COLUMN

16,鄙と都

 師走の京の町を歩いた。豪商のまち松阪 観光交流センターの主催行事
「三井越後屋創業350年記念 松阪→京都」
に参加したのだが、茶席8席に併せて、私たちのミニトークが4回行われた。
会場は旧三井家下鴨別邸の二階。
窓の外、色づいた紅葉の間を散策する人、その上に遅れた公孫樹の葉が散る。
春のような穏やかな陽気に誘われてか聴衆の姿も華やぎ、コーディネーターの松阪木綿とはまた違う呉服の艶やかさは、まさに木綿と呉服の三井越後屋創業350年を慶賀する催しに相応しい。
トークショーのテーマは「鄙と都」、

話し手は、東竹川家、つまり竹川竹斎家の十三代・竹川裕久氏と私、

コーディネーターは編集者の堀口裕世さん。
外を眺め、また階下での茶会の帰りか着物姿の聴衆に目をやりしている内に時間が過ぎて、私の話は酔歩蹣跚、散漫となった。いつものことだ。

 ところで、「鄙」つまり田舎と、「都」。
「都」は京に決まっている。なにしろ「京都」だ。
では「鄙」とは、松坂か。これもまず正答だろうが、ただ、
「田舎の学問より京の昼寝」
という言葉の「田舎」とはいささか異なる
むしろ「商い」のパラダイムシフトをして、近代的な経営への道を開いた三井高利。
彼に遅れること百十年、松坂本町、まさに三井家の隣で生を受けた本居宣長は、「最強の国学者」として中国依存の人々の蒙を啓き人文科学の近代への一歩を踏み出した人である。
松坂郊外、射和の竹川竹斎は、日本の近代のヴィジョンを見事に描き、歴史はその後を追った。
彼らを輩出した町を、「鄙」と嘲笑するか。では当時の京には、それを上回るものがあったのかと、近世における地方の意義などとりとめもないことを考えていた。

都と鄙、この対比に囚われていたのが、連載でもよく名前の挙がる上田秋成だ。
彼が、難波から京に引っ越してきての感想は、
「(京は)不義国の貧国じやと思ふ」(『膽大小心録』・以下秋成の言は同書から)
人の心根も悪ければ、また金回りも悪いと花の都・京を散々に腐すが、その秋成に、
「田舎人のふところ親爺の説も、また田舎者の聞いては信ずべし」
などと嘲笑された宣長は、その最晩年1801年の二ヵ月余を京で過ごしている。
その感想が『玉勝間』巻13「おのが京のやどりの事」である。

 宣長、享和のはじめのとし、京に上りて在しほど宿れりし処は、四條大路の南づらの、烏丸の東なる所にぞ有けるを、家はやゝ奥まりてなむ有けれど、朝のほど、夕暮れなどには、門に立出つゝ見るに、道もひろくはればれしきに、行き交ふ人繁く、いと賑はゝしきは、田舎に住なれたる目移しこよなくて、目醒むる心地なむしける

京都四条、烏丸通りに面した巨大なビルの片隅、今も小さな「鈴屋大人偶講学跡」の石柱が立っている。
図は、留守宅に送った書簡に添えられた宿も間取りである。

「京の宿りの図」(宣長筆)

 「なかなかいい宿だぞ」と千万言費やすより、如何に居住空間として快適かということはこの図を見れば一目瞭然だ。見逃してはならぬのが、図解を巧みに取り混ぜる手法と、例えば『古事記伝』ではほとんど図を使わないこと、この使い分けである。
きっと「言葉」と宣長について考える時のヒントになりそうだ。
何れにしても、さっとこんな図が描けると言うことは、空間把握能力に長けていた証でもある。

 さて、昔の朝は早い。
宣長が目覚めて通りに出ると、広々とした通りを既に人は行き交い、一日が始まる。
やがて、
「さまざまな 人が通つて 日が暮れる」 『武玉川』

宣長は、田舎者の私には、目覚むる心地がすると嬉しくなる。
松坂を田舎だという宣長の言はカラっとしていて、秋成のような陰湿さはない。
もちろん秋成のこのような陰湿さに近代的な愁いを重ね、有り難がる人もいるのだが。

