篠川恒斎(ささがわ・こうさい)が書いた『松坂権輿雑集』跋文が松坂自慢だという話は次回に、
というところで前回は終えたが、その「跋文」の中に、次のような一節がある。
「洛陽、東武の駅使(飛脚)は日夜往還し、而して用を弁じ、事を達す」
京都からまた江戸からと飛脚は日夜往来し、用事を済ませていく。
宣長の松坂自慢「伊勢国」に、
「諸国のたよりよし。ことに京・江戸・大坂は便りよし。諸国の人の入りくる国なれば、いづこへもいづこへもたよりよし」
とあるのも同じで、連絡網が完備している、今の言葉では情報インフラが整っているということだ。
これが整うことで商いのみならず、文化や学問は栄え、生活も安定する。
近世、松坂の繁栄は、情報インフラによりもたらされた、とも言えよう。
宣長の時代、情報は飛脚や人の往来によって運ばれた。
書状も大事だが、人と人が直接会うことは大切だ。
対話は、他人という似て非なる者同士が、互いの共通項を探すようなもの成り立つわけで、いわば、創造の原点である。
素晴らしい人生とは、数限りない出会いによって切り開かれていくもの、互いの長所を引き出し輝きは一層増す。
それは宣長の場合も例外ではない。
そうやって、ネットワークは出来上がっていく。
さて、いったん構築されたネットワークは、場所を変えても効力を発揮する。
それは、歩行に頼らざるを得なかった時代でも、ITの発達した現在でも同じである。
松坂という土地の力をもって出来上がった宣長ネットワークは、場所を変えても機能した。
今回は松坂から少し離れて、京都が舞台である。
寛政2(1790)年、この年の8月、宣長(61歳)は自画像を描き、
「しき嶋の やまとこゝろを 人とはゝ 朝日にゝほふ 山さくら花」
の歌を書き添えた(本居宣長六十一歳自画自賛像)。
9月には『古事記伝』第一帙5冊が刊行された。第一回配本である。
伊勢神宮や熱田神宮など各神社にも奉納された。まだまだ先は長いが、ひとまず安心だ。
11月、京都では天皇のご遷幸の噂で持ちきりだった。
先の大火で焼尽した京都御所の新造が成り、いよいよ新御所に天皇がお遷りになるというのだ。
自画像を描き、「記伝」刊行も開始という気持ちの余裕もあってか、宣長も拝見のため上京することにした。
この度の上京は、実に31年ぶりである。壮年期、いかに忙しかったか偲ばれる。
同行者は、長男の春庭、門人の稲懸大平、菊家兵部、益谷大学、林杏介など。
14日に松坂を出立し、16日、京に入った。
「本居宣長六十一歳自画自賛像」(部分)
ご遷幸は22日に執り行われた。宣長一行も無事に拝見できた。
京都滞在は僅か10日という慌ただしい日程、懐かしき人に会ったり、曽遊の地を訪うたりする暇もなく、
洛東双林寺文阿弥坊に京や諸国の人を集め歌会をするなど、新しいつながりを求めて積極的に動き回った。
宣長は、常に前を向いている。
そんな宣長の旅宿を、秋上氏と名乗る親子が訪ねてきた。
聞けば出雲国意宇郡の神魂(かもし)神社の神主であるという。
☆ 宣長が作っていた人物のデータベース『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』には、
「出雲国意宇郡大庭村神魂社神主・秋上大祐藤原得国、子息家督庵之介」
とある。
宣長は、頭の中に構築されているデータベースでその「神魂神社」を検索してみた。
「はて、出雲の意宇(おう)郡(今の島根県松江市の一部)と言えば『出雲国風土記』の国引き神話の舞台となっ場所。
国庁もあって出雲の中心地だが、神魂神社など、『風土記』や、『延喜式』神名帳(平安時代の神社名鑑)にも出てこないが」
と訝しく思いながらも、取り敢えず会ってみることにした。
そして、その語る話に驚いた。
神主親子の話は、因幡の素兎(しろうさぎ)から、出雲では杵築社(出雲大社)より格も高い熊野社のことなど、
内容は多岐に及んだが、中でも宣長を驚かせたのが「火鑽(き)りの神事」であった
これは、『古事記』上巻の「国譲り」が完了する場面の「我が鑽(き)れる火は」ではないか。
出雲信仰では、殊に神聖な火の継承を尊ぶ。その根幹に拘わる行事である。
その神事を今も神魂神社では行っているという。
現在の神魂神社。国宝。1346年建造。大社造り。
出雲大社本殿の半分ほどの規模。
「火鑽りの神事」『岩波写真文庫 島根県-新風土記-』(1957年6月25日)
に載った神魂神社の火鑽の神事。
解説には「神魂神社 2千年の伝統ある神火相続式」とある。
出雲の地には、『古事記』の世界がまだ続いている、
冷静沈着な宣長もさすがに慌てた。その動揺を示すのが、秋上氏の話のメモである。
