本居宣長を理解するのには、二つの鍵があると思う。
一つは「恩頼」、これは「みたまのふゆ」と読む。神仏のご加護、おかげのことである。宣長の世界を説明するのに、本居大平が「恩頼図(みたまのふゆのず)」を描いて、その位置づけに成功している。
だが、これはなにも宣長に限った話ではない。日本という国を理解する鍵でもある。
この国土に住む人は、絶対的な神や力を創造するよりも、〈おかげ〉を大事にしてきた。例えば、神さま、先生、もちろん父母、あるいはライバル、その様々なお蔭で、今の自分が存在し、またその〈私〉は、周囲や次の世代の人に影響を及ぼしていく、
この〈おかげ〉の無限連鎖の中に、自分たちの〈生〉を位置づけていくのである。
「恩頼図」に挙げられた先人たち。また多くの門人や、宣長の著作に刺激を受けた人たち、そのようなたくさんの人々の関わりの中で、宣長世界は構築されるのである。
鍵の二つ目は、〈パール ○ ネットワーク〉である。
やはり大平は、「白玉の五百津(いほつ)集(つど)ひ」という美しい詞でこれを表している。
真珠の輝く鏡面体は、隣り合う互いを映し合い、それが連なることでその美しさは幾倍にも増すという世界モデルだ。これが仏教経典では、「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)」と言われたりする。帝釈天の宮殿を飾る無数の宝石が、互いを映し合うことで、その美しさは喩えようもないほどとなるという素晴らしい世界観である。
もちろん「白玉」でも「帝網」でも結構だが、三重県は何といってもミキモトパールが有名なので、「パール」を使わせてもらった。
さて今回は、大平が「白玉の五百津集(つど)ひ」の一人として挙げた飛騨高山の国学者・田中大秀の話である。
「田中大秀像」
三月の終わり、私はJR特急ひだで名古屋から高山に向かっていた。
岐阜を過ぎて20分も経たないうちに車窓は一変、雪景色となった。やがて下呂駅も近づき、迫る山と川の岩に激しく降る雪を眺めていると、浦上玉堂の「凍雲篩雪図」の中に入り込んだような錯覚を覚えた。
「凍雲篩雪図」、「とううんしせつず」と訓む。作家・川端康成の所蔵品で現在国宝に指定されている。「篩」はふるいのことで、春の雪ではないが、冷たく垂れ込めた雲と峨々とした山容は、まさに玉堂のこの一幅の世界であった。
ぜひこの絵をインターネットでも、また画集ででも探してご覧頂きたい。素晴らしい作品である。
このたび飛騨高山に赴いたのは、3月24日の「第39回飛騨歴史民俗学会大会」に出席するためであった。この大会では「田中大秀」がテーマとして選ばれたのである。
雪の降りしきる中、高山の町を歩き、まず訪れたのは「飛騨高山町の博物館」である。
私はこの前身の「高山市郷土館」で田中大秀と出会い、その遺墨も拝見し、また2004年に川崎市民ミュージアム等で開催した「21世紀の本居宣長展」では貴重な史料も出品いただいた思い出深い博物館である。
飛騨高山町の博物館
とりわけ、1996年9月(会期・14~29日)に田中大秀没後150年・高山市制施行60周年記念として開催された「特別展 田中大秀」は、大秀の旧蔵書を収める荏野(えな)文庫や大秀が再興に尽力した飛騨総社、荏名神社、また高山近在の個人所蔵品を集めた圧巻の展覧会であった。私も夢中で展示品をノートに転写したことを懐かしく思い出しながら、今回も館の各所に展示される大秀史料を見ていったのだが、一通の大秀書簡の前で足が止まった。キャプションによれば加藤千蔭宛とある。
脇に添えられた翻刻をもとに読んでいくと、浦上玉堂のことが書かれていたのには正直驚いた。
改めて浦上玉堂について述べておくこととしよう。
玉堂(1745-1820)は、もとは岡山の池田家支藩・鴨方池田家の藩士であったが、琴の名手でしかも南画をよくした。詳しい事情はわからないが、1794年4月、春琴、秋琴の二児を連れて城崎から出奔。つまり脱藩した。
以後全国を遍歴するのだが、その年の9月、松坂の宣長のもとを訪ねたことがわかっている。
鈴屋来訪者の記録『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』寛政6(1794)年条に次のように記される。
「九月来ル、一、備前岡山、玉堂、俗名・・・」
記載はここで中断していて、宣長との間で何があったのかは杳として知れなかった。
そして何年か後、玉堂は飛騨高山で田中大秀を訪ねているのである。
展示の書簡は、まさにそのことを加藤千蔭に報じたものであった。
