歩した感じでしょうか。堀を巡らし木の柵で囲った中に館があるというものでしょう。

ほ:え~っ、弥生時代のムラみたいだったのですか。古代からあまり変化していなかったということ?

悦:現在も世界各地で戦火は絶えませんが、実際の最前線の陣地や塹壕もよく似たものですよ。

ほ:でも大河内城を解体して田丸城を作ったのでしょ。

悦:さすがに霧山城や大河内城は北畠国司家の居城ですから、それなりの材は使っていますが、多層の天守がそびえるというより、館でしょうね。そうそう、幕末ですが荒井勘之丞という人が「大河内城」の絵図を書いています。全くの想像図ですが、存外当たっているかもしれません。絵図をご紹介しましょうか?

ほ:う~~ん、先に進みたいので、その絵図はいずれまたお願いします。

悦:大河内城の合戦で和睦が終了しても、まだ各所で小競り合いは続いています。大河内城合戦から二年後、元亀2(1571)年、織田信意は天花寺越中守とその子の新左衛門が立て籠もる曽原城を攻め滅ぼしました。この時に、長助も四五百の森の城を明け渡したというのです。

ほ:立て籠もっていたとしても戦乱のどさくさで短い期間だったのですね。一方で、潮田長助には凄い話が残っていますね。次を読みます。

長助一家の怪力伝説

一説に曰く、潮田長助が父、潮田小五郎という者は、三州(三河)吉田(豊橋)辺りの農家の子なり。大木を曲げて腰を懸け、大竹を挫(くじ)きて帯とせし力者にてその名顕(あらわ)すと云々

長助の父・小五郎は三河国、今の豊橋あたりの農民で力自慢。大木をねじ曲げてそこに座ったり、太い竹を引っこ抜いて帯にするという怪力で有名だった、とあります。

悦:よくある怪力伝説ですよ。

ほ:ここにも註がありまして、いくつかの写本に以下のような付箋や書き込みがあるということです。

「『勢陽武鑑』に曰く、潮田長助、彼が父は潮田小五郎とて無双の大力なり。天花寺越中守と縁者たる故、力を合わさんために四五百森に新たに城を築き、立て籠もる。之に依り曽原城は弥(いよいよ)堅固なり。曽原落城の由を聞き、四五百城を明け渡しける。元来、潮田小五郎は三河国吉田辺の百姓の子なり。彼が母、或る時、宿願ありて下女一人連れ、鳳来寺の薬師へ詣で、細道を通り、飯米二俵牛に附けて来たり、坂中にて出合う。その節、小五郎母腹を立て、笠を下女に持たせ、米を附けたる牛の前足取りて引きかづき、坂を二・三丁下り、田の中にて下ろしける故、諸人、「牛負わす田」の女房と云ける。此の母参宮の時、其の子小五郎も母の力を継ぎ、九尺四方の家に母と妹の十七歳に成るとを入れ、世帯道具入れ負いて参宮しけり。雨降れば滞留し、止めば行き、下向に四五百森にて(今の松坂)北畠大納言友親卿この有様をご覧、大力の程御感あり、召し抱へたまひ、四五百森小城を預け給ふ。長助は小五郎が子なり。是も普通に勝れたる大力、今に其の末は残りて松坂に有ると云へり」

ほ:三河国吉田は、今の愛知県豊橋ですね。長助のお父さんもお母さんも怪力だったのですね。お母さんも米を背負わせた牛を担いで坂を下りたり、長助は家ごと持ち運んで、それが評判になって召し抱えられたと――。怪力伝説はお決まりとはいっても、これは盛りすぎかな、と思いますが…。そして「潮田」と「牛負わす田」の戦国ジョークも、かなり無理がありますね。

悦:「潮田」と「牛負わす田」、読み飛ばしていましたが、なるほどこれは洒落ですね。怪力伝説はたくさんあって、『権輿雑集』本町部に載るのも怪力無双の鎌田又八伝説ですね。

ほ:軍記には、こんな話も載せちゃうんですね。

悦:軍記やその元になったいくさ話、武辺咄は、単に経験値、経験談を伝えるだけでなく、娯楽としての側面もありました。ここで引く『勢陽武鑑』は、1721(享保6)年ごろ秀頼という人が書いた北畠関係の軍記のようです。

ほ:では本文に戻って進みましょう。

第5段「愚 按じて云く、飯高郡塚本村に潮田塚と云ふ所あり。潮田長助在所にて、死して爰(ここ)に葬る由に語り伝ふ。之を以て考ふれば、右長助は、塚本村の住士にて、四五百森に出張(でばり)しことも有るべし。しかれども、城を築くと云ふは不審、疑ふらくは事を好む人の加説成る可。故に、如何となれば、寛永十五戊丑(つちのえうし・正しくは戊寅・1638)年、神戸左衛門述ぶる所の「伊勢軍記」(蒲生家の士なり。船江に浪居す)、明暦二丙申(ひのえさる・1656)年、山中兵助記す処の「勢陽雑記」(藤堂家の士なり。津に居住なり)、右松ヶ島城を四五百森に移せし由を記して、長助初めて城を築く事を記さ不は、元来このこと無き故なるべし。」

悦:「愚案じて云く」は、私、久世兼由が考えるに、ということです。塚本村(松阪市塚本町)は、氏郷が付け替えた伊勢街道(参宮街道)沿いの集落で、ここが潮田長助の在所でここにある潮田塚は、彼の墓だという。だから長助は塚本村在住の実在の人で、四五百森に出陣しなかったとは言えないが、城を築いたというのは後の人が付け加えた話だろうと兼由は考えました。だから、氏郷の家臣だった神戸政房の記録をもとに、その子・良政が著した『伊勢軍記』(1638[寛永15]年成立)や、山中兵助の『勢陽雑記』(1656[明暦2]成立)に松ヶ島城を四五百森に移したことは書かれていても、長助が城を築いたことは記されてないのは、もともとなかったことだからだというのです。

ほ:潮田長助は実在したのですね。でも築城の話は怪しいと…それで、潮田長助のことは松阪の歴史としてはあまり知られていないのですね。やっと「松坂城経営のこと」が終わりました。次は「蒲生飛騨守氏郷の事」に進みたいと思います。長くなっちゃいましたね。これからますます長くなりそうです。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2025.05.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集