ずいぶん古い写真がある。目をこらすとどうも本屋の店先のようだ。
これは、『鈴屋』(近鉄沿線風物誌 文学2・昭和30年6月)という近畿日本鉄道が出したパンフレットに載った。見出しは「本町の家」、写真は田中庸浩。解説は足立巻一さんである。
と書く。私が生まれる前の写真だが、この店先は記憶がある。古本屋のニシキさんだ。ただ昭和30年当時、貸本屋をやっていたとは聞いたことがない。
「本町の家」
1980(昭和55)年頃であったか、一人の客として私は、何度もニシキに行きご主人から昔の話を聞いた。
主人の自慢と悔恨は、百足町の小津久足・西荘文庫の最後の売り立てに立ち会ったことと、そこで見つけた芭蕉自筆の『更科紀行』を伊賀上野にあった有名な古書肆・沖森直三郎から、「ワシを男にしてくれ」と頼み込まれて渋々譲った話であった。また、西荘文庫の蔵印も一時は持っていたが、これも不可解な経緯を経て失ったと嘆いていた。
店には二階があった。昔はここで定期的に錦絵の市が開かれていたとも聞いた。当時、私が興味を持っていた伊勢の古本屋・中田政吉も来ていたという。
中田については、足立さんの『やちまた』をぜひご覧頂きたい。
帳場の奥、薄暗い部屋には、『更科紀行』自筆本の発見の新聞記事(写真に写っていたのはもちろん沖森氏であった)と、西荘文庫の印影、また何枚かの錦絵が額装され掛けられていたことを思い出す。
当時の私は、そんな古本の話もだが、ここが宣長生誕地であり、裏口を出て背割排水を渡れば、そこは魚町の本居宣長旧宅跡であることに関心があり、主人の話をしっかり聞かなかったことが今になって悔やまれる。
店は古そうに見える。この並びは三井家で、1876(明治9)年の伊勢暴動で共に被災しているから、奇跡的に難を逃れたか。
やがて主人は亡くなり、奥さんが店番をしていたが、その古本屋もやがて閉店。その後、といってもそんなに昔ではないが、店は取り壊され、今は新しい所有者の家が建つ。
伊勢国松坂は「本の町」でもあった。
「本屋は藪屋勘兵衛壱軒也」と森壷仙『宝暦咄し』に書かれたが、18世紀の中頃までこの町に本屋は少なかった。だが、それは本屋(書店)の話。
暖簾をくぐれば別天地、これが江戸期の松坂の町である。
参宮などで通り過ぎる人には、あの三井の出た町だと聞いてきたが、なんの変哲もない細長い町としか見えなかったろう。だが宣長も言うように、
「うわべはさしもあらで内々はいたく豊かに奢りてわたる」
で、内実はずいぶん豊かであったという。
今も長谷川家や小津清左衛門家に掛かるあの重厚な暖簾、そこを潜ると世界は変わる。更に奥の土蔵の中には、大判小判だけでなく本が唸っていた。
伊勢暴動、1893(明治26)年の松阪大火、何より社会の大きな変革で松坂商人の繁栄も終わり、各家は所蔵品の売り立てを始める。
名品は、沖森さんなどの手を経て都会の大きな美術商の手に渡っていった。
何軒もの家の売り立てはあったが、古書と絵画では最大級、おそらく当時民間では国内屈指の大コレクション西荘文庫の解体は、反町茂雄さんの『一古書肆の思い出』や菱岡憲司さんの『大才子 小津久足』に詳しい。
この写真は既にご紹介したかと記憶するが、伊勢街道・松阪大橋から、伊勢富士と呼ばれた堀坂山757mを眺める。江戸や京、大坂から来た旅人は『伊勢参宮名所図会』にも紹介されたこの松坂大橋を渡って松坂の町に入った。
大橋のたもとに今も豪商・小津清左衛門邸がある。すぐ上流に架かるのが魚町橋。江戸時代はまだ無かった。坂内川は水が少なかったので、流れ橋のようなものを架け町民は往き来したのだが、その今の魚町橋の左岸(写真では右側)に土手新・小津与右衛門家、つまり久足の豪邸と西荘文庫があった。
ふだんは水は殆どないが、大雨の時には増水し、文庫も水難にあったという。
今は、お屋敷があったことを記憶する人もいない。
ついでに言うと、魚町上の町に住んだ宣長が、徹夜明けに散歩し、この大橋、あるいはまだ架かっていない魚町橋辺りから、雪の堀坂山を眺め歌を詠んでいる。
1777(安永6)年の旋頭歌である。この直前には寒い夜に徹夜する自分を叱咤激励する歌があり、続いてこの旋頭歌。
