COLUMN

15,師走の松坂

公孫樹の葉散り敷く

公孫樹の葉散り敷く

 松坂城址にある鈴屋遺蹟保存会事務所前のイチョウが散ると、もう師走である。
宣長の頃の12月の様子を紹介しよう。主な史料は宣長の日記類だが、併せて門人・服部中庸が書いた『松坂風俗記』(以下「風俗記」と略す)も使う。

大掃除とクジラ汁

「此月入て、家々すす払ひすること、都に同じ」「風俗記」

松坂風俗記

『松坂風俗記』
服部中庸著。中庸の子孫・服部哲雄さんが、自らが経営する倒壊印刷株式会社創業六十周年記念で出版した。

 宣長の家も大掃除をする。日は年によって違うが、たとえば宝暦10年頃には12月5日に行っている。
「風俗記」では13日の条に、煤を払う家が多いと書き、「当所は豪家、皆江戸の商人なれば、自ら江戸の風のうつれる事まゝ多し」と言う。年末の大掃除は別に江戸に限ったことではないが、江戸の大店では、煤払いの終わった後に主人を胴上げするという風習もあったそうだが、松坂の江戸店持ちの家でも行ったのかもしれない。掃除が終わったら楽しみの「くじら汁」だ。
年次不詳5日付、与三兵衛宛宣長書簡がある。与三兵衛殿、春庵
夕飯にくじら汁致し申し候、御出可被成候、以上
五日たったこれだけだ。このような書簡を私は「寸簡」と呼んでいるが、今のSNS、ちょっとした用事を書いて、きっと家人か使用人にでも届けさせるのだろう。宣長はこの通信手段を実に上手く使っている。

与三兵衛は村田の家に養子に行った弟・親次かもしれない。では村田家はクジラ汁を食べなかったのか。それとも煤払いの日が違ったのか。ひょっとしたら、弟はクジラ汁が大好物だったのかもしれない。

史料が豊富な宣長にあって、実は家族に関することは、ほんの糸筋ほどしかわからない。特に弟については、ごく断片的にしか伝わっていない。だから、寸簡とはいえこれが親次宛ならと期待するのだが。

鯨の肉は、京都で学ぶ宣長に母勝が届けたこともある。
きっとお歳暮に使え、ということであろう。

猫も三文

「八日、ねこもさんもといふ。猫も三文といふことのよし。猫も三文の銭を出して祝ふ の心なるべし」「風俗記」

 宣長の家では行ったかもしれないが、記録には見えない。
この行事は、12月8日頃、一家全員で豆腐を食べて、一年を無事に過ごした感謝をする。その家に住む者なら誰でも、猫でも三文出せばご相伴にあずかれるという、平等精神溢れる風習だ。
もともとは田楽と決まったものだったが、「風俗記」が書かれた三、四十年前というから宣長三十歳頃には、湯豆腐や煮染めでも豆腐料理ならOK、と変化してきたという。
この日は夜になっても豆腐売りの声がやかましかったという。
目を病んだ春庭に代わりやがて養子となる稲懸大平の実家は、本町の豆腐屋であった。
先生の家には格別上等な豆腐を届けたと思うのだが。
ちなみに、宣長の好物は「豆腐」であった。

寒中見舞い

「寒気見廻、暑気見廻の節のごとし」「風俗記」

「又、親類、師家、医家などへ祝儀をおくる事。中元の節のごとし」「風俗記」

 寒中の挨拶や贈り物は、お中元と同じようにする。
宣長の下にも師走に入ると、門人や知人から「寒中見舞い」が届く。中には出雲の千家俊信の名産十六島海苔など珍しいものもある。
亡くなる前年1800(寛政12)年には、鯛が八軒から、みりん酒、そばきり、卵などが届いた。