展示ケースの中の大秀書簡は次のように玉堂の来訪を報じている。
大秀は、玉堂という翁が私の所を訪ねてきた。「琴の琴」を弾く人で、あなた(千蔭)の所を訪ね琴を弾き、琴に関わる話をしたと申しておられた。
書簡の紹介を中断し、ここで、「琴の琴(きんのこと)」を説明しておこう。
これは奈良時代から平安初期の楽器で、「箏の琴」と対比して名付けられた。面には桐、胴には梓を使い、長さは三尺六寸、黒漆塗りで七弦。柱(ぢ)が無く左手で押さえ右手で弾くのだが、奏法は難しかった。玉堂はこの名手として知られていた。
大秀は若い頃から琴や箏、篳篥と言った我が国の管弦に関心を持ち、玉堂と会った頃にはひとかどの腕前になっていたはずだが、やはり相手は名人である。そこで奈良時代の民謡で、平安朝には宮廷雅楽の曲調に当てはめ歌曲とされていた「催馬楽(さいばら)」の節の手ほどきを一つ二つしてもらった。
琴の琴やら催馬楽とややこしいことのようだが、これは『源氏物語』の世界を味わう上でとても大事なところである。
そこで大秀は「千歳の杉」を用意して、「琴の琴」も作ってもらい、「浅水(あさむつ)」と命名した。名前は、催馬楽の「浅水の橋の」と歌い、『枕草子』に「橋はあさむつ」から採った。
「浅水」は「あさむつ」と読むが、その場所については諸説有る。一般的には福井説だが、大秀は飛騨国説を強く唱えていた。そこで催馬楽(さいばら)に詳しい玉堂に、大秀は飛騨の「あさむつ」近くにあった千歳の杉を用意して琴を作ってもらい、「浅水」と名前を付けたのだという。
浦上玉堂は飛騨にも足跡を残しているのである。大秀と玉堂は、宣長や千蔭そして管弦と共通の話題も多く、きっと意気投合したことであろう。
今回の高山訪問で、この一帯には玉堂の作品やまた関連書簡がたくさん残っているという話はきくことができたのだが、それ以上に私にとって大秀と玉堂の対面が重要なのは、玉堂が松坂で宣長にあった時の話を、大秀に語ったこと、それを大秀がきちんと書き留めてくれたことであった。
玉堂が宣長と会った時の話は、この書簡に記された時と考えて間違いが無かろう。
大秀が記録してくれた対面の様子は次のようである。
田中大秀『ひとつまつ』(『田中大秀』5巻37頁・勉誠出版)
大秀の記録は、玉堂が「伊勢歌(海)」を歌い琴の琴を弾き、宣長が喜びの歌を詠んだ情景を伝える。
「伊勢海」は催馬楽の曲で、詞章は、
伊勢の海の きよき渚に 潮間(しおかひ)に なのりそや摘まむ 貝や拾はむ
玉やひろはむ
『源氏物語』明石巻に「伊勢の海ならねど、清き渚に貝や拾はむなど、声よき人にうたはせて、我も時々拍子とりて、声うち添へたまふを、琴弾きさしつつめできこゆ」とある。
宣長の記録と大秀の書簡、覚書『ひとつまつ』はみごとに照応している。
その後、玉堂は高山の大秀を訪ねたときにその話をした。ささやかなエピソードでも、大の宣長信奉者・大秀にとって、いま自分が楽しむ玉堂の演奏と歌を、師もまた喜び愛でられたと思うだけで愉快であった。
さらに大秀は、「浅水橋」が飛騨国であるという自慢の説にちなむ琴を、当代でも有数の奏者に作ってもらったことも、加藤千蔭にぜひ聞いてもらいたい自慢話であった。
加藤千蔭(1735-1808)は、父枝直とともに江戸の賀茂真淵を支えた、おそらく一番たよりになる門人であった。父の枝直までは松坂に住んだが、徳川吉宗が将軍となったときに江戸の与力に取り立てられて、彼の地に住むようになった。田沼意次の側用人も勤めたが田沼の失脚で致仕。だがその禍を転じて、師も為し得なかった『万葉集』全巻にわたる注を付けた『万葉集略解』の執筆に邁進した。原稿は書き上がるたびに松坂に送られ宣長の丁寧な加筆が為された。やがて完成した本は、将軍に進献され、銀十枚が下賜されたが、千蔭はその一部を、宣長の霊前に供えたという。
江戸の千蔭と、飛騨高山の大秀の交流も興味深い話もあるのだが、だがこの二人に関わることで忘れられないことは、大秀が愛用する『万葉集略解』に自分が聞いた宣長の講釈を書き入れ、それをもとに講釈をしたと言うことである。
話の順序が前後してしまったが、大秀(1777~1847)について述べておこう。
高山一之町の薬種商で、若い頃から管弦や和歌を学び、熱田の粟田知周や京の伴蒿蹊に学ぶが、宣長の学問に触れてからはかつての師を離れ、宣長に入門する。その謦咳に接したのは僅かであったが、後世、500名余の門人の中でも五本の指に入る人だと評価される。主著『竹取翁物語解』は、『竹取物語』注釈の白眉と評価も高い。また刊行はされなかったが『落窪物語』、『蜻蛉日記』、『土佐日記』の注釈も試みて、中古の日記、物語研究に大きな影響を及ぼした。
