COLUMN

14, 「松坂自慢」 豊かさが育むもの

最後は「宣長」

 島根県松江での出雲と宣長の話、松阪市民大学での「松坂畸人伝」、僧侶の研修会での文化サロンとしての寺院役割についてと、この秋も色々なテーマでお話をしたが、私の場合は何の話をしても、最後は「宣長自慢」に行き着いてしまう。
「宣長自慢」は、「松坂自慢」でもある。

松坂の狭さと豊かさ

 江戸時代の松坂の人口は、僅かに一万人。世帯数2300軒(『松坂権輿雑集』1752年序)。
こんな小さな町であるから、たとえば絵画、詩歌、管弦や箏曲、茶湯や香道など好むものは違っても、たとえば殿村道応七十・妻寿元六十賀会では学者も数寄者も一堂に会し、それぞれ得意の作品で夫妻の弥栄を祝った。
また、遍照寺は焔魔堂とも言って、お寺として忙しいのは専らお盆の季節。
普段は、歌会や管弦の会場となり、時にはそれらが同時に開催されるなど、皆どこかでつながっている。もちろん仲がよいか否かは、これは別問題。
しかもこのような人脈が、他の地域にも広がっているところが素晴らしい。その裏付けとなっていたのが町の豊かさであったようだ。
豊かさと言っても、経済だけの話ではない。多士済々の人材、人脈や様々な情報、物までふくめすべてが豊かな町であった。

宣長、伴蒿蹊を訪れ、驚きの対面をする

前回は、京都滞在中の宣長の下に、出雲国意宇郡の神魂(かもす)神社宮司・秋上親子が訪ねてきた話をした。
それは寛政2(1790)年冬のことであったが、その三年後の寛政4年初夏、再び上京した宣長は、今度は逆に人を訪ねた。
相手は伴蒿蹊(ばん こうけい)という文筆家である。

さて、この度の宣長の上京は、妙法院宮真仁法親王に拝謁し、『古事記伝』など既に刊行された著作を献上することが目的であった。
宮は時の光格天皇の兄君である。
宣長周辺には、献上された本はやがて宮から天覧へという期待もあったようだが、宣長は急くことはないと悠然としている。
妙法院宮は。当時の京都の文化サロンでもあり、たとえば寛政2年頃なら、画家の円山応挙がしばしば院に出入りをしていた。蒿蹊もこのサロンの一員でもある。
さては敬意を表したかと考える向きもいるが、宣長には余り深い意味はなかったのだろう。近くまで行ったので寄っただけだ。
宣長の寄った寛政5年には、蒿蹊は『近世畸人伝』が刊行されるのだが、やがてこの本は、続編も出て、ロングセラーとなる。
時代の寵児だ。

 では、宣長の『寛政五年上京日記』をもとに、その訪問の様子を再現してみよう。

『寛政五年上京日記』

 蓮花王院前の池の杜若が見頃だと誘われて出かけた宣長は、その帰り、近くまで行ったついでだからと伴蒿蹊という歌人が住む大仏(方広寺・東山区五条)の辺の家を訪ね、挨拶の歌を贈った。
だが蒿蹊の反応は今一。こいつ何しに来たんだと言う目で宣長を見たのだろうか。
宣長の歌は、

 ふりはへて とひこし我を 杜若 花のたよりと 心へだつな
(わざわざおじゃました私を、杜若を見に来たついでに依ったのだろうなどと邪見に扱わないで下さい)

蒿蹊は、返し歌をしない。この辺りに彼の冷ややかな態度が感じられる。
ところが蒿蹊と一緒に住んでいる70歳位の女性が出てきて、様子が一変した。
彼女の出身は松坂、それも宣長の外祖母の弟の子だと言うではないか。
驚いた宣長は、もう一首、歌を詠む。

 立ちよりて 里の名におふ 老松の 本の心は 今日ぞしりぬ
(お邪魔した家のおばさまが松坂の、それも私の縁戚の方とはびっくりですね)

詠んでは見たものの、どうも気に入らず、後からもう一度詠み直した。

 立ちよりて 本のこゝろは 今日ぞしる 老木の松の むかしがたりに
(お邪魔して、姨さまの昔語りを聞いて、お心の内はよく分かりました)