『古事記』(宣長手沢本)上巻45丁の貼り紙。
貼り付けられたメモの、最初の二行に注目して頂きたい。見慣れた宣長の筆跡とはちょっと違う印象を与える。
宣長らしからぬ書き損じ?もある。
もちろん以前から宣長は、出雲には注目していた。
『古事記』と『日本書紀』の決定的な違いが、「出雲神話」の取り扱いにある。
出雲は、『古事記』世界を解く鍵を握る場所である。
思い返せば21年前、明和8(1771)年、42歳の時、
津の谷川士清から『出雲国風土記』を借りて、それを写した。
丁寧に写された『出雲国風土記』奥書
そもそも「風土記」という本は713年、『古事記』が出来た翌年に編纂の命が出て、各国の「風土記」が編まれたはずだが、
全巻残っているのは、733年完成の『出雲国風土記』だけである。
士清への礼状で宣長は、
「意宇郡の名のよしをいへる所の文章、いとふるく上代の詞つき也。されど今はこゝろへがたく、かにかくに考へ見侍れどえがたくなん」
と書き送った。
「いとふるく上代の詞つき也」
最大級の評価である。
「意宇郡の名のよしをいへる所の文章」とは、かの有名な「国引きの詞」だ。
古代の出雲は国土が狭いかった。そこで八束水臣津野命(やつかみづおみ づぬのみこと)は、
周囲の国の余った所を探し、そこに紐を付けて引き寄せ、国を完成させたという神話だが、
それを語る詞の古さに、目を見張ったのである。
宣長はこのひらめきをの深化させて、「出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文」としてまとめ、『玉勝間』に載せた。
田舎には古のわざが残ると警鐘を鳴らしもした(『玉勝間』巻8「ゐなかに古へのわざのゝこれる事」)宣長だが、
まさか神々の御代からの行事が続いているなどとは思っても見なかった。
だが、出雲は遠い。
松坂は色々な情報が集まりやすい場所であるとは言っても、限界はある。
しかし、秋上親子の来訪で、突破口は開けた。
宣長は秋上氏との連絡方法を「転達書」というアドレス帳に記録した。
☆ 当時、地方と大都市を結ぶ飛脚網はかなり整備されていたが、地方都市間を結ぶ便はまだ未整備である。
たとえば、伊勢国松坂と出雲国松江を結ぶ飛脚はなかった。
そこで何カ所か、それも飛脚屋ではなく藩の屋敷や大きな商店を経由して手紙や荷物は運ばれた。
それを「転達所」という。
宣長が、出雲国の人から古代につながる話を聞くのは、これが始めてだったかもしれない。
関心を持てば、道は開ける。
二年後の寛政4年10月、千家俊信が松坂の宣長を訊ねてやってきた。
千家といえば、出雲神話の総本山とも言うべき千家国造家、その弟君である。
彼は、宣長の学問に傾倒し、時には国造家の秘蔵の史料をわざわざ持参して見解を問い、
また宣長に「出雲国造神寿」という祝詞の注釈を書かせるお膳立てもした。
これが名著の誉れ高い『出雲国造神寿後釈』である。
古代から宮中で奏上されたこの祝詞についての研究は、ここに完成した。
では、肝心の『古事記伝』にはどのような影響を及ぼしたのか。
秋上氏登場はどのような意義を持っていたのか。
宣長は、知識の使い回しの達人でもある。
先達ての松江の「くるま座」のチラシには、「江戸時代最強の国学者」と宣長をよんでいたが、言い得て妙。
著作量だけならもっと多い人もいるが、その完成度の高さは比類無い。
しかも、医者をやり、家政にも怠りなき素晴らしい72年の生涯だが、その宣長の秘策の一つが「使い回し」である。
「使い回し」というと聞こえは悪いが、効率的な情報処理の仕方であり、創造的な営為なのである。
まず、一つの情報にいくつものタグを付ける。
これはその情報の持つ価値の発見である。
それを多方面に活用する。
つまり流れの中に位置づけたり、新しい組み合わせを発見したりする。
つまり、「使い回し」とは、「編集」なのである。
では秋上氏の話はどのように、使い回し(情報処理)されていったのか。
秋上氏の談話は、その時のメモをもとに再現され、『本居宣長随筆』13「聞まゝの手ならひ」に記載された。
この「宣長随筆」とは、宣長の読書、見聞ノートである。
それを更に整理、推敲して
「千引石手末に擎(ささ)げて」
「櫛八玉神」
「火を鑽り出す」
「栲縄之千尋縄打延釣せる」
の四篇を作成し、『古事記伝』版本14巻に「おひつぎの考」として追加した。
次に、「出雲国意宇郡神魂神社」(『玉勝間』13)を書いた。
そこには次のように記されている。
これが秋上氏来訪のまとめといってもよかろう。
このようにして、秋上親子の来訪が契機となり、『古事記』の核心部分である出雲神話の解読は進み、
