COLUMN

第12回 混沌の戦国時代を脱する

ほ:弥生・三月に入りましたね。この対談連載も、始まって一年経ちます。自然界は早春の野に出るのが気持ち良い季節ですが、今月も私たちは、江戸時代の松坂散歩を楽しみましょう。野原よりもある意味ワイルドですよね。ようやく、戦乱が終わって穏やかな時代に入り、古田家から紀州徳川家へ、城や城下の受け渡しという段階に入ります。でもその前に、今までの流れをおさらいしましょうか。主だった事柄をなぞりますと…

永禄12年(1569) 伊勢国司の北畠具教・具房親子と織田信長が戦う 北畠大河内城合戦
この時、蒲生氏郷14歳で初陣
天正12年(1584) 蒲生氏郷が松ヶ島城に転封 この年、秀吉の知行割発行
天正16年(1588) 氏郷、四五百森に松坂城を築城 この年氏郷、町中掟を発す
天正18年(1590) 氏郷が陸奥国会津に移封
天正19年(1591) 服部采女正一忠が松坂入府  (聚楽第に務めていて松坂にはほぼ来なかった?)
文禄4年(1595) 服部一忠、上杉家に預けられ切腹
文禄4年(1595) 古田兵部少輔重勝 松坂入府 (本人は江戸城築城に関わり、松坂は助左衛門が守る)
慶長5年(1600) 関ヶ原の乱 各地で戦乱 松坂にも木食などが来て混乱するが戦乱はなし?
慶長8年(1603) 徳川家康が江戸幕府を開く
慶長11年(1606) 重勝江戸にて病卒 養子・重恒幼少に付き、弟・重治が後見となる
元和5年(1619) 古田家、石州浜田へ移封 (重恒17歳の時に重治が身を引く)

ほ:ということでしたね。
古田氏が石見国に去ったあと、紀州徳川家初代・南竜公頼宣が松坂を支配することになります。

『松坂権輿雑集』 って、信じちゃってダイジョウブ?

悦:氏郷の松坂開府から31年後に紀州徳川家の支配地となり、いよいよ松坂は大躍進の時代を迎えるのですが、ここまで読んでみていかがでしたか。

ほ:この勢州会に誘っていただいたとき、「今から読む『松坂権輿雑集』は、松坂(阪)を知る基本資料です」というお話だったと記憶しますが、読んでびっくり、ずいぶん怪しいことばかりです。それに、私が幼いころから「これが松阪の歴史だよ」と聞かされてきた話とはかなり違うことが書かれているのに驚きました。

悦:この一年間読んできたところで、本書の価値をうんぬんしてもらったら、作者の久世兼由さんが気の毒だ。つまり、ここまでは開府から紀州徳川家の支配地となる前の話ですから、紀州藩の役人だった久世さんにとっては、与り知らぬ事。前の統治者、それもまともな記録も残す暇もなく去っていった時代の話ですからね。

ほ:久世兼由が生きた時代はもう落ち着いていましたが、ここまでの話は、町の創成期で、蒲生、服部時代は、まさに乱世の真っただ中でしたね。

悦:古田の時代、それも2代目の重治の頃かな、徳川家康の登場で、世の中が少し明るくなってきますが、それまでは真っ暗闇の中で戦っているようなもの、誰が敵なのか味方なのかもわからぬ時代です。記録とか歴史は、平和な御代の産物ですよ。その時代のことを、よくここまでまとめてくれたと感謝しないといけませんね。

