COLUMN

18, 江戸と松坂・東京と松阪

雪きえて 四五百の森の 下草も 若葉つむまで 春めきにけり

(宝暦11年・32歳)

宣長と江戸

静かな田舎暮らしよりは賑やかなところが好きだという本居宣長も、さすがに江戸、大坂は雑然としていて好みではなかった。くらべて京は、「よきほどの賑はひ」で、しかも由緒ある所も多く、「思ひなし尊く、すべて物きよらに、よろづのこと雅たるなど、天の下に、住まゝほしき里は、さはいへど京をおきて、外にはなかりけり」、見るものすべてが有難く、美しく、しかも雅やかで、やっぱり住むなら京都が一番だという。
このような宣長の都市観については既に触れたが、当時流行、いや今でも評価の高い「浮世絵(江戸絵)」などは、その評価も無惨である。

「今の世に、江戸絵といふ絵などは、強ひてあながちに顔よくせんとするほどに、絵のさまの賤しきことは更にも言はず、なかなかに顔醜く見えて、いと拙きこと多し」

『玉勝間』「絵の事 3」

「強いてあながちに顔よくせんと」というのは、浮世絵の様式美や、ディフォルメされた表情などを指すのだろうが、それを洗練されたとか、面白いという現在の評価とはずいぶん違う。
松坂と江戸は約430㎞離れている。歩くと二週間近くかかるが、気持ちの上では存外近かったのかも知れない。この小さな町の約50軒の家が江戸で商いをしていて人の往き来も少なくはなかった。またそのお店(たな)で働く従業員も地元採用が多い。従って江戸の動きや流行も、ほぼリアルタイムでこの町に入ってくる。当然のこと宣長もその恩恵には浴していた。賀茂真淵の最新刊『冠辞考』を持ち帰って見せてくれたのも、江戸店から帰った人であった。また江戸からの来客が有れば、彼の地の様子を興味をもって聞いたともいう。
江戸が好きか嫌いかと問われたら、嫌いと答えたかも知れないが、大都市の持つ力は、政治、経済などで大きいことは、宣長も認めていた。

「春は初午さんの賑わいに乗って」

宣長は雑踏嫌いだったというわけではない。時と場所にもよる。
京都で学んでいた二十代半ばの宣長に、四条河原の夕涼みや祇園の賑わいはお嫌いかと問うたら、そんな事はないと答えたであろう。だが七十歳を過ぎたら、鬱陶しくもなる。

さて松坂が一番賑わう日はというと、お蔭参りか初午の日であった。
お蔭参りは約60年にいっぺん、一生の内で一度あるか無いかであった。宣長は42歳の時に経験している。
もう一つの初午祭は、余程の事がない限り毎年やってくる。
現在の祭風景は、このCORUMUのもう一つのコーナー「ぷらっと松阪不足案内」第5回目をご覧頂きたい。

本居宣長記念館のHP「はつむま」には23年前、平成13(2001)年写真が載る。

https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/norinaga3/maitsuki/yo2_2.html#2_1

私の記憶するのは1960年代後半の祭の様子だが、その当時は境内には見せ物小屋、門前にはアコーディオンを弾く傷痍軍人、通りには夥しい屋台が並んだ。
もちろん『三井高蔭日記』や『松坂風俗記』等が伝える宣長当時の賑わいはこの比ではなかった。

「見せ物、軽業など、わづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興行す。京、大坂、名古屋、四日市、津辺よりも、商人多くきたりて、種々の物を売。大かた一ヶ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人皆参詣する」

『松坂風俗記』

一年間、生活で入り用な物は初午の出店で揃ったという。京、大坂、名古屋など香具師の商圏はかなり広かったのだろうか。

 冒頭に引いた宣長の歌をもう見ていただきたい。
雪きえて 四五百の森の 下草も 若葉(わかは)つむまで 春めきにけり
ここには、「はつむま(初午)」の文字が隠されている。
また、1758(宝暦8)年の「二月朔、初午、晴天」(『日録』)という表記にも、高揚感が感じられないか。宣長のような書斎人でも、「初午」は心浮き立つものなのだ。
松阪の町に春を呼ぶ岡寺山継松寺の初午祭、今年2024年は3月9日が宵宮、10日が本日となる。