『古事記伝』は一層充実した注釈書となったのである。
実は最近まで、「出雲神話」は架空の話と学者たちは思っていた。
ところが1984年、島根県斐川町で神庭荒神谷で銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土。
弥生時代の専門家の佐原真の第一声は「わからない」だった。
続いて1996年、雲南市の賀茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見された。
2000年には、出雲大社から三本の宇豆柱が出土、
宣長が俊信から見せてもらい『玉勝間』にも紹介した
古代の出雲大社が高層建築であったとする図面(金輪の造営の図)の信憑性が裏付けられた。
ここまで出てきて、ようやく現代の研究者は出雲神話の重要性を見直しはじめた。
梅原猛のように、潔く自分の誤りを認めて人もいる。
だが200年以上前に、既に宣長はそれに気づいていたのである。
それも『古事記』は絶対に間違っていないという信念だけではなく、
『出雲国風土記』など遺された文献を丁寧に読み、分析し、
また秋上神主の伝えた話をきちんと聞き、さらに千家俊信から提供された史料の検証するといった、
いわば研究の王道でその結論を得たのである。
そのようなことを可能としたのは、宣長のネットワーク、思考を育むことができた松坂の環境、
つまり《場所の力》を思うのである。
「神魂神社」について、小泉八雲と、千家尊統の文章を引いておく。
この二つの文章を読んで頂くと、宣長を驚かせた火鑽りの神事がどのような祭祀であったのか、
また、なぜこの名社が『出雲国風土記』や『延喜式』「神名帳」に出てこないのかが、
分かって頂けるであろう。
◇「毎年、大社は新しい火燧臼(ひきりうす)火燧杵(ひきりぎね)を受けるが、これは杵築(きづき)ではなく、熊野において神代からの仕来りにより作られる。その謂われは、出雲の国造の祖神が杵築の大宮の祭主となった時、須佐之男命より火燧臼火燧杵を授かった。そしてこの須佐之男命を祀るのが、出雲の熊野大社だからである。以来、大社で用いられる火燧の臼杵は、今日に至るまで必ず熊野で作られることになっている。
ごく近年まで、杵築の宮司に新しい火燧臼火燧杵を授ける儀式は、大庭の神魂神社で卯の日祀りに執り行われていた」
小泉八雲「杵築」(『神々の国の首都』)
◇「出雲国造は意宇のどこに居をしめていたのか。意宇(おう)川が熊野の山地から意宇の平野部に出てきた、その渓口にあたるところが大庭(おおば)である。ここに「大庭の大宮」とよばれる神魂神社がある。ここの旧屋敷地に国造の別館があって、明治維新になるまで毎年の新嘗祭のときと、国造の代替わりの火継式のときには、出雲国造は杵築の地からここにきて潔斎をかさね、神事はこの別館の上手の丘の神魂神社でとり行われてきたのであった(現在は出雲大社の拝殿で行う)。
この社は「風土記」の神社帳にも、あるいはまた『延喜式』の神名帳にも、まったく記載されていないことは不思議だが、それというのも、本来がこの社は国造の館の、いわば邸内社としてはじめられたものであり、陰暦の十一月も末に行われる神嘗祭には、、熊野の谷あいは雪に埋もれて、行き来も困難であるところから、熊野の神の遙拝のための神祠という意味をもって、ここに創建されたものであろう。
現在の社殿は火災にあって、天正十一年(一五八三)に再建された典型的な大社造であり、イザナミノミコトを祀る。もちろんこれは後世の思考のいたすところ、イザナミノミコトを葬ったという伯耆と出雲との堺である比婆山を、飯梨・母理の山地に設定したことに関係するものでなければならない。この神魂神社が鎮座し、かつては国造の別館があったというこの大庭の地をおいて、ほかに出雲国造本貫の地をもとめることは困難である。そしてこの大庭から東北のかた中海にかけては、開墾地がカラリと開け、条里制の行きとどいた水田と、はるか紺碧の中海ごしに、柄のような島根半島が一望のもと視野に入り、豪族の占拠地としてはまことにふさわしい景観をもっている」
『出雲大社』千家尊統
もう一つ、先達て私は松江市を訪れて、とても重要なことに気づいた。
小泉八雲に怪談などを語り聞かせた愛妻・セツさんについてはその名を知る人は多い。
実はセツの曾祖父小泉真種の妻・清(せい)は、宣長に出雲の事を語り聞かせた千家俊信の娘なのである。
つまり俊信は、八雲の妻・セツの玄祖父となる。
驚きである。
カチっと松坂 本居宣長の町|2023.10.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数