ほ:攪乱戦術に、デマゴーグの飛び交う時代だから、この「権輿雑集」でも、ほら話かウソ話、聞きかじったようなお話が多いのですね。

悦:使われている史料で価値がありそうなのは、この連載の第4回で取り上げた「羽柴筑前守秀吉知行割之事」と、第5回の「蒲生飛騨守氏郷町中掟之事」くらいかな。

ほ:なんだその程度ですか。

悦:ただ、時代の大きな流れを知る上では、このような大雑把な記述の資料も、役に立つことはあるわけです。

ほ:大雑把な記述の資料というと、『勢陽軍記』とか『伊勢戦記』のようなものですか。

悦:そう、いわゆる軍記物です。

ほ:軍記物と講談は紙一重、大げさな絵空事でも、見てきたように平気で書きますものね。見てたの?って突っ込み入れたくなるってところは大悦さまの宣長話と同じかな…あっごめんなさい。宣長については史料がいっぱい残っているのでしたね。

悦:まず史実というのは、立場、つまり見る角度によって見えるものが違うのです。また、思いが強ければ、見えるはずがないものも見えることもありますので、私の宣長談とは同一にしないでいただきたい・・・

 《町への思い》なんて昔の話?

ほ:太平の御代に生きる兼由にとって、乱世は克服すべき時代だと軽んじたきらいはありますか?

悦:そうは思いたくないですね。書名の「権輿(けんよ)」というのは、始まりという意味ですから、私は兼由には、自分の生まれ育った町への愛情があったと思いますよ。もちろん紀州藩を尊重するということに揺るぎはないでしょうが。

ほ:一所懸命に書いたけれど史料が乏しかった、ということですね。

悦:それだけ混乱の時代だったのでしょうね。一つ思い出したのですが、島川安太郎さんという方が書いた『松阪の町の歴史』(1965年刊)という本はご存じですか。江戸時代の所は『松坂権輿雑集』を丸写ししたようなもので、実は私も、以前は軽んじていましたが、今になって、重宝しています。この島川さんももとは松阪市役所に勤めていた方だそうです。

ほ:本については全く存じません。その方は、時代は違うけれど、兼由と立場的には同じですよね。公務員を退職して、悠々自適でしょう。

悦:巻頭には石川啄木の「ふる里の山に向かいて」が引かれていますが、自分が仕えた、また住む町への感謝なのでしょう。今の市の職員にそんな気持ちがあるのかな。

ほ:あってほしいですが、その方のように終身雇用が当たり前だった時代と今とは感覚が違いますからね。そういえば宣長も16歳の時に松坂のガイドブック書いてましたっけ?

悦:『松坂勝覧』ですね、以前、このコラムでも書いたことがありました。

悦:江戸へ旅立つ直前です。そこで私は、「自分の住む土地、フィールドをていねいに観察する所から始まり、その地の利を存分に活かし、国誉めというオマージュで終わる。 土地の力を存分に活用する、これが宣長の力の源泉の一つであろう」と書きました。自分の町を認識することは、懐古趣味ではなく、土地の力を発見し、活用することなのですが。

松坂勝覧
『松坂勝覧』

ほ:なかなか難しいですね。

悦:昭和と現在の令和では、人々の意識が変わったのですかねぇ。江戸時代と明治時代ではもっと、社会制度など大きな枠組みがすっかり変わったところがありますし、第二次世界大戦での断絶も大きいですが、それでも、ほさんや私の中には、江戸時代を引きずっているところがあるのですね。

ほ:通底する部分には変わらないところがあるでしょうけど、江戸時代の人の気持ちもさることながら、戦国の人の感覚ははかり知れない気がしますね。江戸に関しても、大悦さまは知識の多さや江戸文化に接した長さから、多分に江戸の心をお持ちでしょうが、私はそんなことはありませんよ。昔の人の感覚の現代人との違いにたじろいだり、面食らったりしつづけています。さて、ここまでの記述は、乱世で、支配者の交代もあり、史料が乏しいなか、残されていた事柄を兼由が集めて記したのですよね。そこには、大悦さまが疑っておられるように、松嶋家のような自己申告まで入ってきますね(第7回 殿は存外やり手でござる かな・・・?)。

悦:次の「第8回 戦はまず情報戦。それから?」の中の“松崎浦の水主はアピール上手?“のところにも書いたように、そこの部分だけが妙に具体的ですから、眉に唾をつけたほうがいいでしょう。といって、すべてを疑うわけではない。慶長5(1600)年11月20日付の松崎庄屋宛馬場勝兵衛書状や、慶長12年頃の松崎船頭中宛古田重治書状が残っていて、功績に対する特権が保証されているので、優れた働きがあったことはまちがいないけれど、ちょっと書きすぎかな。


「(慶長5年11月20日付)馬場勝兵衛書状」
松崎庄屋七右衛門宛・松ヶ崎神社所蔵

ほ:何が書いてあるのですか?