田中大秀旧宅跡にたつ桂園跡碑
だが大秀の素晴らしさはそれに留まるものではない。
仲間と連れだって伊勢参宮に赴いた大秀25歳は、国を出るときから心に期するものがあった。帰路、松坂で本居大平のもとを訪ね、宣長への取り次ぎを懇願する。
大平はその志の深さを知るも、あいにく師は京都に赴いている、と告げる。
大秀の決断は早かった。仲間と別れ、大平の紹介状を持って京都に向かった。
松坂、京は三日もあれば移動できる。5月14日に到着した大秀は、さっそくに宣長の旅宿を訪ねて入門する。
以後、宣長が京都を出立し帰国の途に着く6月9日まで、師の行く先々に同行し、講釈があれば聴講し歌会や行楽にも参加した。「追っかけ」である。
その間の記録が『源氏物語聞書』や「本居大人講説、万葉集聞書」、『古語拾遺講説』としていまも残る。
大秀の熱心さを宣長も賞賛する。
この宣長の京都行きには家庭の事情で同行できなかった大平が、後年、田中大秀の『竹取翁物語解』に序文を寄せて次のように書いている。
大秀の『万葉集略解』に書き込まれていたのは、この京での講釈で語られた師・宣長の肉声であった。また講釈の進捗状況も丁寧に記録されたのである。
やがて宣長の京都での講釈も終わり、師は松坂に、また大秀は高山へと別れるが、帰国した大秀の下に届いたのは、師の訃報であった。
大秀の悲しみは大きさは察して余りあるが、だが師との別れで、大秀の学問は大きく飛躍していく。
大秀が宣長に師事した歳月は言うと、僅か二ヵ月である。だが学問の伝授は、時間の長さではない。宣長は賀茂真淵と対面できたのは一夜であった。だがその前に、江戸帰りの人から真淵の『冠辞考』を見せられ、反復読書した期間、また「松坂の一夜」以後の書簡による指導もあり、師の没後もその学問に向かい合ったわけだから、対面は一日だが、指導は40年余と言ってもよい。大秀の場合は、松坂で宣長に学ぼうと決意してから実に45年、常に宣長と主にあったと言ってよい。
1804年、田中大秀は伊勢国松坂への旅の途上にあった。美濃国金山を出たのはまだ暁闇で時折雨も交じったが、松明で足下を照らしながら、
「故大人のうひ山踏なる ほがらほがらと道見えゆくを と詠給ひし歌思ひ出でて、我学びの道もいかでかくもがなとぞ思ふ」
と自分に言って聞かせたとその旅日記『渚の玉』に記している。『うひ山ぶみ』の、
「其末の事、一々さとし教るに及ばず、 此こゝろをふと思ひよりてよめる歌、筆のついでに、とる手火も 今はなにせむ 夜は明て ほがらほがらと 道見えゆくを」
を思い出し、己の心を駆り立てたのである。
宣長のこの言葉は、「もの学び」の心構えを丁寧に説いたあとで、教えることはみな語り尽くしたはずだ。あとは自分の努力次第。励み勤めれば、自然と道は開けると言うのである。
大秀は、机に向かう時だけではなく、道行くときであっても師の言葉を反復していたのである。
更に大秀は、京都で筆記した講義ノートを書き写したり、亡くなる前年には、福井の門人たちに、自分が若かりし時に聴講した宣長の『万葉集』講義を再演しているのである。古典研究家として優れた業績を上げながら、集まった門人たちには、若かりし時の感動を味わわせたかったのである。
その聴衆の一人、橘曙覧(たちばなのあけみ・1812-68)はこんな歌を詠んでいる。
たのしみは 鈴屋大人(うし)の 後に生まれ その御諭(みさと)しを うくる思ふ時
そして大秀は、亡くなるまで宣長の霊祭〈影前会〉を続けられたのである。
「わが大秀翁は僻遠の地飛騨にあって、永眠の前年まで実に四十五年の長きにわたり、ずつと継続して師翁の霊祭を絶たれなかつたのである。わづか二月足らずの学恩に対し、かほどの報謝をいたすといふことはけだし稀有の例ではなかろうか。道を求める熾烈な精神と師翁に対する傾倒の深さを察すべきである」
「嵯峨山の松」大野政雄
宣長の学問が田中大秀の人生を変え、大秀のその態度は橘曙覧に深い感動を与えた。
また村上玉堂と宣長、加藤千蔭、田中大秀とつながりは広がり、多くのすばらしいものを生み出していく。
これが〈パール○ネットワーク〉である。
雪の高山から帰京した翌々日3月27日、松阪殿町の通称・山田大路桜が見ごろとなった。
春がやってきた。
カチっと松坂 本居宣長の町|2024.04.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数