COLUMN

27, 心力を尽くして

「やほよろづのかみ ともにわらひき」と稗田阿礼は語り、太安万侶は「(八)百万神共咲」と筆記した。
速須佐之男命の暴虐に堪えかねて天照大御神は天石屋戸にさしこもり、高天原はみな暗く、葦原中国は悉く闇となった。騒ぐ神々の声は湧きかえり、万の妖(わざわい)が起こった。困りはてた神々は天安河原に集いに集い、思金神の知恵で、天宇受売命が舞う。それを見た神々は高天の原を揺するかのように笑った。『古事記』上巻の一つの山場である。

以前、「吟詠詩舞」という機関誌に、宣長の伝記を連載したことがある。標題の「心力を尽くして」はその標題で、終了後に「第十回『宣長さん』吟詠剣詩舞道大会」記念として、実行委員会により一冊にまとめられた。
本居宣長の代表作といえば、もちろん『古事記伝』である。
写真は版本で全44冊、それを『本居宣長全集』(筑摩書房)では4冊に収めているので、かなり字は細かい。

あいの会「松坂」主催で「『古事記伝』を音読する会」が始まったのが2008(平成20)年1月20日。テキストには、版本のコピーを使用している。何より字が大きいので助かる。
『古事記伝』は、実は小さな文字で書かれたところが、大事で、また面白い。
もう一度、写真を見ていただきたい。
使われている文字の大きさは、ざっと6種。まず『古事記』本文、「(八)百万神共咲」写真の頁には出ていないが、その割注。次に、「常夜往は、登許用由久と訓べし」で始まる「伝」の本文、その割注「等許也未と云ことも万葉十五などにあれど、こゝは然訓むはひがことなり」の4種。さらに振り仮名も本文と伝で2種が使用される。

『古事記』は「読み」である、というのが宣長の信念だから、本文も大事だが、その振り仮名が一番大事ということになる。これを音読すれば、アクセントやイントネーションは違っても、一応、稗田阿礼の語りとなる。
また「伝」の割注は補足説明である。『万葉集』に「とこやみ」という例もあるが、ここではその読みは僻事、間違いだと言う。この割注には「心得おくべし」とか、天石屋戸にお隠れになったことを神避坐(かむざります)、つまりお亡くなりになったと解釈する人もいるが、「もし日ノ神崩りましまさば、此ノ世は滅ぶべし。あなかしこあなかしこ」ああ怖ろしや怖ろしやと言ったり、「これぐらい理解しろよ」と言った宣長の苦言や独り言も書かれていて、読んでいて楽しい。

ところが今の活字本は、大きな文字で書かれたところは読めても、肝心の本文のルビや、「伝」の割注はルーペを使わないと読みづらく、ついつい飛ばしてしまう。
版本は崩し字ではと最初は怖じ気づく人もいるが、一行の文字数も本文は12字、伝は一段落としで22字で、つまり崩し字特有の連綿体は「伝」のごく一部。少しすぐに慣れる。
版本の文字は、版下書によって決定する。
宣長の清書本を板木に彫るための清書が「版下書」だ。細かい話だが、最初は息子・春庭が担当していたが、やがて眼を患い書けなくなった。この版下書きの所為で発病したのだといわれる位、緊張する仕事だ。
仕方なしに宣長が書いたが、何しろ為すべきことの多いので、やがて宣長の次女・美濃、板木職人・植松有信、名古屋で書家としても知られた丹羽勗など何人もの人が動員された。遠州の宣長門人・栗田土満も一冊だけだが書いている。
各巻は宣長の字に似せるように書かれている。ただ土満の書いた21巻は、たしかに上手だが似ていないので違和感がある。
ちなみに、写真の8巻は春庭の筆である。

この会は、あの『古事記伝』を音読!と珍しがられて「Wedge」でも取り上げられたこともあった。今も続いているが、コロナの流行と、遅々として進まぬこともあり、現在は音読は停止し、私が一方的に読み進める。2024年11月現在、第8巻41丁まで進んだ。17年で8冊。末遙かなりである。読むのも大変だ。

