COLUMN

25, 遊歩する国学者

子どもを抱っこして散歩する国学者

開化期、国学者・佐々木弘綱(1828-91)が松坂町で過ごした頃の日記に「遊歩」と言う言葉が出てくる。「フラヌール(Flaneur)」である。
「武士は必要のない時は外に出ない」そうだが、庶民はお気楽。まして宣長は、薬箱を以て往診する毎日。また春は花見、秋は月見に紅葉狩り、歌会に講釈と外を歩きはするが、「散歩」とか「遊歩」とはちょっと違う。これも新時代の風か。

1878(明治11)年1月「四日、空猶曇る、三斎、楽翁と碁打、夕方道具屋遊歩」
同2月「廿七日、藤村と愛宕山遊歩」
1881(明治14)年7月「四日、晴、夕方昌綱と遊歩、又洛翁と碁・・・」

昌綱は明治10年9月晦日生まれ。弘綱の次男である。遅がけに授かった子どもで格別にかわいかったのでもあろう。生後間もない昌綱を抱いて、父はフラフラと松坂の町を歩く。
明治11年1月29日、鍛冶町から魚町にまわり、帰宅。3月4日には、兄の信綱(7歳)が1月から通いはじめた湊学校に何の用事か行き、6月18日には本嘉や知人の天花寺、堀内へ「昌綱をいだきゆく」。
母・光子は家にいる。健康である。子育てを放棄するなど全くない。弘綱には我が子がかわいくてならなかった。「子育て」が好きだったのだ。いまの「パパ」だ。
顔で判断してはいけないが、弘綱の顔は厳めしい。幕末明治初を生きた「国学者」然とした立派な面構えである。
なかなか想像はしにくいのだが、その男が子どもを抱っこし、明治9年師走の伊勢暴動の復興今だしの町を歩くのである。

この弘綱の日記(『佐々木弘綱年譜』)は、皇學館大学神道研究所の「神道資料叢刊」として出ている。そのサブタイトルには「幕末・維新期歌学派国学者の日記」とあるが、開くと驚き、学問や和歌に関わることはごく僅かで、友人と碁を打ち、酒を飲み、芝居に角力、花火に揚弓、三線と遊びは何でもござれの生活だ。その間に子どもと散歩し、本屋を冷やかし、釣をする。
この釣りについては、後年、松阪を再訪した信綱は、

「亡き父と共に釣せし海辺、幼き時にゆきなれし流など、そこここ見めぐりて、たゞ懐しき思ひにふけりゐたり」 「伊勢と志摩と」(『旅と歌と』)

と回想するが、釣果もなかなかのものである。
1879(明治12)年6月14日、「信綱と沙魚釣りにゆく、七十六つりたり」
10月9日「信綱とあたこ川にてあみ打ち」
25日「高町にて網打、鮒百斗打来る」。
また知人と釣りに行って糸巻きを落とし、次の日には信綱を連れ探しに行き、また釣りをする。夕餉のおかずか酒のアテ、きっと世話になる近所にも配ったのだろう。
遊び呆けているようだ日々だが、肝心の学問は、また学校に通い出したばかりの信綱の教育は、はたして大丈夫なのだろうか。

 宣長だって、京都で医術修行時代はよく遊んだ。『在京日記』も、最初の漢文体で書かれている頃は講釈聴講や、会読(今のゼミナール)と学習記事が頻出するが、和文体に変わってからは、寺社参詣、芝居、落語と楽しいことばかりが続く、弘綱とあまり大差がないように見えるのだが、どうも質が違う。宣長は日がな一日それに興じているような碁や釣りはしない。遊んでいても学問の香がする。また遊んだ後は、猛烈に学んでいたであろう。
これは宣長が修学期であり、かたや弘綱は独立してからの違いだろうか。
どうもそうではない、これは二人の目標設定に関わるのではと考える。
国学の世界も、宣長の頃とはずいぶん様変わりした、それは事実だろうし、その必要もあったのだが、宣長や春庭と、弘綱では見ているものが違っていたのである。

佐々木弘綱の松坂に来る

 今の三重県鈴鹿市石薬師、東海道庄野の宿に近い静かな町である。何代にもわたりそこに住まいする佐々木家の当主弘綱は、1877(明治10)年12月、一家をあげて同国松坂に移住した。「佐佐木信綱先生略年譜」には「父が松阪の鈴屋社中の招請によりその監督として就任」とある。ほかの資料でもよく似たことを書くが、この辺りはもう少し検討が必要だろう。