悦:この度、その地の加子、水主ですね、「上下ほねおり忠節仕候ニ付」地子35石3斗3升を褒美に与えると書いてあります。また、慶長12年の書状では、さらに特権が与えられていたこともわかります。

ほ:後になって、「我が祖先にはこんなに功績がありました」と一層具体的に主張したのではないかと疑ってるわけですね。

悦:論功行賞のためでしょう。人は忠義だけでは動きません。

ほ:複雑で奇々怪々ですね。

悦:特に蒲生、服部時代は天下統一前で、それぞれの領主が力任せに領地の奪い合い、また支配権を取るために権謀術策の限りを尽くします。取ったもの勝ちの時代ですから、決して穏やかな時代ではない。

ほ:まさに乱世ですね。

悦:乱世と言えば簡単ですが、人はわずか数十年しか生きられないのに、なぜ戦うのですかね。

ほ:破壊と再生の繰り返しですね。戦わずにはいられない業を人は今も持っていますね。

悦:スクラップ&ビルドですか。

ほ:しかし、まぁ、新しいものが出てきて、先の時代に流された血の上に、江戸期の松坂の繁栄も花開いたのですから――。それにしても驚きの連続でしたね。

悦:ちなみに、私は生のレバーは苦手です。

ほ:えっ。私だって生レバーなんて食べませんよ。また「生肉論争」再燃ですか。私はただ、以前は松阪肉の老舗でもお肉の刺身を出していて、それはおいしかった♡と言っただけです。“生肉女”としてイメージ操作しようとしているでしょう。日ごろ生肉を好んで食べているわけではありませんよ~だ。(「第3回 氏郷という武将」)

驚きの松坂創成期・氏郷は粗さがいいのよ

悦:『権輿雑集』の最初を改めて丁寧に読んでみると、発見というか、衝撃的な記事が多いですね。

ほ:これまでぼんやりとイメージしてきた松坂の歴史とのギャップには驚きました。それにしても分からないことだらけですね。氏郷が新しい町を造って、「町中掟」を定めた。その最初に出てくる「十楽」からして謎なんですから。「当町之儀為十楽之上ハ諸役可為免除」とある。「十楽の町」なんていいところみたいじゃないですか。税金や座などで縛られることもない。その後も藩主は変わるけれど、町は発展を続け、やがて紀州徳川の時代、商人の活躍や本居宣長によって、この町の経済と文化は、頂点を極めたと信じていたのですが。

悦:多くの人はそう思うでしょうね。

ほ:でも、「十楽」は、自由や自治なんてものではなくて、むしろ外の法の規制を受けない無法地帯の趣でしょう。(“松坂は無法者の町だった?”「第5回 とりあえず?!・・・夢と野望の町中掟」)。それと質屋さんが幅を利かせていて、質に関しては細やかな決まりがあった。「十楽」なんて聞くと、自由だとか自治だとか暢気なことを考えてしまいがちですが、そんなに甘いものではありませんね。

悦:そういう時代なんですね。そうそう時代と言えば、ほさんから頂いた「[オリベ・フォーラム]織部の午後 忘れられていた冒険」(1997年11月)のパンフレットを見ていてとても面白かった。

ほ:あぁ、松岡正剛さんがプロデュースされた企画のものですね。見ると懐かしいです。どんなところがおもしろかったのですか?