このあと、この四条通はいいなと誉め、京の町への賞賛と宣長のことばは続く。

 京といへど、なべてはかくしもあらぬを、此四條大路などは、ことに賑はゝしくなむありける。天の下三ところの大都の中に、江戸・大坂は、あまり人の往き来多く、乱(らう)がはしきを、よき程の賑はひにて、万の社々寺々など、古の由ある多く、思ひなし尊く、すべて物清らに、よろづの事、雅びたるなど、天ノ下に、住まほしき里は、さはいへど京をおきて、外にはなかりけり、

宣長はやはり『玉勝間』の「伊勢国」で、伊勢国、とりわけ松坂は素晴らしいと「国誉め」をするのだが、その基準はやはり「京」である。
また『源氏物語』に勝る物語はないという彼にとってこの町は、今も平安の「都」であって、その価値は揺るぎなかった。
賑やかさは好きだが、江戸や大坂と過度な騒がしさと京のは違うとか、

由緒ある社寺など各所に歴史の重みが感じられ、「すべて物清ら」、つまり最上の美しさを見る。
このように京に惚れ抜き、最後は「住むんだったら京都だな」と結ぶ。

四条烏丸は、宣長にとって青春の地でもあった。
師の堀景山宅は綾小路室町西入、今も「本居宣長先生修学之地」の碑が建つ。
医術の師・武川幸順宅も指呼の間。勉強の合間には四条通を歩き、時には四条河原や祇園あたりを彷徨い歩いていたのだろう。
その顰みに倣って私たちも、イベント初日を終えた夜、四条大宮から堀川通りを横切り、宣長の修学の地から講筵の地の碑を廻り、円山応挙の宅跡の前から、宣長も通った南座、祇園、八坂神社までぶらぶらと歩いた。

「京都南座の夜景」

「八坂神社の夜景」

 帰りは室町や新町の三井両替店跡など三井家縁の地を廻る。
夜10時をまわっても、まだ「よきほどの賑はひ」、そして春の宵のような暖かさである。

 さて、伊勢商人には、
「あるじ(主人)は国にのみ居てあそびをり」(「伊勢国」)
と言う大原則がある。大坂で金の手配をして京で仕入れ、江戸で売る。それを松坂や射和から指図するというのだ。

もう一度秋成に出てもらおう。彼は、

「三井は浪人者、白木屋は煙管屋、鴻池は小酒屋、小橋屋は古手屋、辰巳屋は炭屋なり、神代から続いてある家のやうに誇る事おかし」

と揶揄するが、その由緒を誇ったか否かはともかくも、三井や冨山家、竹川家など多くの伊勢商人の先祖は確かに「浪人者」だが、その身分は何れも高かったようで、武士団を率い戦い、敗れ落ち延びた家であった。このDNAが数百人、千人規模の使用人を各所に配し、差配し、大商いを展開したことと無縁とは思えない。
また三井家でも、中万(乳熊)村出身の「ちくま味噌」竹口家でも、何れの世にか商いが立ちゆかなくなったら総員退去、伊勢に戻り再起を図ることを指示するのも、近世の武士にはないたくましさが感じられる。

話は逸れたが、そのような大原則から外れ、三井高利が晩年をこの京で送り、十六番目の子をもうけ、やがて本宅までこちらに移したのは、なぜだったのか。
ミニトークではそのことも話題となった。
色々な理由は考えられる。
今回のコーディネーター氏の「京の女」説など、高利を商いの化身のように考えていた私には思いも寄らなかったのだが、なるほど考えられるかもしれないと心が揺らいだのも事実だ。

しかしそれにも増して、この京の町の持つ魅力は大きかったろう。
三百年という時間は経ているが町の空気感は、やはり松坂とは違うねと話をしながら、二時間余の散歩を終えてホテルに戻った。

松坂の土地の力は絶大だが、「鄙と都」という視座もまた重要であろう。

カチっと松坂 本居宣長の町2024.01.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数