COLUMN

24, 見ること、見せること

鑑賞か確認か キャプションのない展示室

 今年の夏は松阪も暑かった。町歩きをしていると強い日差しでクラクラしてきたので、魚町にあるサイトウミュージアムに入った。ここは静かで、展示室も適度な広さ、快適な空間である。
2022年5月に、「旅する絵画」展で開館したこの美術館は、年に二回のペースで企画展が行われている。各回、三宅克己、石井柏亭、村上肥出夫、嵐山という一つのテーマと、その緩やかな関わりから、様々な作家の作品が集められていく。
入り口のポスターに、今の展示は「題名の無い絵画展 2024」とあった。きっと主題を設けずに、たくさんの収蔵品の中から斎藤館長や学芸員の田中さんが選んだ展覧会だろうと展示室に入って、驚いた。また頭がクラクラしてきた。
キャプションや解説が、一切無い。ただ作品だけが壁に掛かっている。ケースに入っている。
手元にあるのは受付で渡された冊子だが、そこには作品の写真と小さな問いかけの文章があるだけ。ふつう、博物館や美術館に行って鑑賞するとき、まず作家名と作品名、資料名を確認してから、初めて作品を見ないか。もちろん「無題」と言うのもなくはないが、先ずそれを確めた上でないと、安心して作品と向かい合うことが出来ない。なんか落ち着かない。
サイトウミュージアム

「サイトウミュージアム」

でも無いものは仕方ない、せめてもの手がかりをと、冊子に書かれた問いかけの文章を読んでみるが、
「画家はなぜこの場所を描こうと思ったのでしょう?」
とか、
「どういうこと?」
「この作品のような視覚体験をされたことがありますか?」
とますますわからなくなってくる。
(これだけでは皆さんも不安になると思うので、見学後にもらった「展示作品リスト」で作者と作品名を書いておく。
最初は、佐分真「南佛風景(B)」1930年頃。二つ目は、佐藤敬「赤絵手アンフォーラ」1948年。三つ目は、中西夏之 「擦れ違い「遠くと近く」」、2011年。)

あきらめて作品を眺めて、何か情報を得られないかと、署名(サイン)を探してみたり、季節はいつかとか、足掻いてみるが、それでも四点、五点と見ていく内に、漸く心が平静さを取り戻し、キャプションを読んで絵を見るのは、鑑賞ではなく確認ではないか、などと余裕も出てきて、だんだん楽しくなってくる。

この他、今回の展示では、荒川修作、駒井哲郎、塩田千春などの作品も展示されている。
松阪でこのような作品と出会える幸せを思う。

『古事記伝』草稿本を見る

展示作品の基礎情報を記した〈キャプション〉。これがくせ者である。
たとえば本居宣長記念館で、キャプション無しの展示をやったらどうなるだろうか。

 これは記念館で現在展示中の一点である。
もちろん歴史史料と美術作品は違う。展示品に史料名も解説もなかったら、見学者は困惑を越えて、不親切だと怒りを覚えるだろう。

 たとえば、もう一度写真を見ていただきたい。
読める読めないは別にしても、写真ならかなり細かく観察することが出来る。

○印で章段が分かれているようだ。
[ ]という記号も使われている。
使用される文字は漢字と片仮名だ。
紙の裏に文字が書かれているようで読みにくい。
最初の文字と最後の方の文字では、字の大きさが違っている。

 だがこれが小説の原稿で、書かれている内容が読めたとするなら、次のページも、その次も読みたくなるだろう。写真版ならそれが可能だ。
つまり特定の頁だけを開くしかない「展示」手法は、特に作品が「書籍」である場合、大きな制約を負うことになる。
さらに見るための基礎知識の必要性の問題。

しかしそれでも展示をするのは、史料と向き合って、何かを感じていただきたいという思いからである。写真や印刷物では伝えきれないものをと展示品を選び、配列を考え、キャプションでは辞書的な記述はなるべく簡略化して、「ここをみて下さい」という「押し」を書こうと学芸員は知恵を絞っている。
展示品の見方に正解はないが、クイズのように何の本か当てるのではなく、先ずキャプションを読んで、それから作品を見る。これがたとえば記念館などの〈一つの見方〉かもしれない。
だが、それはなかなか続かない。やがてキャプションを一生懸命に読んで、作品はチラリと一瞥するだけとなっていく。展示品の持つ魅力を伝え切れていないのである。展示室でこんな見学者を見て情けなくなったことは、幾たび経験したかわからない。