悦:当然「オリベ・フォーラム」だから古田織部、「ひょうげもの」が核になりますが、織田信長から豊臣秀吉という流れを文化の面で見ると、そこに千利休が関わってきて、やがて古田織部の登場となる。美術工芸では狩野永徳の「洛中洛外図屏風」(1573)、「唐獅子図屏風」(1590)、茶室「待庵」(1582)、長次郎の赤楽「勾当」、「早舟」、「道成寺」(1586)、私の大好きな長谷川等伯の「松林図屏風」(1594)、俵屋宗達の「風神雷神図」(1602)、角倉素庵・本阿弥光悦の嵯峨本「伊勢物語」(1608)、驚くような作品が集中して誕生します。

ほ:乱世のパワーでしょうね。出雲阿国の歌舞伎踊から、やがて「異様なファッションで近世城下町のストリートを横行するカブキモノたち」と年表には出てきますね。婆娑羅(バサラ)感覚が溢れていく。

悦:そこに「慶長バロック」とあり、下には「西欧バロック」という文字も見える。コペルニクスからガリレイ、ケプラーの活躍、また1590年・・・

ほ:氏郷が会津に移った年ですね。

悦:ええ、その年にヨーロッパでは望遠鏡の製作が始まり、複式顕微鏡が発明されています。

ほ:徳川家康も、たしか宣教師から望遠鏡を貰ってましたね。

悦:つまり、この時代、西洋では視覚革命、見える世界が爆発的に広がったのです。松坂では町が出来たと騒いでいる頃に、カラヴァッジオ「いかさまトランプ師」も描かれました。これもやはり「見る」ということですね。日本の視覚革命は150年位遅れて、宣長の時代ですね。蕪村、平賀源内、司馬江漢、伊勢の出身なら久居の橘南谿。

ほ:ゾングラス(望遠鏡)では上田秋成と宣長が喧嘩してますね。

悦:たしかにあれは一方的な喧嘩ですね。それはともかく、たとえば信長の安土城に始まる天守閣、もちろん松坂城にも天守閣はできましたが、これも「見る」。あるいは「見せる」工夫ですね。利休の茶の湯の極意の一つは、「見せないこと」、実はこれはいかに上手に見せるという工夫でもあるのです。

ほ:一輪の朝顔、ですか。茶室に入る幽かな光、置かれた黒楽。たぎる釜の湯と炭や香の香りなど、視覚だけではなく、聴覚、臭覚、味覚など身体感覚すべてで感じる美でしょう。

悦:こういうのも、五感を研ぎ澄ました人だけが生き残れる乱世だから、生まれてきたのでしょう。

ほ:1588年にはスペインの無敵艦隊も滅び、満州国ではヌルハチの登場、西洋も東洋も日本も、大転換点ですね。

悦:人の生死観や家族観、世界観は変わっても、ちっとも変わらないのは、野望を持ち平和を踏みにじる人の存在です。

ほ:「松坂をパラダイスにしてやるからさ、みんな来いよ。ちょっとくらい脛にキズ持ってるヤツでもかまやしねえさ。金もうけしようぜ」みたいな、人集めのためのキャッチフレーズが「町中掟」だったのかもしれないというお話でした。氏郷は“文武両道の御大将かと思っていたら“ワル”の親玉だった…。でも、この粗さが、ある意味、戦国武将の魅力だったような気がします。あ、大悦さまはお嫌いでしたね…。えっと…第7回で、すべては「藪の中」といわれましたが、この「十楽」の意味さえ明確ではないほどわからないことだらけだということです。

奇々怪々 松坂城

悦:そうですね、例えば「松坂城」は、町の扇の要ですが、謎だらけですよね。まず、この城は築城から現在に至るまで合戦は一度もなかったのかということも、しかとはわからない。

