COLUMN

9,「松阪」で育つ

「松坂」は学問の町」の続きである。
私は、「教養が感覚や趣味を洗練させ、幅や深みが増すことは間違いない」と書いた。
丹羽保次郎も、また宣長と同じ魚町一丁目に生まれ育った日本画家の宇田荻邨(うだ てきそん)も、良き感化をこの町から受けて、立派な仕事を残した人である。
宇田荻邨は、丹羽保次郎に遅れる事3年、明治29(1896)年に生まれた。
こんな回想を残している。

(鈴屋は)私達の少年時代は出入も自由で、よくこゝに遊びに行つたものです。古事記伝を書いたといふ二階の狭い四畳半の部屋に遊ばせて貰ひ町の故老から、有名な古事記伝は卅年もかかつてここで書き上げられたのだ、といふことを話して貰つたりしましたが、その度ごとに少年の心に、何ともいへぬ深い感銘を受けたことを今も覚えてゐます

「鈴屋の憶ひ出」

魚町の宣長旧宅・鈴屋は、明治42年、火災から守るために松坂城跡・隠居丸に移築された。今では、厳重に管理されている鈴屋だが、佐佐木信綱少年は、大人に交じってここで開かれていた歌会に参加し、丹羽保次郎少年は、一階の店の間で宣長の末裔・高尾信世から補習授業を受け、宇田善次郎(後の荻邨)少年は、旧宅を遊び場としていたのだ。

それにしても、素晴らしい話でないか、同じ町内の老人が、

《坊主、悪さばかりしてないで、この二階に上がらせてもらえ。
ここでなあ、宣長先生という偉い方が、三十年もかかって『古事記伝』という立派な本をお書きになったのだぞ》

などと話す。これは最高の教育である。

私は記念館に勤めていた頃、公民館で話をする機会が多かった。
その時、聴衆にお願いし続けた事がある。
今日の私の話を、家に帰ったら子どもや孫に、必ず皆さんの口から話してやって欲しい。できれば今度の休みの日にでも、城跡に連れて行って「鈴屋」を見せてやってほしい、と。
身近な人から聞く話は、たとえ細部には間違いがあっても、格別のものだ。
学校の先生の話にはない力がある。ましてや普段は小言しか言わず鬱陶しがられている人が、「偉い学者」の話をするなど、後にも先にも無いことだろうから、一層記憶に残るはずである。

「没後40年 宇田荻邨展」の図録

三重県立美術館で開催された
「没後40年 宇田荻邨展」の図録
本来、2020年4月開催予定であったが、コロナ蔓延で、翌年に持ち越された。

もう一人、少年期に鈴屋体験をした人を紹介しておこう。映画監督の小津安二郎である。
安二郎と松阪の関わりは、このコラムの「ぷらっと松阪 不足案内」第三話「一陽来復……小津安二郎 青春の町」をご覧頂くとして、15歳の4月5日の日記には、

《兄と別れて公園に行く 桜は奇麗に咲く、寛一と相〔合〕ふ、鈴廼舎にて休んでぶらんこにのり、本居神社かり〔ら〕松阪神社に行き桜を見て家に帰る》

大学者の家で昼寝でもしたか、と叱られそうだが、満開の桜で学問どころではなかったのだろう。その一ヶ月後は、学校の遠足の帰りがけにまた鈴廼舎に寄り、

《本居翁の遺物を見る》

とある。どこまで関心があったのかは大いに疑問だが、取り敢えず見ている。
このような青春期の貧弱な宣長体験だが、安二郎の心の中には澱のように沈潜していたようで、後年、自作の「秋日和」について語った時の、

《僕のテーマは“ものの哀れ”という極めて日本的なもので》

という発言に、宣長の「物のあはれを知る」という大変有名な文学観との関連性を見るのも、的はずれではないのだろう。

 宣長が云う「あはれ」は必ずしも悲しみ、悲哀だけではない、心を揺さぶるような痛切な体験を指す用語だが、同じように松坂商人の家に生まれ、商いを断念し、文学へ、映画へと進む二人に共通する思いを私は見ている。

『小津安二郎』平山周吉
『平野の思想・小津安二郎私論』藤田明

 写真は、小津安二郎生誕120年、没後60年の今年刊行された『小津安二郎』、作者は平山周吉(もちろんペンネームである)。その第2章「和田金と宣長と「東京物語」の松阪」は、安二郎と松阪、そして宣長との関わりを知る良きナビゲーターの役割を果たしてくれている。できればそこから、もう一枚の写真の藤田明『平野の思想 小津安二郎私論』(ワイズ出版)に進まれることをお奨めしたい。伊勢人の書いた、伊勢人にしか書けない出色の小津安二郎論である。

