COLUMN

22, 町と本屋

本屋 柏屋

前回は、賀茂真淵と本居宣長の「松坂の一夜」の話をした。
真淵と宣長の出会い、そのきっかけを作ったのが「伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗柏屋兵助」、つまり柏屋という本屋であった。

本屋は、本を売るだけの店ではない。
遠い昔の、また最新の情報を提供してくれるのが本屋である。きどって言えば、情報の集積地で、新しい世界への扉を開いてくれる場所でもある。だから人の集まる駅の近くや、町の真ん中には本屋があったものだ。それも、今は昔。
江戸の頃はひどく賑わう町であった日野町に柏屋兵助の店はあった。古本を商ったと佐佐木信綱の「松坂の一夜」にはある。

未来を開く鍵は古典に隠れているかもしれない。「知者は古典に学ぶ」だ。
また「古典」と「最新」とは真逆のようだが、古典の世界にも最新情報はある。どうやらそれを求めて真淵は、『何か珍しい本はないか』と、柏屋の暖簾をくぐったようだ。
一方の町医者・宣長も、また新しい本との出会いを求めてこの店を訪うた。

江戸時代の本屋[解説]宣長とは関係なく描かれた挿絵だが、この頃の宣長の髪型も惣髪(オールバック)、
意外とこの絵のようであったのかもしれない。

 二人の客の訪問には若干の時間差があったが、主人が仲立ちをして、「松坂の一夜」となった。

本屋の盛衰

本は情報の束である。本屋や図書館にはそれが何百、何千、何万と並ぶ。読む解くことが出来る人には、知恵や創造力の源泉だ。その本屋が減っている。
旅先で本屋を探しても、郊外のチェーン店が有ればよい方だが、車がなければアウトである。
先達て次のような記事が新聞に出た。

「街の本屋 なくさない」中日新聞・2024年5月29日
「出版文化産業振興財団の調査では、全国1741市区町村のうち、書店が1店舗もない「書店ゼロ」の自治体は482市町村あり(今年3月時点)、全体の27,3%に上った」

今、必要な本はネットで買える。これはちょうど、生命の保持に必要な栄養分がサプリメントなどで摂取することが出来るのと同じである。
だが本屋に限らず、店のショーケースや店に並ぶ「もの」には、必要な物を手に入れるだけではない別の効用がある。「並ぶ力」と言ってもいいだろう。
物が集まり、よく似たものが並ぶことは、見る人、選ぶ人を鍛えてくれるのである。 ウキウキしたり、逆にげんなりしたりと気持ちが揺さぶられる。単に、手に入れて終わりではない。

昔は本屋が無かった。本はあっても、消費財、つまり商品としての本は限られていた。

四十二行本聖書

 本が商品化されたのは15世紀代頃。ヨーロッパでグーテンベルグの四十二行本聖書が刊行されたのが1455年。中国や朝鮮半島、日本では、もっと古くから木版印刷はあったが、本を売り買いするのは、社会の安定、家庭の平和があってこそ。日本に限って言えば、都を除けば、江戸時代以前は「本屋」は、まずなかった。
平和が訪れ、衣食も足り、識字率も高まった17世紀後半、漸く各所で本屋が現れてきた。当時は書林、書肆、本屋、物之本屋、あるいは草紙屋などとも呼ばれた。呼び方で扱う商品にも違いはあったりしたが、たとえば江戸の町の地本屋では草紙や一枚物なども商った。一方で「本屋」で古書売買や貸本、地方では出版、いや写本(今で言えば複写サービス)まで行った。