驚きの内に伴家訪問を果たした宣長に、後から蒿蹊の返し歌が届いた。

 かきつばた 花の便りに とはるゝも 本のゆかりの 色はむつまじ
(花見のついでに訪ねて下さったが、根っこでは関わるだけに互いの花の色も近しいものですね)
もろともに ながらふればぞ 老松の 本の根ざしも とひとはれける
(お互いに長生きしてこられた身、さぞ昔話も弾んだのでしょう)

同居する叔母、恐らく実母の妹であろう、が伊勢国松坂の人であることはもちろん蒿蹊も知っていた。

『近世畸人伝』の中にも、祖父の通庵は登場している。
だが、まさか宣長も親戚、しかもかなり近い関係とは、さすがの蒿蹊も、また宣長もびっくりである。

 では蒿蹊はなぜ宣長を歓待しなかったのか。
彼の仲間には、上田秋成や橘南谿もいる。
その秋成が宣長が激しい論争をして、ぼろぼろになったのを傍で見ていたはずである。これは8年ほど前のことである。
また、橘南谿は松坂の隣、今の津市久居の出身の医者だが、宣長との直接の接点はない。
やはり文人と学者では、住む世界は違うのである。

近江八幡商人 伴一族

伴家は近江八幡に本宅を持つ近江八幡商人の一軒、豪商である。京都にも住まいがあった。
近江八幡の町は、豊臣秀次の開いた八幡城跡の下に広がる。
城の下には日牟礼八幡社が祀られ、ラ・コリーナ近江八幡日牟礼館は賑わい、八幡堀は静かに水をたたえる。そんな旧城下の一角に伴家はある。豪邸である。

 蒿蹊は、分家から養子で入って、商売もそこそこ行った人である。
つまり、計算が出来るから「畸人」ではないが、彼らを見る眼は温かい。
名前の「蒿」の字はよもぎの意味。「蹊」は「桃李ものを言わざれど下自ずから蹊を為す」、成蹊大学の名前でも知られるが、小道のこと。よもぎの生えた小道という意味である。
その母が、松坂の山村通庵の娘である。

畸人 山村通庵の結ぶ縁

 松坂西町の医者・山村通庵と、近江八幡商人の伴家にどのような縁があったのか、通庵の娘が伴家に嫁いだ。やがて生まれたのが蒿蹊である。
蒿蹊は祖父のことを、「爽やかな人であった」と評す。
通庵は数寄者でもあり、宣長に茶の湯の手ほどきをしてくれたこともある。
養子に行くという事情もあったのだが、稽古はすぐに終わってしまった。

この頃から、宣長と風雅の世界は距離が生じていたのかもしれない。

通庵は各地の温泉を巡り、その効用を調べ、今でいう「入浴剤」の製法を発明し、その処方箋を無償で配った。「畸人」である。
その通庵の姉が、宣長の祖父・小津道智大徳の妻・寿光である。

絵の中で、両手を挙げて驚くのが通庵である。
つぎはぎの着物を着て長いあごひげを貯えているのが松坂観音小路に住した外科医で本草家の松本駝堂。

ふすまの絵は、彼が描いた知己の図。そこに自分の姿を見つけた通庵がびっくり仰天している様子を写す。
蒿蹊と宣長、また通庵には、まだまだ面白い話はあるが、いったん話を戻そう。

『近世畸人伝』に載る山村通庵と友人の松本駝堂。

『近世畸人伝』に載る山村通庵と友人の松本駝堂。

「畸人」は尊いか

 ついでに言っておこう。
「畸人」は、私たちが言うところの「奇人変人」の「奇人」とは、少し違うニュアンスで当時は使用されていた。
中国の古典『荘子』、その「大宗師(たいそうし)篇」に、
「子貢ガ曰ク、敢テ畸人ヲ問フ、曰ク畸人ハ人ニ畸ニシテ、而シテ天ニ侔(ひと)シ」
とある。
『近世畸人伝』正続には二百余名の人が紹介されるが、ほぼ共通するのは、その多くは計算が出来ない、あるいは損得勘定をしない人たちである。俗人からは離れていて、天に近い人たちでただのはた迷惑な変わり者ではない。
1776(安永5)年に刊行された『雨月物語』。その自序の署名が「剪枝畸人」であった。

