前回、写真を一枚も入れなかったら、文章だけでつまらなかったと言う甚だ失敬な声があったので、今回はまず写真の絵解きではじめよう。
天津日高日子 波限建 鵜葺草葺不合(あまつひだかひこ なぎさたけ うがやふきあへず)の命が、玉依毘売(たまよりひめ)を娶って生んだ御子の中で、第二子の稲氷(いなひ)の命が、第四子・伊波礼毘古(いはれびこ)の命(後の神武天皇)の後に記載されることを取り上げた個所である。
奥書の閏7月25日は、今の暦で9月15日。署名の下の花押は、よく使われるもので「云」をディフォルメしたものだろう。「寛政七年・・」は版下書を終えた日である。1795年、約20年後の清書(版下)でも、訂正はほとんど無い(といっても版下が残っているわけではない。版下は裏返して板に貼り彫刻するので、残らない。ただ筆跡や内容は版本に反映されているのである)。
閏7月25日は、松坂新町にある樹敬寺塔頭・嶺松院歌会の定日で、この席で宣長は「鏡」の題で、
という歌を詠んだ。神の子孫が治めるこの国の威光は益々輝くと言祝ぐ歌である。
また9月19日の荒木田尚賢宛書簡では、
何はともあれ神代の所は一応書き終わった、と喜びを伝えている。
尚賢は、一等早く『古事記伝』の凄さに気づき、それを義父・谷川士清にも伝え、また宣長が書き終えた所から写本し、それを人にも貸し出した伊勢の御師である。
「領納」とは受け取ったということ。「思召云々」は、『古事記伝』巻14を返す際の、感想はまた後日、と云う言葉、それを受けて、ぜひお願いします、と宣長は懇望する。
宣長のネットワークは、この安永から天明年間に全国に広がっていくが、荒木田尚賢、荒木田久老、荒木田経雅、この三人が宣長の学問に果たした役割は、群を抜いている。この時期の宣長が校合や写すのに使った本の多くは、この三人のいずれかが関与している。
余計なことだが、同じ神宮に奉祀して、また関心事も近いのだが、三方、相互には余り表だって密接な交友はなく、逆に宣長を交いして互いの情報をやりとりしている。近ければ親しいというわけにはいかない。人間関係はとかく難しい。
さて「神代」が終わった。
『古事記』や『日本書紀』に書かれる神々の時代は、茫漠として時間の流れは、あって無いようなもの。ところが人の代となると一転して暦が出てきて、時間の観念がはっきりとしてきた。正史『日本書紀』においても、人の代となる神武天皇以降は年月日が記されるようになる。
もちろんこの年月日について宣長は「いといと心得がたし」(承伏できない)と『真暦考』で言うのだが、それはともかく、暦が使われると、文字の使用も始まり、必然的に関係史料は増えてくる。これまでの神代の巻では「信じる心」と「頭の中で思い描く力」が試されたが、人の代では、何といっても「情報」である。時代が下るほどにその量は多くなる。頭を切り換え、机辺の史料を整える必要がある。
だから執筆休止の期間は、「休養」というより「充電期間」と言うべきか。
上巻の注を終えた宣長は、取り敢えず、安堵した。また、幸か不幸か医者の仕事も暇があった。先の書簡にはこんなことも書かれている。
尚賢の住む伊勢の宇治(今の内宮周辺)あたりは病人が多いと聞くが、松坂はさっぱりで、とても暇だ。本が読めると喜んだり、育ち盛りの子供五人をもつ親としては心配になってきたりしている。
宣長にとっては、しばしの休暇であった。
年が改まると、宣長は活動を再開する。
まず、手元の余り紙を使って『学業日録』というノートを作った。読んだり写したり、校合したりした本の記録である。このようなノートを作ると云うことは、宣長の中でもこの時期の特殊性が認識されていたと謂うことである。
最初は、「○『千載集』一返ヨム【但シ歌バカリ】」で始まり、○『堀川百首』、○『同次郎百首』、○『新古今』【歌バカリ】、『六家集』、続いて『分域指掌図』三、『台記大嘗会別記』一、○『台記同別記』」と続く。
宣長の好みの歌集が並ぶ。幾度も読みなれた本である。これは準備運動のようなものだが、見逃せないのが左大臣・藤原頼長の『台記大嘗会別記』である。この中に「中臣寿詞」という極めて古い祝詞があるのを、宣長は見逃さなかった。
この祝詞は精写され、随筆『玉勝間』の冒頭を飾ることになる。
この後も『備前石上社考【一】』、○『六百番歌合』【歌バカリ】、中には『明和改元略記』【一】などいう今でいう時事ネタの本と様々な本を開く。珍しいところでは、『唐六典』なども披見している。
なかでも目を引くのは、「摂津国図」、「伊勢国図」などの絵図類と、『倭名類聚抄』、「六国史」の一部、『貞観儀式』、『類聚三代格』、『お湯殿の上の日記』などの歴史の基本史料の校合、書写である。
絵図類は、父の遺伝か春庭が地図が好きで、父の指示だけでなく自分の好みで写したものも混じるようだが、それをも父は入念に点検し加筆する。
さすがである。
歴史の基本史料は、『古事記伝』執筆の基礎作業となる。謹直な筆跡の『倭名類聚抄』や、「六国史」の奥書の二、三を挙げておこう。
同9月3日、六国史の『日本文徳実録』を校合し架蔵本の脱落部分を補った。手沢本には、宣長の筆で「此処疑ラク有落脱、可考他本(此の処、疑うらく落脱有り。他本を考うべし)」とある。この度の校合で懸案が一つ解決された。補った紙は柱刻まで丁寧に書かれていてきちんと貼ってある。
同年11月29日、やはり六国史の一つ『日本三代実録』を宮崎文庫本で校合した。この文庫は、豊宮崎文庫、外宮の文庫である。
同年12月10日、『倭名類聚抄』を古写本で校合した。書き入れの各所に「古本」という字が加えられている。写真は奥書と「古本毎巻ノ首題号ノ下ニ源順撰ノ三字アリ」と書かれた部分。
この他にも『日本書紀』、『続日本紀』、『宇治拾遺物語』、『徒然草』など片端から読み、写し、校合している。その冊数は『学業日録』には、安永8年「写本合三十巻」、安永9年「写本合廿四巻」、安永10年「写本合八冊」とあるが、カウントされたのは一部に過ぎない。
とても充実した休暇である。今の大学の先生ならサヴァティカル・イヤーだが、その期間に先生方は「六国史」や「二十一代集」など読んでおられるのだろうか。
最後に、春庭に写させた『浜松中納言物語』の奥書を載せておこう。四ヵ月位かけ写しているが、父は、筆跡は幼く読み分け難いところがあると厳しい評価である。
「此はま松の中納言の物語四まき、去年の冬頃より春庭にいひつけて写させつ。手まだいと幼く初々しげにて、見わきがたき所多かり。又、本より文字落ち、ひが写しなど多くて心得難き事のみぞ多かるを、かくもやあらんと思しき所々は、そのよし傍らに書き添へ一わたり読み合わせつ。安永十年辛丑三月十四日、本居宣長」
翻字の用字は読みやすく改めた。写真と比べて読んで頂きたい。内容に合わせて奥書も和文体、筆跡で歴史書などとは当然、異なる。
この奥書を書いた安永10(天明元・1781)年正月23日には、宣長は既に『古事記伝』執筆を再開している。
カチっと松坂 本居宣長の町|2025.02.1
前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数