ほ:今の松阪の人たちの大かたは「なかったさ」と思っているでしょう。でも去年出た『松阪学のすすめ』「歴史編(3)近世」には、「(古田)重勝は西軍一万期余りを相手に籠城戦で奮戦中」とありました。『松坂権輿雑集』では、敵が攻めてきそうだと慌てる重勝に、古田助左衛門が「たとえ敵幾万来るといえどもこの助左衛門におまかせあれ」と、見得を切ります。助左衛門ファンの気分があがる場面です。そして攻めてはこなかったみたいでした。

悦:この連載の第9回ですね。「敵は幾万ありとてもすべては烏合の衆なるぞ」、まるで戦時中の軍歌みたいですが、ところが突然、敵が来たと騒ぎが起こります。町は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。財宝を持って逃げ出す者もあらわれます。ここでも再び助左衛門が、見せしめでしょう、「うろたえるな」と、火事場泥棒を一人とっ捕まえて本町の辻で胴切りにしたら、ぴたりと収まった。

ほ:その一言で収まり、籠城戦にはならなかった。

悦:隣の安濃津城では短時間だけど激戦があり、少し離れた関ケ原では天下分け目の戦いがおきているのだから、松坂が古田助左衛門の一喝だけで平和だったとは言えませんね。でもこのあたりのことは第9回で書いたので省略しましょう。

ほ:その東軍西軍の激突の直前の古田重勝の動きも『権輿雑集』の記述では謎ですよね。

悦:第7回の「古田重勝、私はどこに行けばよいのやら」ですね。そこでも書きましたが、7月25日の「小山評定」で家康軍の主力部隊は上方に向けて東国を出陣しますから、「八月には家康に従って上杉景勝征討軍に加わった」と『松阪学のすすめ』にあるのは、事実とは異なるのです。

ほ:あ~~っ、ややこしい。歴史を書くのは大変ですね。

悦:史料だけでなく研究論文まで見ないといけませんからね。

ほ:私達はここで、素朴に辻褄が合わないと思うことを忌憚なく述べているだけですが、人の本の粗探しのように受け取られると、よろしくないですね。

悦:しょせん素人談義ですから、お見逃しを・・・

創世期松坂解明への糸口か

ほ:そういうことで…。でも悪戦苦闘しながら読んでいくと、色々分かってきますね。

悦:これまで影が薄かった服部一忠がイケメンだったというのも発見ですね。

ほ:そうそう。まぁ、ミーハーな希望的観測ではありますが、采女正なんて、素敵な名前を持っているのにこれまで見逃していたのは不覚でした。しかも桶狭間の戦いで一番槍の手柄は逃したけれど、黄母衣衆に所属していたなんて、もっと注目されたらいいなと思います。薄幸の美男武将だということで盛り上げましょう。(「第6回 イケメンが松坂にやって来る?!」)

悦:それと東軍西軍の戦いの中で、山田中島の来田庄蔵という者が西軍の九鬼大隅守に味方して古田や岩手に背いたという話が出てきましたね。「各地で、こういう小さな戦いが繰り返されていたのですね」と簡単に片付けてしまいましたが、その後、勢州会の駒田さんから、以前こんな史料を読んだことがあるよと『慶長五年秋中嶋乱記』(内題「中嶋軍記」)を教えていただきました。

ほ:やはり会員の山口さんの「松坂城主古田氏の噂を追う」や「古田兵部少輔重勝と関ケ原の戦いー史料のまとめー」、そして「大日本史料総合データベース」を駆使した調査もありましたね。面白かったです。

悦:島根県浜田市での調査なども、実は、私はその当事者から報告を聞いていたはずなのですが、その頃はほとんど関心もなく、頂いた抜刷も仕舞い忘れていて、反省することしきりです。