だが、書くのはもっと大変だった。
宣長にとっての『古事記伝』執筆とは、「心力を尽く」す作業であった。
その古事記観と回想がよく現れている文章が『うひ山ふみ』にあるので引いておこう。

「まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、ただ、古へよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古学のともがらの、尤尊み学ぶべきは此書也」

一言で言えば、古代を知るには『古事記』が一番、ということである。

「然るゆゑに、己レ壮年より、数十年の間、心力を尽くして、此記の伝四十四巻をあらはして、いにしへ学ビのしるべとせり」

そのことに気づいたので、壮年の頃から数十年の歳月をかけ、心力を尽くして、つまり全身全霊を以て注釈書『古事記伝』を執筆し、古代を知るための案内書としたのだ。

 この「心力を尽くす」という言葉の重さが、今回のテーマである。

 宣長と『古事記』の出合いは、京都で医者の勉強をしていた1756年、27歳の秋にまで遡る。
「(宝暦六年)七月 一,旧事記 一,古事記 十匁二分」
1両はざっと60匁。1両10万円と計算すると16.000円くらいか。両方とも寛永21(1644)年刊行の古書である。

宣長が使った『古事記』
宣長が使った『古事記』。買った時は付箋はなかったが、42年使い続けて、この付箋の数。まさに「心力を尽くす」である。

旧蔵者は神道学者の大山為起であることは、相愛大学の千葉真也さんによって明らかになった。但し、大山の書き入れが宣長の研究に役に立ったか、逆に邪魔だったかは、判断は難しい。
ちなみに、前年9月28日には、『日本書紀』9冊を13匁で買った。但しこの本は、宣長の師の堀景山が自分の本と代えてやろうというありがたい申し出により、手元を離れた。今、本居宣長記念館にある『日本書紀』は、景山旧蔵本と言うことになる。

『古事記』が手に入った。すぐに『古事記伝』執筆に着手かというと、そう簡単ではない。詳しくはまた別の回に譲るが、執筆開始はその8年後の宝暦14年正月であると私は考えている。お世話になった岩田隆先生は、宣長学の泰斗であったが、何事にも結論を急がれず、これについても慎重であった。だが、賀茂真淵との対面「松坂の一夜」の半年後、師への入門手続きも終わった正月12日に、『古事記』の、日は不明だが、同月『先代旧事本紀』を共に度会延佳本を以て校合を終えている。これを「記伝」執筆の最初とするのに問題はないはずだが。岩田先生、いかがでしょうか。
起稿から35年の年月が流れた。

「おのれこの古事記の註は、つばらかなるうへにも、なほつばらかにせんとなん思ひ侍れば、うるさきまで長々しく侍る也。さるは古事記にかゝらぬあたしことをさへ、何くれとかきくはへて、大よそ古学の道は、此のふみにつくしてんの心がまへになん侍る」

 これは、相模国小田原・飯田百頃に宛てた宣長書簡の一節である。1777(安永6)年3月14日発信。詳しい上に、もっと詳しくと思い書いたので、くどくなってしまったと述懐するが、結論を書くだけでなく思考過程まで書いていて、正直なところ、辟易する。

 古事記伝音読の会参加者は、今年の夏から初冬まで約3丁(6頁)に及ぶ「八尺(咫)鏡」の「伝」で、ほとほと参ってしまった。これに比べたら、今の『古事記』注釈のなんとスッキリしていることか。だが宣長は、古学、つまり文献による古代学の大概をこの一冊に書き尽くすという気概で挑んだのである。

 そして、1798(寛政10)年6月13日、最終巻がようやく脱稿した。宣長69歳、暑い夏の盛りであった。
ところで、ただ35年かかったと言っても、コンスタントに書き続けたわけではなかった。その間には、約2年半の中断があった。新年はその話で始めよう。

※冒頭に書いた『心力を尽くして』は手元に残余があります。希望者の方は筆者まで連絡下さい。

カチっと松坂 本居宣長の町2024.12.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数