連載の第一回、「本町 生誕の地」でも書いたが、歴史や文学に於いては舞台となったその場所に立つと言うのは大事なことだ。
地形は変わっていても、人には「思い描く」と言う方法がある。「場所の力」を感じるのである。
もう20年も前の話だと記憶するが、修学旅行に松阪を訪れた大坂の小学生を前に、威勢の良い松阪観光ボランティアガイドが、魚町宣長旧宅後の大地を力強く踏みしめ声を張り上げ、

《みんなが立っているこの場所を、宣長さんも歩いていたのだ》

と言っていたことを思い出し、今も深い感慨を憶える。

魚町一丁目。右側が本居宣長旧宅(鈴屋)跡。
「旧宅」は松坂城跡隠居丸に移築。
宣長の大切にしていた松の木は今も残る。
左手には、宣長の友人で代々御目見得医だった小泉家が見える。
この界隈には、彫刻家・藪内佐斗司の作品も控えめに置かれているので、探すのも楽しみ。

こんなことがあった。
23歳で医術を学ぶために京都に出た宣長は、契沖の『百人一首改観抄』を読み、衝撃を受ける。そしてこれが古典研究者としての出発点となった事は、宣長自身の回想にもある。 賀茂真淵との「松坂の一夜」と並んで、宣長の生涯の中でも指折りの重大事件である。

《契沖ノ説ハ証拠ナキコトヲイハズ。他ノ説ハ多クハ証拠ナシ》

これは宣長自身が『百人一首改観抄』に書き入れた言葉だが、証拠主義。典拠、出典を挙げて論証すると言う方法に、宣長は参ってしまった。
やがて宣長は、その契沖の説を乗り越え、また次の師となる賀茂真淵の説をも批判していくことになる。「学問は進んでいくのだ」と宣長は言う。
そして大恩あるはずの契沖も、「次の研究者の目からは、役立たずの馬と同じだ」などと酷い事を言うのだが、だが、学問成果は批判しても、契沖その人への感謝の念は、決して忘れていない。
契沖の住まいを「円珠庵」という。大阪市、近鉄日本橋駅からほど近いところに、鎌八幡という名前で知られる寺院として今も残る。
64歳の時、大坂を訪れた宣長は、「円珠庵」を訪ねたく思うが、日は暮れて、宿も遠かったので諦めた。そのことは『玉勝間』巻7、契沖の墓誌を載せた所に記される。

円珠庵といふは、大坂の高津(かうづ)のうち、餌指町といふところにて、此法師の墓は、その庵のしめの内、竹村のかたはらにありて、まへにこの碑は立てりとぞ。おのれさいつころ大坂にゆきて此高津のわたり物せしをり、いかで立よりて、此墓も拝まばやと思ひしを、日暮れかたになりて、やどれるところも、ほど遠かりければ、道いそがれて、え物せざりきかし

『玉勝間』七の巻「契沖ほうしに墓のいしぶみ」

だが宣長は諦めない。次のチャンスを待つ。
念願が叶ったのはそれから8年後の寛政13(1801)年であった。

(寛政十三年二月)○廿五日、晴天
一、高津宮、円珠庵、天満の天神等に詣、今日大坂逗留

『寛政十二年紀州行日記』

和歌山での御前講義を終えて大坂、奈良経由で松坂に帰り、3週間後には再び京都での講釈に出発するという慌ただしい日々の中で、なぜ主もいない「円珠庵」にこだわるのか。
そこには、契沖法師がいるからだ。他の人の目には見えなくとも、宣長の心の目にははっきりと像を結ぶ事ができた。おそらく感謝の心も述べる事ができたはずだ。
これも宣長のいう所の、「物学びの力」である。
奇しくも契沖没後百年となるこの年の9月29日、宣長は黄泉の国へと旅立つ。

 契沖や、「物学びの力」については、また改めてお話しすることもあるだろう。

カチっと松坂 本居宣長の町2023.06.1

プロフィール

吉田 悦之

前 本居宣長記念館 館長
國學院大学在学中からの宣長研究は45年に及ぶ
『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館) 『宣長にまねぶ』(致知出版社)など著書多数