日本橋vs麹町

さて、岡寺山の初午。大きな賽銭箱の前で厄を祓われたら、そのまま首だけ曲げて左上を眺めていただきたい。
彩色も鮮やかな奉納額が見えるだろう。

岡寺山継松寺岩城屋奉納額

岡寺山継松寺岩城屋奉納額

 額には「奉納、江戸、岩城屋」、「世話人、多七、只七、甚四郎兵衛」と書かれている。
店の暖簾には、[□に「岩」の字]、呉服物とある。江戸の呉服店前風景だ。
[□に岩]と言えば、岩城升屋家と知れる。看板にも「升屋」の文字が見える。
岩城は、もとは近江国大津で米商だったが、三代目の時に大坂に出て呉服屋を開業、1672(寛文12)年3月から大坂高麗橋畔に店を移し、1674(延宝2)年8月、京都室町二条に進出。1690(元禄3)年、江戸麹町第五街に支店を出した。

ところで松坂で江戸店と言えば、連想するのは駿河町、大伝馬町など日本橋界隈だろう。
伊勢商人研究の先駆者の一人・武藤和夫の研究に、大喜多甫文が増補した「主な江戸店持ち松坂商人」(『松坂商人のすべて(一)-江戸進出期の様相-』十楽選、よむゼミ№11)を見ると、松坂グループの大半が大伝馬町、つまり日本橋界隈だ。
三井、長谷川、小津、長井など多くの豪商が軒を連ねた日本橋界隈、一方の麹町は江戸城を挟んでちょうど反対側に位置する。
半蔵門を出て四谷御門に向かう道に沿い、附近には大名や旗本の屋敷が建ち並ぶいわゆる山の手だが、その中のもっとも繁華な町が麹町だ。
だから同じ賑やかと言っても、日本橋とはやはり違う。

日本橋の江戸店を描いた、たとえば歌川広重の「東都大伝馬町繁栄之図」や、松阪市清水町の西方寺の「東都三井店之図」などは、遠景に富士山を配し鶴が舞ったりといかにもおめでたい、行き交う人もまるで新春を言祝ぐような長閑さが感じられる。

「東都大伝馬町繁栄之図」の一部分

「東都大伝馬町繁栄之図」の一部分

 一方の麹町、岩城屋の門前、上には鶴が舞い、着飾った女性も歩き子どもも遊んではいるが、行き交う人の中には侍とそのお供、また種子島を入れたような筒を肩にする人もいて、厳めしさも感じられる。さすが番町や外桜田のお屋敷を上得意とする町だけの事はある。細かに観察すると面白そうだ。

よく、豪商は江戸や大坂にお店をもっていてねと口では言うが、具体的なイメージはなかなか描けない。そこで一つの提案だが、駿河町にあった三井越後屋、大伝馬町界隈の錦絵、「熈代勝覧」や『江戸名所図会』の長井家等を片端から集めて、また関係する大伝馬町や本町の町絵図、さらには大坂高麗橋の三井越後屋の扁額や、近江からはこの岩城屋の扁額にもお出まし願って、写真で良い、全部を一室に掛けて、そこで物知りな人に絵解きや観察会をしてはいかがか。特に日本橋界隈では、お店で働く人の大方が、この松坂や近在の農家の出身であったはずである。伊勢弁が飛び交っていたはずである。案内人が木綿で伊勢弁を話したらなおよかろう。プチ・タイムトリップである。

では、なぜ近江の岩城屋の看板が松坂の岡寺に掛かっていたのかということだが、おそらく「世話人、多七、只七、甚四郎兵衛」という三人が当地の出身であり、奉公先のお店の繁栄を願い、連名で奉納したのではないだろうか。
ひょっとしたら、我々の働くのは庶民の多い日本橋なんかじゃねえぞという優越感があったとするのは穿ちすぎか。

ちなみに本居宣長の歌会の会場・樹敬寺嶺松院が和文系とするなら、この岡寺山継松寺は当然真言であるから仏教や韻学、また門前の韓天寿との交流など漢文系に強かった印象がある。
韓天寿と言えば池大雅、篆刻の高芙蓉と三岳道人を名乗った当時は名の知れた書家。岡寺版法帖刊行に深く関わった。天寿が小津清左衛門家の依頼で染筆した香炉も岡寺山継松寺の本堂に向かって左側にあるので、これもお見逃し無く。

江戸店などで奉公した人が地元に錦を飾ったのだろう。
西方寺の扁額には、「願主江戸三井向店飯田又四郎、同飯田重太郎、同太田文四郎、本店太田友七」が奉納したと明示されている。

 奉納額ではないが、松阪市の大河内城跡本丸の八幡社脇には一抱えもある石が置かれている。そこには次のような文字が読み取れる。
「奉納、華遊、大伝馬一、太助、同、半助、本丁、東助、中川嘉ヱ門、世話人◎(十)店、鬼熊」
江戸通の三田村鳶魚『相撲ばなし』「柳原下の鬼熊横丁」には、

「鬼熊は江戸の掉尾の強力でした。柳原の土手も下りた所に、鬼熊横町というのがありました。私の子供の時分に、縄暖簾の店頭に、力石をいくつも置いてあったのを見覚えておりますが」