ほ:浜田で聞かれたのですか。

悦:浜田のシンポジウムに参加した時でしたね。

ほ:そういう成果はしっかり地元に還元していただきませんと…と上から目線で言っちゃいますよ。

悦:でも中途半端な報告より、山口さんがゼロから調べられた方がどれほどよかったかわかりません。怪我の功名ということで大目に見てください。

ほ:ふふ。古田氏については、特に助左衛門についても山口さんの調べの中で情報が出てきましたね。

悦:分からぬことだらけだという前に、もう一度調べないといけませんね。また、私たちの連載ではけちょんけちょんに腐していた古田重恒ですが、『松阪学のすすめ』では、「幕府の命を受けて大坂城普請や、松江城在番で功績を挙げ」と書かれています。果たして本人の功績なのか、その家臣が代わってなしたのかなど疑問はいくらも出てきますね。そうそう、去年、浜田を訪れた時に古田重恒さんの墓にお参りしました。泉下で重恒さん、このコラムに怒っているかもしれませんね。また、少しまとまり次第、この連載で訂正と加筆をしていきましょうね。

ほ:そうですね。謎だらけの創成期松坂が少し解明されるかなという期待が出てきました。氏郷については日野や会津若松、古田については浜田などと、情報共有できることが望ましいですね。きっと地元で調べてる方がいらっしゃることでしょうから。勢州松坂会会員各位、読者の皆様も、どうかご教示を賜りますようにお願いいたします。

松坂城の謎は続く

ほ:さて、大悦さまの先ほどの話にも「松坂城は謎だらけ」発言もありましたが、『権輿雑集』は「松坂城経営之事」で始まりますが、ここの記述も、潮田長助が最初に城か砦を築いたという真偽未詳の話から、一国一城の御制禁は、実は古田時代の事だから松坂城には直接関係なかったとか、よくわからない話でした。

悦:これは重要で微妙なことなのですが、御本丸の御殿、御天守、御門、櫓は、「被為掃之由ニ語伝ふ」とありますね。天守が大風で破損した話や、焼失した伊豆倉に材木を下賜されたことなど、第2回「松坂城を造る」を読んでいただきたいのですが、私には、天守閣問題をわざと混乱させようという作為が感じられます。

ほ:それは兼由さんの?

悦:私はそうにらんでいます。おそらくそうでしょう。城のような巨大なものには政治的な思惑や、ひょっとしたら利権も絡んできます。特に紀州徳川家初代藩主南竜公のような方の場合は、色々な見方が出てくるはずです。

ほ:なるほど。筆者の立場によるのですね。紀州藩の一同心だった身としては、いろんな配慮が動いたかもしれません。それにしても大悦さんは疑い深いというか邪推がお得意ですね。

悦:得意というのはいかがかと思いますが、ついでにもう一つ。私は、本居宣長記念館から旧宅へ抜けていくところの石垣に張られた防護用のフェンスを見るたびに、ある文化財関係者が、みっともない、必要があるのか、役に立つのかとつぶやかれた言葉が今も耳に残っています。松坂城問題は、現在でも政治問題から町のグランドデザイン、文化財保護などもろもろが絡んでくるのです。

ほ:あれは、耐震装置なのかな。こんな金網で効果あるのかな?とは思っていましたが…。まぁ、まちの諸問題を考えることも重要ですが、地震を想定すると、大悦さまはまず、身の回りの本や資料を片付けましょうよ。アブナイですから…。さて、振り返ってるときりがありませんね。いろいろなことが詰まった長い一年でした。でも、おかげさまで楽しく、私はたくさん学ばせていただいて、短い一年でもありました。

悦:今回は振り返りだけで終わりましたが、いよいよ次回からは、謎に満ちていたお城と直接かかわる紀州徳川家の時代に入ります。今度こそ、九左衛門も出てきますね。

ほ:九左衛門!

悦:この人の存在は、紀州藩となってからの松坂には重要ですが、手元に資料がないので、困ったなあ。

『松坂権輿雑集』を読んでみた2026.03.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数

堀口 裕世

編集者 三重県の文化誌「伊勢人」編集部を経てフリーランスに
平成24年より神宮司庁の広報誌「瑞垣」等の編集に関わる
令和4年発行『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(岡野弘彦著 人間社)他 編集