COLUMN

20, 花を愛でる人々

今年の桜は開花も遅かったが、特に枝垂れ桜などはずいぶん長く楽しめた。

崇神天皇陵(行燈山古墳)の桜

崇神天皇陵(行燈山古墳)の桜(2024年4月13日)

花はシャクナゲも終わり、松坂城址、鈴屋の下のナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)が見頃を迎えようとしている。
前回「飛騨の国学者・田中大秀」の最後で誤りがあった。

村上玉堂と宣長、加藤千蔭、田中大秀とつながりは広がり、多くのすばらしいものを生み出していく。これが〈パール○ネットワーク〉である。

この「村上」はもちろん「浦上」である。

さて、この玉が連なることで生まれる新しい世界、価値ということで言えば、『玉勝間』もまた〈パール○ネットワーク〉である。
1019項目のいろいろな玉が連なる。古典籍からの引用有り、考証や小論、個人的な感慨を述べた項目と、その輝き方も異なる。一々を注意深く読むと面白いが、それが随筆集として一冊にまとまると、別の趣が出てくるものである。編集の妙であろう。

須賀直見が言ひしは、広く大きなる書を読むは、長き旅路を行くが如し。面白からぬ所も多かるを経行きては、また面白く目覚むる心地する浦山にも至るなり。

『玉勝間』巻2「ふみよむことのたとへ」

この「広く大きなる書」は『源氏物語』のような本を指すが、『玉勝間』のような随筆書でも、最初から通読していくと、拾い読みとはまた違う面白さがあるものだ。
読書を旅に喩えるなどは、そんなに珍しいことではないが、これを書いた宣長と須賀直見という人に注目すると、別の感慨が生じてくる。

直見(1742-76)は松坂本町の商家に生まれた。宣長の歌会や講釈に参加し頭角を顕わすが、若くして亡くなる。それを長は深く悲しんでいる。
この発言があった日は、分かっている。明和6(1769)年9月17日夜である。松坂の遍照寺歌会のあった日だ。歌会は昼間のはずで、終わったあとも雅談に興じていたのだろう。 その時の直見の言葉を思い出しながら、書いたのであろう。
この少し前の9月3日には伊勢の内宮、6日には外宮で第50回の式年遷宮行われている。先頃、令和5(2024)年4月8日には、天皇陛下から、第63回式年遷宮の「御聴許」が出たと神宮司庁から発表があった。いよいよ伊勢も遷宮に向けて準備が開始される。
伊勢は遷宮で活気づく。きっと当時の松坂の町も、華やぎがあったであろう。

直見は「鈴屋円居の図」にもその姿を留めている。

鈴屋円居の図

「鈴屋円居の図」(部分)

 羽織を着た宣長の前で、頬杖をついているのが直見である。どうやらこれは彼のお定まりのポーズであったらしい。

うなかぶし 歌思ひける 菅の子が そのおもかげの 忘らえぬかも

宣長の家集『鈴屋集』に載る「須賀直見がみまかれる時に詠める歌ども」の一首である。
「うなかぶし」は、うなだれるという意味で、『古事記』上巻、ヤチホコの神(大国主)が新しい妻となるヌナカハ姫の所に出かけようとする時、嫉妬する妻のスセリ姫に詠んだ歌の一節に出てくる。

やまとの ひともと薄 うなかぶし 汝が泣かさまく 朝雨の 霧に立たまく

スセリ姫を野に立つ一本の薄に喩え、うなだれてお前が泣くその吐息は、朝方の霧となって立つだろうと詠む。『古事記伝』では、「ここは頂(うなじ)を垂れ傾くるにて泣くさまを云」と説く。
それに対してスセリ姫が歌を返し、やがて二人は和解をするのだが、上巻のハイライトシーンの一つである。
もちろん宣長の前の直見は泣いているわけではない。頬杖をつき歌を思案している様子を「うなかぶし」と表現したものだ。

さて、この直見を偲ぶ歌は筑摩書房『本居宣長全集』15巻に、三回も出てくる。
全集の15巻は、宣長の家集『鈴屋集』と、その材料となった編年体の歌集『石上稿』の二つを載せている。二回出ることは多いが、三回というのは殆ど例がない。この辺りにも、宣長の直見を失った寂しさが感じられよう。

直見さんはスミレの花が好きだったと本居大平は伝える。
その家集『稲葉集』(稿本・東京大学本居文庫所蔵)第1冊、安永6(1777)年条に、

 二月のころすみれの花の咲けるに直見ぬしのつねにこの花をめでて過ぎし春ももろともに野辺にゆきて摘みもし、根なが   ら掘りもて来てかの庭にも植えられしこと思ひ出てあはれなりければ

思ひいづる ゆかりの色に 咲きにけり ともにつみてし 春のすみれは

実は二人は縁戚で、大平にとっては師でもあった。請われて宣長の養子となった大平が、直見が存命だったら私が選ばれる事はなかっただろうと悲痛の述懐をしている。
菫が好きでしかも蒲柳の質というと、ついつい「星菫派」ということばを思い出してしまう。明治時代の『明星』に代表されるローマン派の詩人たちである。直見にもそのような気分があったのかも知れないが、他方、漢学に詳しく、その遺品として『事文類聚』という中国の類書が伝わっている。珍しい本である。また宣長の『字音仮字用格』の漢文序もこの人の作である。