(全集:15-125)

とある。どうやらこの石は「力石」らしい。
大河内八幡では奉納相撲も開かれたと記録にある。近在の力自慢が集まるこの場所に、大河内村から大伝馬町や本町で働く四名が金を出し合い奉納したのではあるまいか。故郷に錦を飾ったのだ。岡寺の岩城屋の絵馬も、きっとそうではなかったかと思う。

大河内城八幡社の力石

「大河内城八幡社の力石」

小津安二郎と、三越の「天女(まごころ)像」

初午も過ぎると、いっぺんに春がくる。令和5年度も終わりである。
松阪では令和5(2023)年は、映画監督小津安二郎生誕120年と、三井越後屋創業350年という記念の年でもあった。
二つの行事、宣長との関わりの所で、二つほど話題を提供しておこう。

最初は小津安二郎だが、吉村英夫さんの連載「小津安二郎の「松阪(まっつぁか)」について-もうひとつの『東京物語』考」。今も夕刊三重新聞で週二回連載中だが、これは記念の年の大きな収穫である。

先ほど、「日本橋界隈では伊勢弁が」と書いたが、多感な少年期を松阪、また宇治山田で過ごした筈の安二郎だが、映画にはこれと云った当地の影響は見られない。深読みすれば思い当たる節は有るという程度である。
そんな中で、唯一の例外が『東京物語』のワンシーンで、そこに「松阪(まっつぁか)」が出てくる。母の臨終に間に合わなかった末弟の平山敬三(大坂志郎)が、

「生憎くと松阪(まっつぁか)の方に出張しとりましてな。おくれましてどうもすんません」

というせりふだが、尾道生まれで大坂育ちの敬三がなぜ「まっつぁか」というのか。そもそも「松阪」をなぜ出したのかなど、吉村氏の連載は続く。

さてその連載5回目で、池田哲朗の「東京物語」撮影取材記事(「小津監督の芸・色・鬚」『丸』1953年12月号聯合プレス)から次の一節が紹介されている。

「※凝り性の小津…小津映画の事を〈たそがれ芸術〉というが、…たそがれ芸術とは、具体的にいうと、薄光=トワイライトの流れる夕暮れの悲哀である。「もののあわれ」の微妙な黄色ッぽい、甘美な瞬間の呼吸である。同時にそれはドラマチックであるよりも一層叙情的…。」

これは、「もののあはれ」のとらえ方として注目すべきものであると思う。

 もう一つは三井越後屋350年。三越日本橋本店1階の天女像である。

下に、三越の花に包まれたシンボルのライオン、その前に三越創業350年のプレートが掲げられている。
「天女像」、これを「まごころ像」と読む。作者は佐藤朝山(玄々)、1960年の作である。あまりにも大きすぎて目に入らない人もいるが、一度その存在に気づくと、仰天するはずだ。
この〈天女〉を〈まごころ〉と読むこと、また朝山(玄々)の作歴を追うことでこの像の解読をしたのが磯崎康彦の『佐藤朝山と近代彫刻論』(玲風書房)である。
この本の中で磯崎氏は、「まごころ」の典拠が本居宣長の「まごころ」説ではなかったかと推察する。
『古事記』、『日本書紀』に載る日本の神話が近代の芸術に及ぼした影響は大きい。
絵画では青木繁や安田靫彦のほか、物語や彫刻にも数多くのモチーフを提供してきた。西洋絵画における聖書のようなものか。
2004年、川崎市民ミュージアムや四日市市立博物館で開催された『21世紀の本居宣長展』の図録でもていねいに紹介されているが、その展示の時にどうしても所在がわからず涙を呑んだのが佐藤朝山の「木花咲耶姫像」であったのは懐かしい思い出である。

日本橋三越本店「天女(まごころ)像」佐藤朝山作

日本橋三越本店「天女(まごころ)像」佐藤朝山作

「天女(まごころ)像」は三越本店のシンボルであるから借り出す事など不可能だ。第一、大きすぎる。
そこで、生誕130年記念「佐藤玄々(朝山)展」(福島県立美術館・2018年10月)では、東京藝術大学大学院保存修復彫刻研究室と福島県美の共同のプロジェクトとして像を全方向から3D計測、撮影したものを映像で紹介したという。
松阪でも昨秋「天女像」を巡る講演会を、当地にも関わりの深い彫刻家・籔内佐斗司氏さんを招き行ったが、もう一工夫できなかったものかと、今になって思う。

『佐藤朝山と近代彫刻論』と今では容易には手に入らなくなった
「21世紀の本居宣長」展図録

カチっと松坂 本居宣長の町2024.03.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数