ネーブル・ジャパン松阪が事務所を構える場所は、松阪の中でもとりわけ重要な場所である。本居宣長の生誕地や三井家の発祥の地がある本町に肩を並べる二大トポスの一つだ。事務所の前は、かつて伊勢街道(参宮街道)と呼ばれた道。ここを多くの人、またその背中に負われた情報が行き交った。
その道を挟んで真向かいには、「松坂の一夜」の舞台となった旅籠・新上屋があった。
今は記念碑と、宣長ゆかりの場所と言うことで、山桜が植えられている。
伊勢方面に向かってものの50mも歩けば四ツ辻で、ここが和歌山街道の起点である。今も道標が残る。和歌山までは紀伊半島を縦断し、歩けば4日の道程である。
ちなみに、和歌山とは反対方向に進むこと僅か7分でJR・近鉄松阪駅だ。
日野町の道標
今、「新上屋跡」には二つの碑が並び立つ。
一つの史跡に碑が「並び立つ」というのも妙な話だが、いろいろな変遷を経ての結果である。
動いたり、数が増えたりするのは石碑だけではない。
そこであった事、これも「事実」であるから本来は一つのはずだが、「伝承」として変容し、また膨らみもする。
松阪市日野町の「松坂の一夜」というのは、賀茂真淵と本居宣長の文字通り「一夜」の出会いの話である。この最初の記録は、当事者の一人、宣長の『日記』である。
「廿五日、曇天 ○嶺松院会也 ○岡部衛士当所一宿【新上屋】、始対面」
宝暦13(1763)年5月25日、今の暦では7月5日、松坂は曇り空だった。午後は新町樹敬寺塔頭・嶺松院で歌会があり、宣長も参加した。この夜、岡部衛士(賀茂真淵)が松坂の新上屋に一宿。宣長は初めて対面することが出来た。
「対面」という言葉に違和感を覚える人がいる。「拝謁」などとあって然るべきではないかと。なるほど。
一方の真淵は、12月16日付で宣長に書簡を送り、
「六月之芳書到来、如御示此度邂逅之接芝、致大慶候故云々」
と礼を述べた。6月の貴兄の書簡を拝受した。仰せの如くこのたびの出会いは嬉しいものでありました云々。真淵にとっても喜びの出会いであったようだ。
これも、6月の返事を半年も過ぎた12月に書いて、何が嬉しいものであったか、儀礼的な文言だという人もいる。
一方また宣長も、京都時代の気の置けぬ悪友宛に、
「加茂真淵と申歌学者、甚古学を委く極め申候て・・・束脩を行ひ、何やかや尋ねに遣はし申候。扨々面白事共多御座候。世間の俗物とは違ひ、甚高上成事共、古書には至極詳しきことに御座候」
と書き送っている。書簡の前後を読めば、真淵の学問を高く評価していることは伝わってくるのだが、それにしても、事も有ろうに大先生を「真淵と申歌学者」と言い放ち、「世間の俗物」と比較するなど、「県居大人之霊位」を床に掛け崇め祀った後年の宣長なら、「こんな書簡が残っているなんて」と臍をかむだろう。
時間の経過に、喜びはいや増しに増し、やがて俗情は消えていく。
晩年の宣長の回想文を引いておこう。
「一年此大人(賀茂真淵)、田安の殿の仰せ事をうけ給はり給ひて、此伊勢の国より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有し折、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へりしを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみじく口惜しかりしを、帰へるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひ待ちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでゝ、はじめて見え奉りたりき。さてつひに名簿を奉りて、教えをうけ給はることにはなりたりきかし」
『玉勝間』巻2「おのが物まなびの有しやう」
この生涯一度の出会いが、やがて二人の運命を変えただけでなく、日本の学問の近代への扉を開くことになったのである。
二代目、三代目の碑が並び立つ現在の新上屋跡
宣長の「日記」や晩年の回想、また自身の見聞を拠り所として、佐佐木信綱が「松坂の一夜」という文章を書いた。大正5年には、それをリライトし、尋常小学校の国定国語読本に掲載され、日本中の子どもたちが習うことになる。
だから大正2年から松阪で少年期を過ごした映画監督の小津安二郎も、舞台となったこの松阪で、この教材を習っているはずである。
安二郎少年はともかくも、この教材はずいぶん多くの人の記憶に残ったようだ。
私も記念館に入った頃、年配の見学者の方が、実に懐かしそうに語ってくださるのを幾たびも耳にした。子どもの心に染み通る、よい一話であったようだ。
その思い出話を聞いているときに、気になったのは「一夜」の読み方と、戦後もこの教材を習ったという人が少なからずおみえになったことだ。
そのことはあとで述べるとして、まず文章をご紹介しよう。
戦前の教材だから歴史的仮名遣いを使用している。
第十三 松阪の一夜
本居宣長(もとをりのりなが)は、伊勢(いせ)の国松阪の人である。若い頃から読書が好きで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。
或夏の半ば、宣長がかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、
「どうも残念なことでした。あなたがよく会ひたいとお話しになる江戸の賀茂真淵(かもまぶち)先生が、先程お見えになりました。」
といふ。思ひがけない言葉に宣長は驚いて、
「先生がどうしてこちらへ。」
「何でも、山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)にお泊りになつて、さつきお出かけの途中『何か珍しい本はないか。』と、お立寄り下さいました。」
「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」
「後を追つてお出でになつたら、大てい追附けませう。」
宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞取つて、後を追つたが、松阪の町のはづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿の先まで行つてみたが、やはり追附けなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、万一お帰りに又泊られることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