「天に等しい」と言う畸人を、自ら称するのだからやはり変わった人だ。これが上田秋成である。
石川淳『諸国畸人伝』、保田與重郎『現代畸人伝』、中野三敏『近世新畸人伝』と畸人伝の系譜は続いてきたが、最近秀逸な畸人伝を見かけないのは、畸人そのものが滅んでしまったからかもしれない。

上田秋成、背後に佇むのは宣長

上田秋成、背後に佇むのは宣長

和歌山と松坂を比べてみると

松坂の町は商いで栄え、また交通の要衝で人の出入りも多く、各地とのネットワークも密接に張り巡らされていた。
そのことが松坂の町を、文化的にも豊かな町とした、などと豊かな町だ豊かな町だと私が連呼しても、みな話半分にしか聞いてくれないだろうが、そこで強い援護者を呼ぼう。
宣長の養子となった大平である。
藩主の御用を務めるために和歌山に移住した大平が見た松坂、和歌山両町の比較は痛烈だ。読むと気分を害する人も出てくるかもしれないので、ほんの少しだけ引用する。

 (大平は文政元(1818)年3月に十八石を頂けることとなった。63歳の時である)
私の石高は十八石。他に松坂・本居家分として三人扶持をいただいている。
飯炊きや家の掃除は妻と娘の仕事。外回りの用事や買い物、風呂炊きに庭掃除は使用人がする。ちょうど松坂の同心町、つまり松坂にいる侍の大方の暮らしと同じようなもので、松坂の旦那衆や、中くらいの商家に比べると貧しいものだ。
大ざっぱな比較だが、松坂の江戸店持と、和歌山の千石以上の武士の生活程度は同じ位である。
和歌山城下の三百石以下は、松坂の同心と同じようなもので、亭主か若旦那は米を搗く。臼へ五升ずつ入れて搗いている。また風呂の湯を沸かし、朝には庭を掃き、草とりもす る。妻や娘は糸を繰りそれを売って生活費の足しにする。
亭主は内職として・・・

と話は下級武士の内職の具体的な内容に移るのだが、そこは省略。

花を愛で、打毬に興じる松坂の武士

大平の報告の最後は、たとえば装身具の趣味を語ることが出来るのは七百石とか八百石、千石以上の者で、庭木の楽しみなどやはり七百、八百石以上の人で、五百石位ではそんな余裕はないと文章を終えている。
ちなみに松坂在勤の武士で千石というと、トップの御城代だけである。
松坂の士分の中心を占めるのが同心で、殿町の同心町を中心に殿町鷹部屋(松阪市民病院あたり)などに住まいした。給与は七石二人扶持、組頭は一石増しであったという。
数字だけ見ると、とても文化を享受できる階層ではないようだが、実は彼らの中から賀茂真淵の庇護者となった加藤枝直・千蔭親子、『松坂権輿雑集』を執筆した久世兼由、本居宣長の門人として、師の『古事記』の宇宙観を更に拡充し『三大考』を書いた服部中庸も出ている。

また殿町の武家屋敷に、文字通り花開いた、伊勢椿や御城フウランなどの園芸文化。
それを思うと、大平の言うほど切迫した暮らしばかりとは思えない。

また武士の本業の武道では、真流柔術の達人・野呂甚九郎、竹内流小具足の福田小左衛門。江戸お玉が池に道場を構えた柔術天神真楊流の開祖・磯又右衛門も、松坂の紀州藩士・岡本家の出である。

幕末頃、打毬が流行した時には、小津清左衛門長柱の「日記」弘化4(1847)年10月16日には、
「御代官御屋敷ニてダキウ(打毬)御座候間出勤ス」
とあり、11月11日には、
「東屋敷に罷出御裏ニてダキウ致候事」
場所が代官屋敷や東屋敷(東町奉行所)だから「出勤」であり「罷り出で」か。これは紅白の毬を打毬杖ですくい取って見方の陣(毬門)に入れるというゲームである。
代官や奉行が役宅に大商人の主を呼んでゲームに興じているのである。

武道はともかくも文雅で見る限り、質実剛健の和歌山と、「豊かに奢りてわたる」と宣長の評した町人の町・松坂との違いは歴然としている。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.11.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数