餅つき

「廿日過より餅つきをして正月のこしらへそする也」「風俗記」

本居家の餅つきは26日と決まっていた。
1769(明和6)年、宣長40歳は、

「廿二日、餅搗也。例年廿六日と雖も、勝産月に因りこれを引き上ぐ」(原漢文)「宣長日記」

妻・勝の産み月なので繰り上げた。年が改まって1月12日、長女・ひだが誕生した。
1772(明和9)年、宣長43歳。またまた勝の産み月と重なり、繰り上げ。

「廿三日、餅搗也。例年廿六日と雖も、勝産月為るに因り今日これを搗く」(原漢文)「宣長日記」

年が改まって正月2日、次女・美濃が無事に生まれた。

餅をついた後にも「臼魂」という儀式がある。「うすだま」とでも訓むのだろうか。
「風俗記」は次のように説明する。

 「餅つきの仕廻に臼魂と云ことあり。其式、主人割木を左右ノ手に一本づゝ持て、恵方の方に向ひ【臼にムカフテ立】、【此主人は多くは名代にて勤る也】、餅つきたる者杵を持、是も臼に向ふて立。手返しする者、男にても女にても搗きたる餅を壱升ばかり抱へまろめ持て、是も臼にむかふて立させ、同音に声をあげて、「ヤアヱイ」といふて其餅を臼の中中へなげいるゝ時、主人割木にて臼のふちを打、杵持たる者杵の背にて臼の外つらをそと打也。如此する事三度して、「ヤレめでたい、ヤレめでたい」と云ておく也」

主人が割り木を両手に持り、餅つきの者は杵を、手返しの者は搗いた餅一升を抱えて、みんなで声を合わせ、「やあえい」と餅を臼の中に投げ入れると同時に割り木と杵の背で臼の外側をそっと打つ。これを三度繰り返し、「ヤレめでたい、ヤレめでたい」と言って終わる。
この後「風俗記」では、「ぜんざい」や「スロツボ」、「雑煮」など餅の食べ方や餅花のことが記される。
魚町の豪商・長谷川家にあった私設博物館「餅舎」、数十個作られる本居家の鏡餅!など餅については本居家、また松阪には面白い話がいくらもある。これも回を改めてお話ししたい。

年末の町角

また「風俗記」には、松坂には「蓬莱の辻」があり、「松市」が立つと在る。
まず27日夕方からの「松市」。

「廿七日夕より廿八日朝迄、「松市」といふ事有。本町三井・伊豆蔵の辻ニ松を持出て売る。銭壱文の事を壱〆と云。ゆづりは、竹しだ、椎、柴なども一所に売る也」

大手通りと伊勢街道(通称・参宮街道)の交わる辺り。今は濱口農園、小西屋旅館の辺りだ。ユズリハなど正月飾りのものを近在の百姓が商いに来るのだろう。

「新町の「蓬来の辻」といふ処も此事有。「蓬来の辻」とは、西ノ方の角二軒を鶴屋・亀屋といふ。今は亀屋の表通りは鶴屋へ売りて、裏ばかりに住まう。東ノ方の二軒を松井・竹内といふ故に「松竹鶴亀」といふ也。「宝来の辻」といへり。其名によりて此所にて門松をも商ふなるべし」

著者の中庸は新町の西の角と場所を明示してくれているが、今のどの辺りか調べがついていない。ただ今も年末同じ頃に、新町から日野町の各所でしめ縄売りが出る。
松阪、伊勢地方は今も年中、しめ縄を付ける家が多い。
宣長の家のしめ縄には「蘇民将来子孫之家」の木札が付く。これは毎年出入りの大工・八郎兵衛から鏡餅を飾る折敷と一緒に届けてくれたそうだ。
なお「風俗記」には、役人、つまり武家ではこの札は付けないとある。
町に、しめ縄売りが出るようになると、もう大晦日も近い。

帳簿の整理

 この月は一年の締めくくり。本居家の家計は、当時の慣例に従って、盆と暮れに集計をする。盆は7月14日までが前期「春」で、大晦日が「盆後」となる。大晦日にはそろばんを片手に計算したのだろうか。

宣長の師走

師走は忙しいものだが、宣長の時代、つまり太陽太陰暦(旧暦)では、たまに12月が二度ある年があった。明和元(1764)年も閏十二月があった。
気分的にも少し余裕があったのか、閏12月18日、宣長は「文字鎖」を試みた。
「文字鎖」とは写真を見ていただきたい。

文字鎖

「文字鎖」

四季、恋の題の文字を配り、句ごとの上にをきて、下へも上へも左へも右へも筋交いにも頭のくだりを題にてよめる、つまり縦・横・斜めの全八方向から歌を書き、それぞれの歌が交差するところには同じ字がくるようにした作品である。
署名は「石上舜庵」、「石上」は「古「」にかかる枕詞。この時期ごろから使用が目立つ。また書名にも使用された。

https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/isonokami.html

この歌を試みに大きな紙に歌を翻刻したことがあるが、かなりの時間を要した。
12月が二度あるとはいっても、師走の何かとせわしい中、寒い夜、かじかむ手をこすりながら歌を思案し、奇麗に書き上げる。宣長にとって歌を詠むこと、そして書くことは、無上の楽しみだった。
さすが宣長である。
この楽しさを知らぬ者が、上手いだの下手だの、ちゃんちゃらおかしい。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.12.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数