 さて、ここに載せた写真は『古事記伝』草稿本巻17、『古事記』中巻、神武天皇の注である。『古事記』上巻の注釈(16巻・版本では17巻にあたる)が書き上がったのは宣長49歳の秋。その喜びを「此度次十六ノ巻入御覧候、先以神代ノ分一往卒業、大慶仕候」(蓬莱尚賢宛・1778(安永7)年9月19日付宣長書簡)と伝えた。
ここから中巻の注の執筆開始まで2年5ヵ月の間が空いている。この間の休止の理由については、以前、「歴史学者の営み 宣長、『類聚三代格』を探す」(『知っておきたい 歴史の新常識』勉誠出版)に書いた。

さて元号も天明と改まった1781年、宣長は52歳である。この年の本居家の家族構成を書いておこう。 妻・勝41歳、長男・春庭19歳、次男・春村15歳、長女・ひだ12歳、次女・みの9歳、三女・のと6歳。

本居宣長旧宅一階店の間から奥座敷を眺める

写真の空間で、この本居家の七人が暮らしていたのである。ちなみに書斎・鈴屋は翌年の増築なので、まだ無い。だからこの一階のどこかに机を置いて宣長は『古事記伝』を書いていたのだ。昼間の医者の仕事も大忙しで、この前年、記録される医療収入は最高額96両となっている。執筆は、きっと夜だろう。

 たとえばこの史料を前に私なら、

「さて、『古事記伝』執筆再開である。『古事記』も神代から人の世、神武天皇の御代に入っていく。
正月23日、先ず宣長が行ったことは、前年11月22日に清書を終えたばかりの『葛花』草稿本の紙縒(こより)をほどき、裏返しにして紙を準備することであった。『古事記伝』草稿本が反古紙を使っていたのを思い出していただきたい。
昼間の医者の仕事を終えて帰宅した宣長が、部屋の片隅に机を置き、暗い行燈の本で紙を用意し、『古事記』中巻を開き、注を書いていく。隣の部屋の妻や子どもの声も耳に入らぬほど、宣長は集中し書き進めていく。文字が次第に小さくなるのは、集中力の高まりでありましょう」

というように、見てきたような説明する。これなら少しは展示品にも興味を持っていただけるだろうか。

 人に物を見せるのは、難しい。

なぜ鬼面鈴がここに?

  今年6月2日、こんなメールが届いた。

「今、BSの大河ドラマを見ていますが、宋の国の人の宴とやらで、テーブルの脇の小机にあの顔のついた鈴にそっくりのものが・・・」

 「顔のついた鈴」とは鬼面鈴と記念館で呼んでいる鈴である。慌てて確認すると、どうやら場所の設定は越前国の松原客館、平安時代大陸の要人を迎えたといういわば迎賓館である。そこに一瞬ではあるが、確かに手前の小机の上に、鬼面鈴らしき物がうつっている。場所からすると人を呼ぶものであろうか。陶器製のようにも見える。まさか松阪万古製、ではないよね。

「光る君へ」の鬼面鈴?

「鬼面鈴」

この鬼面鈴については、今年2月、「武四郎まつり」の〈離れのお座敷トーク〉で、作家の河治和香さん、射和文庫主人の竹川裕久さんを前に私は、「これは二月堂のお水取りで今も使われている三鈷鐃をもとに造られたものだと思います」など散々語ったのだが、平安時代の小道具に使われているとは驚きである。迂闊なことは言えない。

 物を見せるのも難しいが、また見方も個人差が大きい。興味関心とも関わってくるが、驚くような注意深さで瞬間を捉えていく人もいるのである。

 ぼんやりと生きている自分を恥ずかしく思った。

カチっと松坂 本居宣長の町2024.09.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数