本屋の前の行燈
〔複製・大阪市立住まいのミュージアム〕

松坂の本屋さん

松坂の本屋の歴史はよく分からない。
森壷仙『宝暦咄し』に、
「本屋は藪屋勘兵衛壱軒也」
とある。籔屋は、同じ日野町だが、柏屋からは少し離れる。
壷仙は「一軒」と言うが、これが彼の恣意的な判断なのか、本当に一軒だけだったのかは分からない。だが実際に宝暦時代を生きた人の発言だけに重要だ。
佐佐木信綱は、宝暦13年の「松坂の一夜」のきっかけは柏屋だったという。明治初年、少年の時に、柏屋の老主人から聞いたと証言している。初代から数えて三代目と研究者は推測する。宝暦年間は13年続いた。柏屋は宝暦の後半期に出てきたのであろう。「松坂の一夜」の直前くらいの開店という可能性も捨てられない。
松坂の本屋の歴史で分かっていることは、まずこの地は、本屋に関して言えば、近在の町に比べると後進地であったこと。
神宮の鎮座する山田(伊勢市)には神主たちが居て学問の層は厚い。津は藤堂藩の城下で儒学が盛んであった。三井高利のように、寝ても覚めても金儲けのことしか考えぬ時代を生き抜いてきた商人たちには本屋は必要なかったか。
もう一つ分かっていることは、その松坂が本居宣長の登場で、柏屋など書店が急成長したことである。

 金儲けほど面白いものはないとは言っても、宣長以前、松坂人と本が無縁であったと言うわけではない。俳諧が盛んで句集なども出てはいた。また、各家にはかなりの蔵書があった可能性がある。
たとえば1687年には、当代一流の古典研究家・北村季吟が松坂の商人たちに招かれ、40日間をこの町で過ごし、ロングランの古典講釈を行っている。井上正和氏がその滞在記を丁寧に解読したのが『北村季吟『伊勢紀行』と黎明期の松坂文化 【貞享四年松坂滞在日記 を読む】』(港の人)である。古典講釈を聴講するにはテキストが必要であることは言うまでもないことだ。
また、職人町の中川家には、『元暦校本万葉集』が所蔵されていた。この本はその後、近隣の射和村・冨山家に譲られ、その後も転々とし、今は国の所有、国宝指定を受けている。
私の推測だが、賀茂真淵が松坂で何日か滞在し、また本屋に顔を出したのもこの『元暦校本万葉集』情報を真淵が得ていたからではなかったか。真淵の滞在先の日野町・新上屋から職人町の中川家までは500メートルと離れていない。既に郊外の射和村に流れていたので、時間軸では少しずれてはいたが、目の付け所は間違っていなかった。
ただ彼らが所蔵、あるいは秘蔵していたのは、地元の本屋が扱うレベルの物ではなく、家の奥深くに秘め置かれていたようだ。

宣長の登場

宣長(1730-1801)が京都で医者の修行を終えて松坂に帰ったのは1757(宝暦7)年、28歳の時である。
その翌年から松坂で開かれていた歌会に参加、また『源氏物語』の講釈を開始した。
そこで知り合った人は歳も近かったこともあり、互いに研鑽を深め、やがて中世の歌人・頓阿の歌集『草庵集』の従来の注を批評する『草庵集玉箒』という宣長最初の著作が執筆されることになる。この出版を請け負ったのが「籔屋一軒」と言われた、籔屋勘兵衛である。彼らが互いに出資し、校訂や序文を書き、松坂の書林から刊行したのである。
このような動きの中で、急速に活動を展開していったのが柏屋であった。
先に私は、宝暦年間末の創業ではと推測した。その訳は、柏屋兵助の実兄が、宣長の高弟・稲懸棟隆であり、棟鷹と宣長は同い歳。その弟であるなら開業はいくら早くても宝暦中期以降となる。宣長の学問や名声と一緒に、発展していくことになる。
それを見て、あやかりたいと本居一門への働きかけを強めたのが、職人町の深野屋玄々堂である。ただこの活動は、宣長没後のこととなる。
深野屋については、そこで取り扱った本で面白い話があるので、ぜひ次回にでも紹介したいと考えている。
本屋だけではない。よき読者もぐんぐん育ってきた。そのことがそれぞれのお店にとってよかったかどうかは微妙ではあるが、それも次回に取っておこう。

カチっと松坂 本居宣長の町2024.07.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数