夜が明けた。外に出てみると堀坂山は雪化粧だ。道理で昨夜の風は激しかったのだなあ。宣長宅から堀坂山を望むには、坂内川畔まで出てこないといけない。
話は脱線ばかりだが、ニシキさんなど私が記憶する町内の古本、骨董商は、大家の売り立ての、言葉は悪いが残り物を商っていたようだ。だが、「残り物には福」というが、逆に面白いもの、特にこの地域にとっては大事なものが出たのだから、おもしろい。
以上は前置き、今回は前の続きで松坂の本屋の話をすると予告したが、急遽変更。ぜひご紹介したい話題がある。といっても本の話だから、大きく脱線するわけではない。
南陀楼綾繁さんが、日本の古本屋のサイトで連載中の「書庫拝見」、この7月、松坂郊外の射和文庫が取り上げられた。
竹川竹斎が心力を注いで築き上げたこの文庫は、明治期の木っ端役人の狭量でその多くは散逸したが、それでも残った蔵品は、既に目録に、一部はマイクロフィルムでも公開されている。書庫、この場合は文庫だが、その中など絶対に見ることが出来ないので、貴重なルポルタージュである。
竹斎といえば、こんな話がある。
竹川家は松坂近郊・射和(いざわ)村を本拠とする商家である。江戸や大坂などで金融業を中心に商いを展開していた。
さてこれは竹川家に限った話ではないが、伊勢商人の江戸店では、読書は禁止されていた。
「旧来、商戸は多く書を読を禁。我店も然り。故に江戸修行中は読書を被禁。故に書林に付て和漢古今の書を読しこと数千巻に及べり。依て此度改て読書稽古の禁を解たり」
『竹川竹斎翁自筆年表』
江戸で修行する少年・竹斎も、たとえ主人の一族ではあっても、店では本を開くことも許されなかった。それで、やむを得ず立ち読みしていたというのだが、その冊数は半端ではなかった。数千巻、ちょっと盛りすぎの気もするが、本に飢えていたのだ。
その反動が、射和文庫と考えることもできよう。
1826(文政9)年、18歳になった竹斎は初めて故郷・射和に帰った。「初登り」をした。長い見習い生活の終わりである。いったん射和に戻り、数ヶ月後、今度は大坂大川町の両替店での修行に赴く。修行とはいうものの、いわば幹部候補生としてであり、江戸店のような窮屈さはない。
まず、遅まきながら学問の開始である。儒書を長州藩・関氏に入門し「四書」を素読した。国学は赤穂藩に仕え当時伊丹に住んでいた中村孫四郎良臣子に学んだという。良臣は武人、槍術家でもあったが、節を改、本居大平に入門し日本古典を研究した。各地に門人がいたと竹斎は書いている。
ちなみに竹斎の母・菅子は、伊勢を代表する国学者・荒木田久老の娘である。
さて、この竹川竹斎が18歳から住んだ大川町の竹川屋であるが、中之島から淀屋橋を渡って御堂筋に入ってすぐの所にあったことがわかっている。
向かって左隣は鴻池の別家。右隣はなんと懐徳堂である。
懐徳堂(かいとくどう)は、近世大坂商人の学問所。1723(享保9)年大坂船場の5人の有力町人(五同志)が中井甃庵とはかり、儒者三宅石庵を学主に迎えて大坂尼ヶ崎町(大阪市今橋三丁目)に開設、自らの学習の場とした。26年幕府の官許を得て大坂学問所となった。運営は町人の手で行われ、上層町人を受講者の中心としつつも一般に開かれていた。朱子学をもとに日常の実践倫理を重視。中井竹山・履軒が学主であった天明・寛政期にその隆盛期を迎え、冨永仲基・山方蟠桃ら著名な思想家を輩出した。1869(明治2)年閉校した。関係資料は現在大阪大学が所蔵。
というこの学問所も、秋成にかかると散々である。
また、
いずれも『胆大小心録』からである。
秋成の評価はともかくも、一応、懐徳堂は大坂の学問の中枢であった。その隣で向学心に燃える竹斎がいた。だが竹斎の書いたものには、私の記憶する限りだが、この隣の塾のことは何一つ書かれていない。
また、ものの数分も歩けば適塾である。
「船場の町並み復元模型」(部分)
竹斎の話から懐徳堂へと話はどんどん逸れてしまったがもう一度南陀楼さんの連載に戻る。
この連載は今回の射和文庫で27回を数えるが、25回から3回連続で松阪市にある貴重書書庫が取り上げられた。
ぜひ連載のラインナップを見て頂きたいのだが、取り上げられる書庫は全国から、よくぞ探してこられましたという特色のある所ばかりで、そこに松阪が連続して選ばれたことは、これだけで江戸時代の松坂周辺の知力の凄さがわかって頂けるはずだ。