鈴屋社中とは

そもそも「鈴屋社中」の淵源は、京都から松坂に帰った宣長が、翌1757(宝暦8)年夏に始めた『源氏物語』講釈である。やがて『万葉集』、『新古今集』と講義書目は広がり、参加者も増え、また、それまでの嶺松院歌会や遍照寺歌会とは別に主に臨時の歌会も開かれるようになる。
やがて参加者名の名簿が出来、次第に宣長の門人組織が形成されてくる。
昨日までの「仲間」から、「門人」へ。師・宣長、また弟子との意識にも変化が現れてくる。
これを、たとえば上田秋成や、荒木田久老は鋭く衝くのだが、この話はまた別の機会にしよう。
「門人録」が出来ると、やがて入門料や誓詞を交わすようになる。

「社中」は「結社」、「家元制度」でもある。いったん結成されると当事者間の意識にも変化が生じる。これについてはまた何れ述べることもあるだろう。今は触れない。

1801(享和元)年、宣長が没した。残された「社中」を束ねる者には、二つの仕事があった。
一つは講釈や質疑応答への対処。あるいは論争といった、宣長の学問の保持である。これがないと、ただの歌のサークルだ。また、守るだけでは駄目で学問研究を発展させていくことももとめられる。
もう一つは、歌を詠むこと、またその添削である。集まってくる人たちの本心はこちらであろう。もちろん詠歌を学問の基礎に位置づける宣長の学問では、重要な柱である。また何より、宣長追慕の歌会「影前会」という大事な行事もある。

まず最初の、講釈や質疑応答については、失明した長男・春庭にかわり養子として迎えられた養子・大平が主に担当する。大平は、宣長から引き継いだ紀州藩の御用を勤めるべく、やがて一家を挙げて和歌山に居を移す。これを後世「和歌山学統」と呼んだりする。
一方の歌の指導だが、門人層の厚い松坂近郊は、春庭が続けることとなる。

ご承知の方も多いと思うが、実は春庭は、父・宣長の学問を深めていくこと、つまり研究面でも目覚ましいものがあった。そう、詞の研究、今でいう国語学である。
松坂に残った春庭は、妹や秋田からやってきた門人・大伴親久、後年には和歌山からやって来た富樫広蔭が目となり手となってくれて、主著『詞の八衢(やちまた)』を著し、父も至らなかった新しいステージに上るのだが、その研究は「文法」、しかも「活用」研究で、聞いただけで多くの人は倦厭し、理解者は限られていた。広蔭は「八衢醜男」と自称し、この派を「八衢学派」と呼ぶ人もいる。
一方の歌については、門人はどんどん増えていく。歌の結社である。こちらは、大平に始まる「和歌山学統」に対して、「松坂学統」と呼ばれたりもする。

 大平は娘・藤に内遠という養子を迎え、取り敢えず学問のバトン〈学統〉はつながれた。
春庭の実子・有郷は、歌の指導を続けて生活していたが、子どもに恵まれず、亡くなったあとその妻は郷に帰り、松坂本居家は宣長の長女・ひだの孫信郷を四日市から養子に迎えることになった。
信郷は表千家の茶人である。松坂の数寄者の世界では受け入れられ、明治以降は神主も兼ねて松坂本居家は続くのだが、では歌の結社はどうなるか。この会が続かないと、宣長が遺言で指示した「影前会」も危うくなる。
そこで白羽の矢が立ったのが弘綱であった。
弘綱は、春庭の高弟・足代弘訓に学んでいた。名前も「弘」の一字をもらっている。

実践の中で教育する

遊び呆けているようだと私は書いたが、どうやらこれはユニークな弘綱の教育方法だったようだ。
「歌鎖」や、また旅や散歩の中で信綱は、歌の指導者となるべく、徹底して鍛えられていった。

季節は秋、皆さんも旅や遊歩に出ることも増えると思うのが、佐々木家流の旅の仕方を紹介して、今回は終わりにしたい。

「余は幼き頃、父に随ひて屡々旅にいでぬ。その折に父より、国々の歌枕、草の名、鳥の名などを教えられつ。旅は予をして歌人ならしめつといふも可ならむか。されば、ならひ性となりて、旅にいづることを好めど・・・」
『旅と歌と』序「六歳の初旅の後、あるは三州西尾に、あるは名古屋に、伊勢のこゝかしこに伴はれて、途上、その所々の歴史を聞き、今鳴いてゐる鳥は何、この花は何、あの木は何と教へられ、歩き労れては、父が出した下の句に上の句をつけたり、自分の未熟な上の句に、下の句を付けてもらつたり、道々いろいろ教えられることが、この上ない喜びであつた」
『ある老歌人の思ひ出-自伝と交友の面影-』

旅が、信綱を育てたのである。

カチっと松坂 本居宣長の町2024.10.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数