望がかなつて、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ふことが出来たのは、それから数日の後であつた。二人は、ほの暗い行燈(あんどん)のもとで対座した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる少壮の学者。年こそ違へ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。だんだん話をしてゐる中に、真淵は宣長の学識の尋常でないことを知つて、非常に頼もしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は、
「私は、かねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて、何か御注意下さることはございますまいか。」
「それは、よいところにお気附きでした。私も、実は早くから古事記を研究したい考はあつたのですが、それには万葉集(まんえふしふ)を調べておくことが大切だと思つて、其の方の研究に取りかゝつたのです。ところが、何時の間にか年を取つてしまつて、古事記に手をのばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。たゞ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは、学問の研究には特に必要ですから、先づ土台を作つて、それから一歩々々高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」
夏の夜はふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋を我が家へ向つた。
其の後、宣長は絶えず文通して真淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。
宣長は真淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述は此の研究の結果で、我が国文学の上に不滅(ふめつ)の光を放つてゐる。
国定国語教科書
松阪の一夜
この教材は文章や挿絵の変化はあるが、太平洋戦争が終わるまで使われていた。
また、『新制 新撰女子国語読本』四年生用にも載った(昭和16年10月30日訂正三版)。こちらは佐佐木の原文により近い。
戦前の教科書が使用されたのか、戦後も一部の教育現場で使用されたことは先に述べた通りである。
実際に教えたという先生にもお会いしたことがある。そこで私が執拗に聞いたのは、「一夜」を「ひとよ」と読んだのか、あるいは「いちや」だったのかという点であった。
全国を回り国語教育の模範事業を行った芦田恵之介という人の本には「ひとよと読むのだろう」と書かれ、また執筆した佐佐木自身も後年の本ではあるが、「ひとよ」とルビを振るが、実際には教室では「いちや」と教えられていたようだ。「まつざかのいちや」である。
教科書の影響は大きい。舞台となった新上屋跡は一躍有名になった、と言いたいところだが、場所の特定がなかなか困難であった。
新上屋は町の人々の記憶から既に消え去っていた。
佐佐木信綱の原話には「附言」に、「余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に」とある。柏屋が「かねて買ひつけの古本屋」である。原話には「伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗柏屋兵助」とある。つまり「柏屋の老主人」なら場所は容易に分かったはずだが、なかなかうまくはいかなぬものである。
場所がわからぬことを残念に思っていた郷土史家の櫻井祐吉は、1927(昭和2)年10月、八雲神社の遷宮記録によって新上屋の主人が芝山惣太郎、宗太郎であったことを知る。
おおよその場所も推定して翌年4月10日、『【真淵宣長】初対面の遺蹟新上屋』を鈴屋遺蹟保存会から出版した。
だがその2年後、櫻井は松坂西町の旧家の土蔵から『宝暦咄し』という未知の本を発見し、その地図で自身の推定の誤りを知った。
正しい場所というのが、現在碑が立つカリヨンプラザのあたり、もっと正確には街路樹として山桜が植えられているところであった。
この発見の経緯は、櫻井祐吉の『郷土の本居宣長翁』(昭和16年5月1日)に書かれている。この本は松阪市公園郷土会館出版部という不思議な所から刊行された。櫻井の肩書きは、鈴屋遺蹟保存会幹事とある。その略伝は、『三重県史』「別編、民俗」の人物コラムに書いたので興味ある方はご覧頂きたい。
それからまた時間が流れた。
1940(昭和15)年、本居塾によって「新上屋跡」の碑が建った(山田勘蔵「松阪新上屋の話」1979年・夕刊三重連載)。この碑がどうなったのかは分からない。
1953(昭和28)年に「新上屋跡」は史跡に指定され「【賀茂真淵本居宣長】初対面新上屋跡」碑が建った。これが2代目となる。
1970(昭和45)年、道の拡幅と跡地へのスーパー(オークワ)建設で碑は撤去され、代わりに店の営業に触らぬ場所に新しく大きな「史跡新上屋跡、松阪市」碑が建った。3代目である。
1991(平成3)年、店は撤退。カリヨンプラザが建った。大きな碑は消え去り、今度は車道側に当時の松阪市教育委員会が小さな「新上屋跡」という標柱を立てた。
撤去され二つの碑だが、巡り廻って記念館が預かっていた。もちろん記念館は「史跡新上屋跡」ではないのだから、顕彰資料として保存されていたに過ぎない。
そして「松坂の一夜」から250年たった2013(平成25)年7月3日、記念館預かりの二つの碑はもとの日野町に戻された。きっかけとなったのは一人の新聞記者の、「何でここにあるの」という素朴な疑問であった。
記者は取材だけでなく積極的に動き、日野町の土地を管理する市商店街連合や関係者の賛同を取り付け、トントン拍子で元の場所への移設が決まった。
つまりこの時点で、歩道の建物側に移設された二つの碑と、道路側街路樹脇の教育委員会が立てた標柱。街路樹としての山桜、向かいのお店・むらさきやさんが寄進したアルミ製の解説パネルが併存し、賑やかになった。
有為転変は世の慣わし。
2019(令和元)年、山桜の根が張ったことでが傾いた標柱は、市によって撤去された。今は松阪市郷土資料室の倉庫に眠るという。
人は長く記憶を留めようと石碑を建てるのだが、興味が失われ、またいらぬとなれば捨てられもする。事を為したことは大きく書かれても消え去る時は静かである。かすかな記憶もやがて消えていく。
「そうだ、紙碑という手がある」、つまり本にしてばらまくという手もあるが、拙宅書庫に堆く積まれた読まれぬ本を見ていると、これも心許ない。
データは拡散しやすいので大丈夫そうだが、私の関与した本居宣長記念館のホームページもスリム化し、見やすくなったが、消えた項目もまた多い。いち早い復旧を願うばかりだ。
問題は、いかに関心を持続するか、語り伝えるかであろう。
カチっと松坂 本居宣長の町|2024.06.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数