バックヤードの見学、つまり図書館の閉架書庫や、美術館、博物館の収蔵庫見学は、最近の流行りである。この夏も、各地の博物館や図書館で見学会の企画があるはずだ。
ただ、場所が場所だけに、募集人数が限定され、大きな話題とは成らない。
ましてやこの松阪の三館は、射和文庫は個人宅なので拝見は無理。武四郎記念館も先ずそのような企画は無いだろう。本居宣長記念館は、過去には行ったこともあるが、今後はその計画はないと聞く。いずれも小規模館なので仕方がないし、基本的には、収蔵庫は関係者も最少人数、最短時間の入室、外部の人はシャットアウトするのが鉄則である。
それを知るだけに、南陀楼さんの取材交渉も大変だろうと思う。
「何事にも先達はあらまほしきもの」とは『徒然草』の名文句の一つ。
展示室のように見学が前提となっている場所では、配列を考え、作品や史料にはキャプションも備わっているが、収蔵庫はそうは行かない。人に見せる場所ではないからだ。
ではなぜ制約はあっても公開するのか。それは各コレクションを理解してもらうためには必要と考えた上での、ぎりぎりの選択である。本居宣長記念館の場合は、今回の「書庫拝見」をぜひお読み頂きたい。
書庫の見学は案内人が解説をしてくれるはずだが、大前提としてコレクションの特色や歴史、今回の場合は武四郎、宣長、竹斎の生涯についても一通りの知識は欲しい。また見学者は少ないほど、深く面白い見学が可能となる筈である。
今回取材された南陀楼さんは無類の本好き、しかも各書庫を見ているだけに、ポイントを外していない。この訪問記を読むだけで、無理して本物を見る必要はないように思えてくる。もちろん機会が有れば実際を見るに越したことはない。驚きや感動は違う。
だが「書庫拝見」のような練達の士の案内記を読むのは一層の深みがあるように思う。
前回も書いたように、おそらく『元暦校本万葉集』をもとめて賀茂真淵はこの町を彷徨った。宣長の名声が高くなると、たとえば書き終えたばかりの『古事記伝』稿本や、手沢本を見たいが為に千里を遠しとせず人は松坂を訪れた。彼らの多くは経済よりも学問を選んだ人であり、旅の日数も今とは比べものにならぬほどではあった。だから美食や行楽などとは無縁な旅ではあったが、それでも松坂滞在中に、また旅の途中で知り合った人たちとの交流や道中の様子を観察することで、たくさんの藩に分かれていた国が漸く一つになっていくのである。日本版の「グランド・ツアー」である。
さてこの夏も、松阪や近鉄中川駅に蔵書の閲覧、調査のための撮影機材を抱えた人が降り立つだろう。目的地は、松浦武四郎記念館や本居宣長記念館、中には射和文庫という人もいると聞く。
ただ、今の人たちは、目的を済ませたらさっさと帰る。
閲覧者だけではない、目的がグルメでも買い物でも、用が済んだらさっさと帰るというのが今のスタイルである。これは旅でもサイト・シーイング(観光)でもない。
松阪を訪れる人、その目的が肉でも木綿でも、小津安二郎でももちろん武四郎や宣長でも結構だが、主目的プラスαが用意できると、この地の魅力は一層増すはずだ。「おまけ」として、松阪市街地の書店とサロンを紹介しておいた。また、本町のピース・カフェにも大きな本棚には本が並ぶ(ただ、雑多すぎるが、丁寧に探すと町に関する興味深いものも隠れている)。
町歩きに疲れたら、お立ち寄りされた、思いがけない発見があるはずだ。
「本の町・松坂よ、もう一度」である。
今、松阪駅前のベル・タウンに小さな小さな「小濱書店」がある。日曜閉店ではあるが、店内には幻想文学や民俗、民族学関係の本や郷土本も並ぶ。一度のぞいて見ることをお奨めする。
本町、三井家発祥の地の交差点から松坂城跡に向かって進むと、「ほんのきもち」という不思議な場所がある。書店ではく、個人の、だが開かれた書斎であるので、中に主人ががいたら立ち寄られるといい。松阪近在だけでなく様々な情報が集まる場所である。あるじの庄司さんもこよなく本を愛される方である。
カチっと松坂 本居宣長の町|2024.08.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数