突拍子もない連想だが、67歳の宣長が『源氏物語玉の小櫛』を書き終えたときに詠んだ歌が私には思い出されてくる。

なつかしみ 又も来て見む 摘み残す 春野の菫 今日暮れぬとも

日も暮れたので家に帰るが、またいつかこの野辺に菫を摘みに来たいものだ。
愛読して止まぬ『源氏物語』の注釈を、このまま書き続けたいのだが、『古事記伝』執筆も最終局面を迎え、まだ未了の事もあり、断念せざるを得ないという、閉じめの歌である。この歌を詠んだ宣長の脳裏には、『源氏物語』講釈を熱心に聴講し、きっと一緒に野辺に遊び菫を摘む直見の姿が浮かんでいた、そんな気がしてならない。

『玉勝間』の項目配列を《パール○ネットワーク》に喩えてみたが、ところで『玉勝間』14巻(外に目録1巻)の項目数は1005である。これは筑摩書房の全集で通し番号を振ったことで公認のようになっている。私たちも、聞かれたらこの数を言うのだが、実は各巻には、例えば「初若菜」、「桜の落葉」、「たちばな」、「わすれ草」など植物にまつわる名前が与えられ、11巻の「さねかずら」や12巻の「山ぶき」のように歌一首と簡単な解説だけというものもあるが、巻6の「からあゐ」のように「くれなゐ(紅)」と「からあゐ(韓藍)」についての小論もあれば、13巻「おもひ草」のように美濃出身の門人田中道麻呂から竹の筒に入れて実際の植物を送ってきたそんな思い出が書かれていたり、その興趣は本文に引けを取らぬので、14項目を追加して1019項目としたのである。

宣長と植物言えば、やはり『玉勝間』巻6の「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐうべき物もなく、うき世のものとも思はれず」で始まる「花のさだめ」がよく知られているが、標題の通りこの一文はそれぞれの花の優劣を、宣長の目で定めたもので、桜だけを賞美したものではない。梅や桃、菊も取り上げられる。今の季節なら「ツツジ」か。

「つゝじ、野山に多く咲きたるは、めさむる心地す」

たしかに目にも鮮やかである。花には、近くで細やかに眺める楽しみと、また少し離れて群生するのを楽しむのもあるが、宣長にとって桜はその距離に関係なく素晴らしい花であった。そしてその観察は好きな花だけに細やかだ。

遠くの桜を眺望するのも楽しいものだ。思いがけぬ所に満開の花を見つける、春のドライブの楽しみでもある。こんな文章も残している。

かの注釈といふ筋は、例へばいと遙かなる高き山の梢どもの、有りとばかりは、 ほのかに見ゆれど、その木とだに、文目も分かぬを、その山近き里人の、明暮の爪木のたよりにも、よく見しれるに、さしてかれはと問ひたらむに、何の木、くれの木。本立ちはしかじか、梢のあるやうは、かくなむとやうに、語り聞せたらむがごとし。さるはいかによく知りて、いかにつぶさに物したらむにも、人づての耳(みみ)は、かぎりしあれば、近くて見る目のまさしきには、猶似るべくもあらざんめるを、世に「遠(とほ)めがね」とかいふなる物のあるして、うつし見るには、いかに遠きも、あさましきまで、たゞ此処もとにうつりきて、枝さしの長き短き、下葉の色の濃き薄きまで、残る隈無く、見え分れて、軒近き庭の植え木に、こよなきけぢめもあらざるばかりに見ゆるにあらずや。今、此遠き代の言の葉の、紅深き心ばへを、易く近く、手染の色にうつして見するも、もはらこの眼鏡の譬ひに叶へらむ物をや

『古今集遠鏡』序文

桜とは書かれていないが、歌題などにも選ばれる「遠山桜」のことであろう。これは、古典の注釈書は望遠鏡(遠眼鏡・遠鏡)のようなもので、古の言葉もこの機材を用いると、まるで今の文章のように細やかなところまで分かる、というのだ。
例えば712年に出来た『古事記』は、いくら文字面を睨んでもよく分からないが、『古事記伝』という器械を使えば、あら不思議、太安万侶の前で語る稗田阿礼の声が聞こえてくる、ということだ。

ナンジャモンジャ

今回も、花の下を浮かれ歩くようにまとまりのない文章となったが、最初に書いた鈴屋庭園下のナンジャモンジャ。木が大きくなりすぎて、青空の日には遠くからは白雲のようで美しいが、花は仰ぎ見ることになる。所が鈴屋脇の庭園からは、ほぼ同じ高さに花が見えるので、一つ一つの花を楽しむことも出来る。今月の初めが見頃、ぜひご覧頂きたい。

ナンジャモンジャを上から見る。あと数日で満開、真っ白になる。背景は御城番屋敷。

カチっと松坂 本居宣長の町2024.05.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数